2016年6月アーカイブ

 

おはようございます。

今朝の東京都心は曇り。雨はまだ降っていませんが、梅雨を思わせる天気です。都心もそうですが、関東に水瓶にも少し多めの雨が欲しいところです。これから夏にかけて、水不足が心配です。

 

さて、昨晩、皆さんは何を食べましたか? 私は麻婆豆腐、カレイの唐揚、刺身が少々と味噌汁、たくあんでした。皆さんも思い出せるようでしたら、まだ認知症にはなっていませんので、ご安心ください。私自身、最近は物忘れや勘違いが多くて困っています。これも五井野博士がよく指摘されるように、放射能の影響かと思うところですが、人に言わせれば「歳」だとか...。

 

今、世界中の食材には、自然に生育すれば入りえないさまざまな物質が混入しています。食品添加物や農薬、化学肥料などの化学物質、重金属、それに放射性物質などです。一方、我々が、本当に美味しいと思うのは、やはりその土地の自然の中で育った季節の食材のうま味を活かした料理を、楽しい雰囲気の中で食するときではないでしょうか。いわば「地産地消」、「旬」、「家族団らん」です。

 

ところが、現代社会は農業技術、輸送交通や物流技術の発展(?)により、季節や場所に関係なくいろいろな食材が手に入り、外国の珍しい野菜や果物でさえ、そこに行かずに味わうことができるのです。時代が進歩したと言えばそれまでですが、本当にそれで良いのでしょうか? もちろん、そうした体験ができること自体は素晴らしいことだと思いますが、そうした生活スタイルが定着してしまうことに、危惧せざるを得ません。

 

農薬や化学肥料、食品添加物等について、日本で最初に問題視されたのは五井野博士です。それまでにも、米国では1962年に生物学者のレイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson)が"Silent Spring"(『沈黙の春』)という著書の中で、DDTをはじめとする農薬や化学肥料の危険性を訴えてはいましたが、重金属や食品添加物まで踏み込んだのは五井野博士が初めてではなかったでしょうか。実際には博士は、富士五湖での魚腹の「穴あき病」を調査、発見して環境問題として世間に訴えました。そして、そのことが、その後の環境活動の原点の一つになったのではないでしょうか。

事実、日本は高度経済成長期に四大公害病と呼ばれる重金属や難解性の化学物質による病気で苦しむ人が多くいました。今ではその原因が化学工場から排出された有機水銀やカドミウム、SOxNOxなどと特定されていますが、当時、企業側はそれを否定していたのですから、その罪の重さは尋常ではありません。

 

農薬や化学肥料を使って育てた野菜や果物の味は非常に薄い感じがします。つまり、味とともに栄養価も少ないのではないかと思います。ですから、身体が栄養を欲して、食べる量を増やすことで栄養を補おうとします。ところが、量をたくさん撮るということは、その分カロリーまで摂取してしまうことになります。新陳代謝が旺盛な若いときはまだしも、歳をとってからでは摂取したカロリーを消化できずに身体に溜まり、それが肥満の原因になるのではないかと思うのですが、皆さんのお考えは如何でしょうか?

 

塩と高血圧との関係もこの理論が当てはまります。このことは又聞きですが、以前、五井野博士が話されたという話を紹介しておきましょう。

専売公社が売っていたイオン交換法で作られた塩は、いわゆる「塩」ではなく化学物質の「塩化ナトリウム」で、ミネラルなどはまったく入っていません。人間の血液は、海水の中のミネラルの成分構成とほぼ同じで、ミネラルが足りなくなると身体が自然に塩を欲するようになります。海水から作られた自然塩は、いろいろなミネラルが含まれていますので、身体はそれで満足して必要以上の塩を欲しなくなります。

ところが、単なる塩化ナトリウムだと塩辛い味だけはしますが、その他のミネラルが入っていません。ですから、身体は塩をさらに要求します。しかし入ってくるのは塩化ナトリウムだけですから、不足状態は続き、さらに塩化ナトリウムを摂取するという悪循環に陥ります。それが高血圧につながるのだと。

