おはようございます。
今朝も暑くなりそうな東京ですが、昨日に比べれば気温は少し低くなるようです。ただ、湿気が多くなり、蒸し暑く感じるかもしれません。
さて、昨日は中国の水をめぐる古代の知恵を紹介していきたいということで、文章を締めくくらせていただきました。それを受け、本日は、直接水に関係するわけではありませんが、中国の戦国時代に活躍した魏国の政治家である西門豹についてご紹介したいと思います。
西門豹の生没年は不詳ですが、魏の文侯(在位:紀元前445年-紀元前396年)に仕えていたので、大体の活躍時期が分かるかと思います。魏の文侯は歴史的にも名君として称えられ、晋国から趙、韓ともに分かれたばかりの魏を一大国にし、その配下には李悝(李克)、呉起、楽羊といったそれぞれに秀でた人物がいました。「孫呉の兵法」といわれる「呉」とは、呉起のことです。
文侯に仕えた西門豹は、当時水不足に苦しんでいた鄴(ぎょう、現在の河北省邯鄲市臨漳県から河南省安陽市にまたがった地域)の令(知事)に任命されました。鄴での逸話はいくつかありますが、特に灌漑水路工事にまつわる話は有名です。
あるとき、西門豹は漳水という河から鄴の田畑へ水を引く灌漑工事を始めます。これまでも何とか農作物を育ててきた村人たちは、この大事業に対して、そこまで苦労して工事をする必要はないと不平不満を漏らします。しかし、就任以来住民の信頼をかち得てきた西門豹のいうことなので、渋々ながら工事を行います。
その際、西門豹は「民可以楽成、不可与慮始(民はその成果を楽しませるのみ、その始まりを計るべからず)」と言います。「民とは結果をともに喜ぶことはできるが、その始まりを共に考えることはできない」、結果として住民やその子孫のためになるのなら、初めからその目的を分かってもらう必要はないということです。
結果として、灌漑工事の成果を認めた住民によって合計12本の水路が造られ、そののち鄴の農業は大きく発展して、魏が強国となるのに多大なる貢献をしたのです。この水路は後々まで使われ、現在でもこの地域は水不足にはならないと言われています。
智恵のある人が、世のためを思い、また人々の幸福を思って何かを始める場合、それまでの常識とは全く異なった発想や手法を用いることがあります。凡人にはその先が見えないのですが、それでもその人を信じて行うことにより、結果的には理想的な社会が実現し、人々が幸せになることにつながるわけです。
誰を信じるかは、その人の行いをみればわかります。西門豹は清廉潔白な政治家として有名で、最終的には中央の役人に賄賂を贈ることを拒み、鄴の令を退くことになります。その地位に固執することなく、自分の信念を貫く精神に感銘を受けます。
高見澤