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乙巳の変(大化の改新)の真相

●日本書紀に記述された乙巳の変とは?

 日本書紀による乙巳の変は、次のように、645年、中臣鎌足(後の藤原鎌足)が中大兄(後の天智天皇)とはかって、天皇をないがしろにする蘇我蝦夷・入鹿の父子を滅ぼしたと記述している。

・この年に、蘇我大臣蝦夷は自分の祖廟を葛城の高宮に立てて、 八佾(やつら)の舞をし、最後に歌を詠んで、「大和の 忍の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らふも」と言った。また、国中の民、併せて百八十の部曲を徴発して、あらかじめ双墓を今来に造り、一つは大陵といって大臣の墓とし、もう一つは小陵といって入鹿臣の墓とした。死後に人を煩わせることのないようにと望んだのである。また上宮の乳部の民をすべて集めて、墓地の労役に使った。ここに上宮大娘姫王(うえのみやのいらつめのひめみこ)は憤慨し歎いて、「蘇我臣は国政をほしいままにして、多く の無礼をはたらいた。天に二つの太陽がないように、国に二人の王はない・どうして勝手にことごとく上宮の部民を使うのか」と言った。これより蘇我臣は恨みをかい、蝦夷と入鹿は遂に亡ぼされた。

・中大兄は自ら長槍を取って大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子連たちは弓矢を持って中大兄を守護した。

・中大兄は子麻呂とともに入鹿を剣で斬り割き、入鹿が天皇に「皇位に座すべきは天の御子です。私に何の罪がありましょう。どうか調べてください」と申し上げたところ、天皇は大そう驚かれ、中大兄に証して、「なぜこんなことをするのか。いったい何事があったのか。」と仰せられた。中大兄は地に伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は天皇家をことごとく滅して皇位を傾けようとしました。どうして天孫を鞍作に代られましょうか」と申し上げた。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿臣を斬り殺した。

・己酉(十三日)に、蘇我臣蝦夷らは誅殺されるにあたって、天皇記・国記・珍宝をすべて焼いた。船史恵尺はとっさに、焼かれようとしている国記を取り、中大兄に奉った。この日に、蘇我臣蝦夷と鞍作の屍を墓に葬ることを許し、また哭泣も許した。

●乙巳の変は蘇我大王(天皇)暗殺であった!

 乙巳の変は、次の3つの理由から、大王(天皇)であった蘇我氏を暗殺し亡ぼしたクーデターであったと言える。


1.石渡信一郎氏は著書「聖徳太子はいなかった」において、蘇我氏が大王(天皇)家であった根拠として次の7つの証拠を上げている。(要約)

その1 中大兄・中臣鎌足らが、蘇我氏の分家の蘇我倉山田石川麻呂をクーデター派に引き入れなければならないほど蘇我氏の権力基盤がきわめて強固であったこと。

その2 「日本書紀」は、継体系王統を倭国の唯一の王統と主張するため、蘇我氏の祖である昆支系王統の存在を隠したと思われること。

その3 記紀の神話に登場するスサノオは、昆氏の霊であるとともに、蘇我氏の象徴であること。

その4 蘇我馬子の子孫が、何人も天皇になっていること。

その5 蘇我馬子が飛鳥寺という大伽藍を造ったことは、仏法の興隆が王権の強化に役立つと考えられること。

その6 大和飛鳥にある石舞台古墳は蘇我馬子の墓とみられているが、巨大な横穴式石室であり、造営された場所や規模からみて大王(天皇)の墓とみられること。

その7 蘇我氏が大王(天皇)家をしのぐ武力や財力をもっていたことは、むしろ蘇我氏が大王(天皇)家そのものであった証拠であること。


2.海音寺潮五郎氏は著書「悪人列伝 古代篇」の蘇我入鹿の項において、当時、天皇は皇極天皇と蝦夷天皇の二人がおり、蝦夷が天皇になっていた証拠は、次のように日本書紀の記述に歴々と指摘することができるとしている。(要約)

その1 蝦夷が百済大寺の南庭において、皇極天皇と同じように雨乞いを行ったこと。

その2 蝦夷が葛城の高宮に先祖の廟を営んだ時、天皇のみが行える 「八佾(やつら)の舞」を舞わしたこと。

その3 蝦夷が天下の民とすべての氏族の私民を徴発して大小二つの墓を作り、自分の墓を大陵(おおみささぎ)、入鹿の墓を小陵(こみささぎ)と呼ばせたこと。

その4 蝦夷に国内の神職らが「神語入徴言説」をのべたが、一々聞けないほど多数であったこと。

その5 白雀が蝦夷に献上されたり、一茎に二花をつけた蓮が生じたのを見て、蝦夷が「これはまろの家の栄える瑞兆だ」と言って、これを金泥で画かせて大法興寺に献上したこと。

その6 蝦夷が最上の位階である紫冠を入鹿に授けて大臣とし、次男を物部の大臣としたこと。

その7 甘樫の岡に邸宅を二つ営み、蝦夷の家を「うえのみかど」、入鹿の家を「谷(はざま)のみかど」と名づけ、自分の子らを「王子(みこ)」と呼ばせたこと。

その8 乙巳の変(645年)の直後、孝徳紀に「・・・末代澆薄、君臣序を失へり。・・・自今以降、君に二政なく、臣は朝に弐にすることなからん。・・・」と記述されていること。

※海音寺氏以外の研究家が指摘する通り、甘樫の岡の蘇我邸宅に「天皇記」「国記」が保管されていたこと も、蘇我氏が天皇であった有力な証拠であると考えられる。


3.『隋書』倭国伝によれば、次のように遣隋使を送った「日出處天子」は男王であるため、当時の女帝である推古天皇はいなかったことになり、替わりに当時最高権力者である蘇我馬子が大王(天皇)であった可能性がある。

・開皇二十年(600年)、倭王は「姓阿毎字多利思比孤」と呼ばれる男王であり、「王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利」 とあるように、倭王には妻、後宮、太子がいた。

・大業三年(607年)、「其王多利思比孤」は遣使朝貢し、「其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。」とあるように、「日出處天子」である「姓阿毎字多利思比孤」が遣隋使を送った。

・翌年(608年)、隋の上(天子)は裴世清を使者として倭国に派遣した。
倭王は裴世清と相見え大いに悦び「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。・・・」と言った。


 以上から、 遣隋使を送った「日出處天子」は太子でもなければ、女帝である推古天皇でもないことになる。
となると、当時の最高権力者は蘇我馬子であるから、 「日出處天子」は蘇我馬子である可能性がある。

さらに蘇我馬子(蝦夷、入鹿も同じ)という名称は、 「歴史は勝者によって作られる」ということを考慮すれば、藤原不比等が蘇我氏を蔑視し、あるいは歴史上から抹殺するために捏造した恐れがあるため、「姓阿毎字多利思比孤」が蘇我馬子の実名(倭名)であった可能性がある。

従って、推古天皇から乙巳の変までの欽明天皇、特に女帝である皇極天皇は実在しないと考えた方が真実に近く、当時の最高権力者である蘇我氏こそが大王(天皇)家であったと考えられる。

また近年の研究では、天皇という称号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。


※石渡信一郎氏は著書「聖徳太子はいなかった」において、 『隋書』倭国伝に記述された「姓阿毎字多利思比孤」は当時の倭国の大王蘇我馬子であったと述べている。また、「蘇我馬子は天皇であった」という同氏の著書もある。


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