塩化ナトリウムは水溶性で、多少多く取り入れても汗や尿として排出されますが、それにも限度があります。

 

そして、現代農法で栽培された野菜や果物には、微量ですが農薬が残っています。また、生産地から消費地までの長い流通時間を踏まえ、品質や外観を保つようこれもまた微量ですが防腐剤、保存料、防虫剤、発色剤、防カビ剤、酸化防止剤、甘味料、香料等ありとあらゆる食品添加物が入れられています。

これらの化学物質の多くは石油から作られています。これらは脂溶性ですから、水溶性の物質と違って汗や尿として排出されにくく、徐々に身体に蓄積されていきます。そして、その蓄積が限界点を超えたときにガンなどの病気として発症、という過程をたどるのではないでしょうか。

 

もちろん、西洋文明が入ってくる江戸時代以前には、このようなことはありませんでした。やはり人間は自然とともにあることが、最も基本的な前提ではないでしょうか?


高見澤

 

おはようございます。本日の東京は雨、天気予報では夕方には一旦止みますが、夜にはまた降り出し、しばらくは雨日和となりそうです。水不足が心配される関東ですが、これで少しは水瓶に雨水が溜まるかもしれません。ただ、根本的な水不足の解決には至らないでしょう。

 

黒木さんよりのコメント、ありがとうございました。私も仕事を抱えながら生活していく中で、東藝術の活動に共感しながら勉強し、活動に参加している喜びを感じているところです。これからも、江戸に係る情報発信に努め、会員の皆様と一緒に勉強に励めればと思っています。

 

さて、これからしばらくの間は、私お得意の中国の話を交えながら江戸の料理・食事についての話題を提供していきたいと思います。

最近、気持ちは若いつもりでも、身体や思考が以前のように思うように働かないことに気付かされます。五井野博士が言われるように、これも放射能の影響ではないかと思うのですが、世間的な常識から言えば(正しいとは限りませんが...)、55歳にもなれば「やはり歳なのかな」と感じるところなのでしょう。

 

人間、歳を重ねてくると、経験が深まる分、世間のことがよく分かるようになり、社会的な出来事に対して若い時のような新鮮さや驚きが感じられなくなります。しかし、歳をとっても不思議と腹は減るもので、食べることの楽しみは依然として強く感じられます。

最近、人間にとっての幸福感というものは、どういうものだろうと考えるとき、美味いものを食べて「これは美味いなあ!!」と感動を覚えたその時の感覚こそが、所謂「幸福感」というものではないかと思うようになりました。

 

「衣食足りて礼節を知る」ではありませんが、人は食べられるようになると、より質の高い生活を求めるようになります。食べ物が豊富になれば、またそれを如何に美味しく頂くか、というところに発想が向かうようになるでしょう。

まさに江戸は、一般庶民までもがそのような時代を迎えていたと言っても過言ではありません。そして、素材や調理方法、食に対する考え方など多くの文化は、中国から伝わってきたものです。それをまた日本人の口に合うように工夫を重ねて、独自の食文化を生み出したのも我が日本人の祖先たちです。

さあ、これから食を探る旅に出発です。

 

高見澤

 

おはようございます。

先週木曜日、金曜日は仕事の関係で瓦版を発信できませんでした。

我が職場も、秋の日本経済界の訪中代表団派遣の準備でこれからが本番になりますので、時々は発信できないこともありますので、ご容赦の程よろしくお願いします。

 

さて、先週は英国のEU離脱という大きなニュースが世界を震撼させ、世界の株価が同時暴落、円高が急速に進みました。英国の離脱は、政治的にも経済的にも世界に大きな影響を及ぼすだろうとの見方から、こうした大混乱が世界中で生じたわけです。

 

英国は、正式な英語名は"United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland"、これを日本語で言えば「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」となります。長い名前ですね。

総面積は24.4万平方キロで日本(37.8万平方キロ)よりも小さく、人口は6,500万人弱と日本の半分程度です。しかし、世界に対して政治的、経済的に及ぼす影響は極めて大きく、米国、ロシア、中国、フランスとともに国連の常任理事国としてその務めを果たしていることは周知の通りです。

英国の統治形態は、立憲君主制に基づいた議院内閣制を採用しています。現在の君主は皆さんご存知の通り、エリザベス2世(1926年4月生まれ)、女王です。王位に就いたのが1952年2月ですから、在位は64年にも及んでいるのです。

 

ところでこの英国ですが、4つの国で構成されていることはご存知でしょうか? イングランド、ウエールズ、スコットランド、そして北アイルランドです。イングランドの首都はお馴染みのロンドンですが、その他3つの国にもそれぞれ首都があり、カーディフ、エディンバラ、そしてベルファストです。

この他にも、ガーンジー、ジャージー、マンなど王室の属領、さらにはフォークランド諸島、ジブラルタルなど14カ所の海外領土も合わせて有しています。かつての「大英帝国」時代の名残が生き続けており、それがイギリス連邦という形で残っているのです。

 

今回のEU離脱の是非を問うた国民投票では、年齢層や地域によってかなりのバラつきがあったようです。年齢的には年齢が高くなればなるほど離脱派が多く、地域的には北側(スコットランド)に非離脱派が多かったようです。

英国といっても決して一枚岩ではなく、映画「ブレイブハート」にも象徴されているように、無理やり併合されたスコットランドや北アイルランドは、今でも独立に向けた動きがみられ、一部の過激派によるテロも起きることがあります。

 

EU離脱問題は、確かに地球の裏側での話ですが、インターネットの普及など通信技術の発達でグローバル化が進む今日、決して他人事ですませられる時代ではなくなっています。

江戸時代という過去に学ぶことも重要ですが、現在世界で起きている生の現象にも目を向け、過去の経験から問題を瞬時に見つけ出す訓練が必要です。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、天気予報では午前中に雨が降り、午後からは再び曇りとなっています。比較的過ごしやすい天気ですが、やはり歩くと多少なりとも蒸し暑さを感じます。

さて、本日は「ゾンビ」についてお話をしたいと思います。

日本では最近「スマホゾンビ」という言葉が使われるようになりました。街を歩くと、スマホをみながら歩く人が多く、回りをほとんど見ていません。電車や地下鉄の駅では気付かずに、駅のホームから転落する者もいるようです。そこまで夢中になる意味がどこにあるのでしょうか?

はっきり言って、私には全く理解できない行動です。正直なところ、無意識というか、ほとんど思考が停止した状態で機械的にとっている行動ではないかと思うのです。つまり、意識がない、だから「ゾンビ」だと言われるのでしょうね。

 

「ゾンビ」とは英語の"zombie"から来ています。死体が何らかの力を受けて蘇り、歩き回り、次々に人を襲うといったホラー映画によく出てきますね。その"zombie"の語源は、昔アフリカのコンゴで信仰されていた不思議な力を持つ神「ンザンビ(nzambi)」だと言われています。

 

中国にもゾンビに相当する妖怪がいます。死体が何年も腐らずに動き回る妖怪で、「殭屍(jiangshi)」と言われています。一時、日本でも「キョンシー」という香港映画が話題になりましたが、殭屍を広東語で発音したものです。

現在中国では、「ゾンビ企業(殭屍企業)」なる会社が数多く存在しており、中国のさらなる改革開放や経済発展を阻害する要因になっています。ゾンビ企業とは、すでに何の生産性も生まず、経営が赤字続きでまったく機能していないのに、政府や親会社からの資金供給で存在している会社や工場を指します。

中国で問題となっている過剰生産設備を抱えた鉄鋼業、石炭産業にその多くがみられ、それらゾンビ企業を淘汰すると全体で600万人、その中で鉄鋼と石炭分野だけで180万人の失業者が生まれると言われています。これだけの失業者が一挙に街中に放り出されると、人口13億人を抱える中国でもさすがに大混乱を引き起こすことは間違いありません。ですから、そう簡単にゾンビ企業を退治(淘汰)できない事情がそこにあり、中々構造改革が前に進まないのです。

 

日本の街中に出没するゾンビはスマホゾンビだけではありません。歩道を行き交う人がいるのに、平気で歩道の真ん中に立って邪魔になる者、駅の改札のど真ん中で定期やスイカを探している者、電車やエレベータのドアの前に立って乗り降りする人に気遣いをしない者など例を挙げたらきりがありません。本当に何も考えていない、考えられない、考えたくないといった意識のない者たちばかりです。まさにゾンビと言うに相応しいとは思いませんか? 少なくとも江戸時代には考えられなかった現象ではないかと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。

昨日は早朝からの業務のため、瓦版をお休みさせていただき、失礼しました。

 

さて、最近は日中関係がまたおかしな方向に進みつつあるように感じられます。

2012年に尖閣諸島(中国名:魚釣島)国有化の問題で、緊張が高まった日中関係ですが、201411月に北京で開催されたAPECで、安倍首相と習近平国家主席が会談したことで、緊張は徐々に緩和されてきたところですが、ここにきてまた緊張が高まりつつあります。

 

2012年といえば、習近平政権誕生に向け習主席自身が基盤を固めるべく、水面下での根回しや反対派勢力を囲い込んでいた時期でもあります。そして2013年3月に現政権が誕生するわけですが、国内での政権争いから国民の目を逸らすために、わざと外交問題を持ち出す手法は今に始まった話ではありません。

今回の南シナ海や東シナ海をめぐる中国の動きは、来年2017年の第19期党大会に向けて、2期目を迎える習政権のさらなる安定化を図るために、改めて基盤固めに入っている証だとも理解されるところです。

 

ところで、今回6月9日未明に中国海軍のフリゲート艦が日本の主張する接続水域(久場島の北東)に入ったことは、かなり大きな意味を持っています。新聞報道では報道されているものの、この深刻さに気付いた人はどれだけいるのでしょうか?

これまでの接続水域への進入の問題は、日本の海上保安庁に当る「中国海警局」所属の船舶、すなわち言わば治安を取り締まる「警察」でした。ところが、今回進入したのは中国海軍所属のフリゲート艦、すなわち戦争をも辞さない「軍隊」で、今回海軍所属の船が初めて進入したのです。

 

このときは、ロシアの軍艦が先に久場島と大正島の間の接続水域に進入し、それを海上自衛隊の護衛艦「はたかぜ」が監視・追跡する形で同水域に入っています。ここに、海上保安庁ではなく、海上自衛隊の船舶であるという点に、中国側を刺激する要素がありました。

 

ニュースではあまり報道されてはいませんが、当時、沖縄の東方側の海域では、日米印の合同海上軍事訓練が行われていました。ロシアの軍艦3隻はそれを監視するために同水域を航行、ロシアの軍艦を監視するために「はたかぜ」も続いて同水域に進入しました。

一方、やはり合同軍事演習監視のために、中国海軍もフリゲート艦1隻を派遣、それを日本の海上自衛隊の護衛艦「せとぎり」が監視していました。ロシアの軍艦に続いて「はたかぜ」が同水域に進入したことで、中国側のフリゲート艦も進入、なぜなら中国からすれば同水域は自国の接続水域となっているわけですから「侵入」ということになり、海上自衛隊が入るなら中国海軍も入れといった指示が、中国上層部からあったのではないか、というのが真相のようです。

このときは、ロシアの軍艦はもちろんのこと、日中双方の軍艦もさすがに領海にまでは進入しませんでした。

 

従来のように海上保安庁と中国海警局との間では、多少のトラブルはあるにせよ、大事に発展することはまずありません。しかし、海上自衛隊と中国海軍となると話は別です。偶発的なことから武力の行使に至る可能性は十分に考えられるのです(池田顧問、黒木さん、コメントあればお願いします)。

 

現在、日中間では経済交流や文化交流が盛んに行われています。多くの日本人が中国で活躍し、また多くの中国人が日本で活躍しています。一旦大事が生じれば、その混乱は収まらなくなるでしょう。

中国国内での政権安定化に向けた動きが収まるまでは、当然外に向けた緊張を煽る必要から、いろいろな難題が持ちかけられることでしょう。しかし、少なくともその矛先を日本に向けられるような口実を作らせないことが肝要です。ですが、今の安倍政権はわざわざその琴線に触れようとしているのが気になるところです。

 

高見澤

 

おはようございます。

連日ニュースでは、東京都の舛添知事の公費や政治資金の使い方を巡って問題が取り沙汰されており、知事もついに辞職を決めたようです。国や都の税金ですから、できるだけ費用の使い道には透明性を高めてもらいたいところですが、政策的に公開が難しいところもあることは理解しているつもりです。もちろん、舛添知事を擁護するつもりは毛頭ありませんが、このような「せこい」事案で個人叩きとして大騒ぎする前に、本業である彼の行っている都政に関しての議論で盛り上がらない日本国民、東京都民の意識の低さに憂慮するばかりです。

 

さて、これまで江戸の上下水道についてご紹介してきましたが、では、その当時の世界の水道事情はどうだったのでしょうか。

 

ヨーロッパでは、古代ローマ時代にはすでに自然流水式の上水道が存在していました。ただ、江戸時代初期の17世紀初頭では雨水の利用が多かったようです。17世紀にもっとも繁栄していたといわれるオランダのアムステルダムでも上水道はなく、市民は雨水をレンガ造りの地下のタンクに溜めて、それをポンプで汲み上げて飲料水や生活用水として使っていました。金持ちなどは船で運ばれてきたきれいな水を使う場合もあったようです。

17世紀のイギリス・ロンドンでは、テムズ川支流の上流の水を水道管で市内に導水していましたが、漏水率は高く、高価であったために、あまり普及していなかったようです。

 

一方、下水に関連して、当時のヨーロッパのトイレ事情は一般に「オマル」が使われていたようです。オマルに溜められた排泄物を排水溝に捨てていました。3階や4階の住人は、それを窓から捨てているケースもあったようで、衛生的には大いに問題です。石を敷き詰めた舗装道路に積もる汚物、その悪臭は想像を絶するものであったに違いありません。

アムステルダムでは、汚物はビヤピットと呼ばれる地中に設置されたレンガ造りのタンクに溜められ、まとめて郊外の運河沿いに捨てられていましたが、時には汚物をそのまま市内で垂れ流すこともあったようです。また、フランス・パリでは、王侯貴族が住むベルサイユ等の宮殿でさえトイレの数は少なく、宮殿全体が悪臭を放ち、中庭、階段、バルコニーで用をたすことに何の恥じらいもないといった状態だったようです。ロンドンでも1858年にテムズ川に端を発する「大悪臭」騒動が発生しています。これは、急激に広まった水洗トイレの汚水が溢れ出て道路にある雨水用の排水口からテムズ川に流れ込んだことが原因だったようです。

 

このような状態では、いくら上水道が整備されていたとしても、上水道に下水や汚物が混入すれば、腸チフスやコレラなどの感染症が流行するのは当たり前です。以前、五井野博士が指摘されていましたが、東洋のように排泄物を有機肥料として再利用する発想が、一般的には当時のヨーロッパにはなかったようですね(一部ではかなりの高値で取引されたところもありますが、江戸のように一般的ではなかったようです)。

明治維新以降、日本でも西洋式の生活スタイルが導入されるとともに、江戸時代に使われてきた上下水道のシステムが機能しなくなり、廃止に追い込まれる背景には、こうしたヨーロッパの衛生観念の影響があったのではないかと思われるのですが...

 

ヨーロッパでは、このような不衛生な状態が改善されるのは19世紀になってからで、パリで作られた近代式の下水道が次第に普及していきます。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、比較的過ごしやすい気候ですが、湿気が多く、気温が上がるとムシムシする感じがあります。地下鉄の中も省エネのためか、少し蒸し暑さを感じました。

 

さて、本日は江戸の下水についてご紹介したいと思います。

ものの本には、江戸時代には下水がなかったかのような書き方をしているものもありますが、下水はしっかりと整備されていたのが実情です。ただ、今と異なって屎尿などの汚物は下水に流されることはありませんでした。皆さんご存知の通り、江戸中期以降は屎尿は生ごみと一緒に近隣の農民に買い取られ、肥溜めなどで発酵させて有機肥料として利用されていました。それ故、西洋のようにチフスやコレラ等の伝染病が蔓延することはほとんどありませんでした。

 

江戸の道路では、一般的に中央部に上水管が埋設され、道の両脇に下水が設けられていました。いわゆる「どぶ」と呼ばれる下水道です。

長屋の入口を入ると土間があり、そこが台所となっていました。台所で使う水は、上水道の井戸から汲み上げたり、水屋から購入した水を水瓶に溜めたものを使っていたことは、前回、前々回と述べてきた通りです。

台所から出された雑排水は木樋や竹樋で家の外に出し、どぶに流します。どぶには、長屋の人たちが食器の洗い物や洗濯をする井戸端の共同の流し場からの生活排水や雨水の一部なども流れ込みます。といっても家庭からの雑排水は極めて少量です。コメのとぎ汁などは掃除に使ったり、植木に撒いたりしていました。また、雨水の一部は溜めておいて防火用水や道路の水撒きに使われるなど、豊富なように見える水ですが、結構大事に有効利用されていたのですね。

 

長屋の路地から敷地外のどぶにつながる手前には桝が取り付けられており、複数のどぶを1カ所に集めたり、下水の流れを変える場所に設けられていたようです。そして、町境から道路を横切って隣町のどぶにつながっていました。下水にも生活排水を集めて道路を横切る「横切下水」(橋が架けられていた)、雨水を受け入れた側溝としての役割を果たした「雨落下水」、地面の下に敷設した暗渠の「埋下水」がありました。

 

こうしたどぶがつながって大下水になるわけですが、江戸時代初期に多数存在していた小河川が暗渠化されて大下水になったものが多かったようです。こうして集められた排水は、最終的には近くの大名屋敷の堀や川に流されます。

水が流れ出すところには杭を横に並べたり、あるいは合掌造り風に杭を打ち込んだりして、下水と一緒に流れてきたゴミを取り除くようにしていました。

 

江戸で最大の堀といえば、江戸城の外堀と内堀です。先にご紹介した通り、上水は自然流水でしたので、当然大部分の水は利用されないまま流れて行き、その水は江戸城の堀や下水に流されました。また、大名屋敷の庭園の池水としても利用され、その水も下水や堀に排出されました。

つまり、大下水には神田上水や玉川上水からの利用されない大量の水が流れ込み、それが堀に排出されていたのです。当時は、現在と異なり重化学工業等の産業がなかったので、重金属や難解性化学物質、放射性物質などによる水質汚染の心配もありませんでした。

 

隅田川東岸や西岸下流の埋め立て地では、満ち潮のときには水が満ちており、さらに大きな堀や水路が縦横に形成され、水上交通路として利用されていました。

江戸の都市開発として、上水、下水、堀という3つの水系が相互に関係しながら、堀は上下水の貯水池としての役割を担っていたとの見解もあるようです。自然を利用した都市開発、現代人が江戸に学ぶべきところがここにもあります。

 

高見澤
 

おはようございます。

今朝の東京は昨日とは打って変わって太陽が燦々と輝くよい天気です。日中はかなり暑くなると思いますが、朝は風もあって爽やかな感じを受けました。でも、長野の故郷の爽やかさには敵いませんね。

 

さて、昨日までは江戸の上水についてお話をしてきました。電気がなかった時代に、土地の高低差やサイフォンの原理を利用して、街のあちらこちらに水を行き渡らせていた江戸の技術に驚かされたところです。しかし、それでも現代のように江戸全域をカバーするまでにはいきません。

 

そこで「水屋(水売り)」なる商売が生まれてきます。

水屋は「桝」と呼ばれる取水口から桶に水を汲み上げ、その桶を天秤棒の前後にかけて担いで売り歩く人です。水屋には、それぞれ縄張りがあったようで、一軒一軒の家の水がめの状況を把握しており、お得意さんとの信頼関係で結ばれていました。留守をする家では、水がめの上に代金分のお金を置いておき、水屋は当たり前のように水を足しておいたとのことです。

今ではなかなか考えられない治安の良さというか、余裕のあった社会ならではの逸話です。

 

その水屋ですが、重労働の割には低賃金で、2桶で4文にしかならなかったようです。当時、長い間値段が変わらなかったかけそばが16文、その4分の1ですから、如何に安かったかが分かります。今では、ペットボトル2リットル瓶6本1箱の値段がスーパーでは600円足らずで買えますが、それでも立ち食いそば屋のかけそばよりは高い値段です。1日10往復して水を売り歩いたとしても40文、かけそば2杯分にしかなりません。

水屋に限らず、それでも江戸庶民の暮らしが成り立っていたのですから、江戸社会の豊かさがうかがい知れるところです。

 

水屋は明治に入ってからも存在していたようで、明治31年(1898年)に加圧式の淀橋浄水場が完成した後もしばらくの間は本所や深川辺りで活躍していたとのことです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨、それもかなり大粒の雨が降っています。しばらくはこの状態が続くようです。

それにしても、世界各地でいやな事件が起きていますね。米国フロリダ州では銃の乱射事件があり、50名の人が亡くなったとか。上海では浦東空港で爆発騒ぎがありましたが、怪我人が出ただけで死者はいなかったようです。世界と距離が縮まっていますので、日本も否応無しに巻き込まれないとも限りません。これまで以上に気を引き締めていくことが大事です。

 

さて、ここ数回にわたり、江戸の上水道、それも特に六上水についてお話ししてきましたが、実は考古学的な発掘調査によれば、例えば市ヶ谷本村では神田上水や玉川上水等の上水道網には属さない上水道網の遺構が見つかっているようで、また牛込若宮町では近くの崖面の湧水を水源とした上水道も発掘されています。

このほかにもあちらこちらで遺構が見付かっており、玉川上水敷設以前にもすでに上水道網が出来上がっていたと考えられています。

 

江戸の上水はもちろん電気などない時代ですから自然流方式で、市内は暗渠化されていて幹線部分は石樋、その他は基本的には木樋(屋敷内等では一部竹樋も見付かっていますが多くはありません)が地中に埋設されていました。ルートの結節点では水見枡等がありましたが、そのほかは密閉されていて、サイフォンの原理で高いところに導水されているところもありました。

上水道で導水された水は木樋から呼び桶で上水井戸に流され、そこから竿の先に釣瓶をつけて汲み出していました。上水井戸は、底のない桶を逆さに数個重ねて造ったもので、最低部のみ板底があります。

 

木樋を地中に埋めてつなげていくためには、通常はその道筋に沿って全面的に開削していきますが、発掘調査によると、地上からはその道筋の半分程度を掘って、地中で穴をつなげて木樋を通してつなげていく工法が採られていたようです。開削作業の負担を軽減する工法ですね。

 

現代のように電気やポンプ、大型建設機械のなかった江戸時代ですが、それでも江戸100万住民の生活を潤す十分なインフラが整備されていたのです。江戸の人々の知恵と工夫には頭が下がります。

 

高見澤

 

おはようございます。

今朝の東京は昨日の雨も一段落して、太陽が顔をのぞかせて暑いくらいですが、やはり梅雨の季節なのでしょうか、比較的雲も多く、カラッとした天気にはならないようです。

 

さて、江戸の人口が増え、街が拡大するに従って上水道が整備されたことはこれまでご説明したとおりで、神田上水と玉川上水を一昨日、昨日と紹介しました。

この二つの上水に続いて整備されたのが「本所(亀有)上水」です。この本所上水は「亀有上水」とも呼ばれ、整備されたのは万治2年(1659)との説が有力です。他にも元禄年間(16881704)との説もありますが、明暦の大火〔明暦3年(1657)〕以降に造られたことは間違いありません。

元荒川を水源に、埼玉郡瓦曽根・溜井(現在の埼玉県越谷大吉・古利根西岸)から取水し、開渠で亀有、寺島、小梅を経て法恩寺橋東に達し、本所方面一帯に給水しました。明暦の大火後に、新たに発展した本所や深川といった隅田川東岸に給水するのが目的でした。

天和2年(1683)に、本所・深川地域の度重なる水害によって武家屋敷や町屋が撤退したことで、一時的に廃止されますが、その後の再開発によって元禄元年(1688)に再び使用されることになりました。

ただ、享保7年(1722)には青山上水、三田上水、千川上水とともに突然廃止されることになります。

 

本所上水の次に開設されたのは「青山上水」で、万治3年(1660)のことです。玉川上水の四谷大木戸の水番所付近から分水し、青山、赤坂、麻布、六本木、飯倉を経て芝方面に給水されました。この上水も前述の本所上水とともに享保7年に廃止されました。その後、明治15(1881)に麻布水道として復活し、赤坂、麻布、四谷の一部地域に給水したようです。

 

青山上水と同じように、玉川上水から分水した「三田上水」が開設されたのは寛文4年(1664)です。玉川上水を下北沢村付近から分水し、代々木、渋谷、目黒、大崎、白金付近まで開渠で水を流し、伏樋で伊皿子、三田まで給水しました。享保7年に廃止にはなりましたが、享保9年(1724)に農業用の三田用水として復活、世田谷、麻布など14カ村に給水したとのことです。

 

六上水の最後の一つ、「千川上水」ですが、これもまた玉川上水を水源としていて、仙川村近くの境橋(現在の西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から分水し、江戸城の城北地域へ通水した総延長22キロメートルの上水です。境橋から巣鴨まで掘り割りとし、そこから小石川、本郷、さらには下谷、浅草方面に給水しました。開設されたのは元禄9年(1696)で、小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草浅草寺など江戸幕府と所縁のある施設への給水が目的だったようです。千川上水も、前述の三上水と同様に享保7年に廃止されますが、その後天明元年(1781)に農業用水として復活します。ただ、水不足等の原因で天明6年(1786)には再び廃止されました。

 

高見澤

 

おはようございます。

今朝の東京は、昨日の天気から一転して小雨が降っています。湿度が高くジメジメしていますが、いよいよ夏到来の予感がしています。しかし、関東の6都県の水源となっている8つのダムの貯水率が低下し、例年の6割程度に落ち込んでいるとのことで、夏に向けて水不足が心配されるところです。

 

さて、今日はいよいよ江戸庶民の生活に欠かすことのできなかった「玉川上水」に焦点を当ててみようと思います。

神田上水が整備されたことで、江戸の北東部(神田、日本橋、京橋)の生活が便利になったことは、昨日お話ししたとおりです。

3代将軍・徳川家光〔在職期間:元和9(1623)~慶安4年(1651年)〕のときに参勤交代の制度が確立し、大名やその家族、家臣までが江戸に住むようになると、江戸の人口は急激に増加しました。人口増加に伴い、既存の上水施設だけでは足りなくなり、江戸幕府は新たな上水の確保に迫られるようになりました。

 

家光が死去した翌年・承応元年(1652)に、幕府は水量の豊富な多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。

実際の工事としては、承応2年(1653年)4月に着工、わずか8か月後の同年11月に羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りによる水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩やかな勾配です。羽村からいくつかの段丘をはい上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達するという、自然流下方式による導水路です。羽村から四谷までは開渠でした。翌年の承応3年(1654)6月には、虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設(基幹部分は石樋、大名屋敷や長屋には木樋、一部竹樋が敷設されていた)して暗渠になります。これにより、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯にまで水が供給できるようになりました。 

 

明暦3年(1657)1月に起きた「明暦の大火」後、拡大した江戸の水需要の増加に応えるため、玉川上水から青山、三田、千川の3つの上水が分水されます。玉川上水は武蔵野台地の尾根を流しているので分水が可能でした。ただ、これらの分水された上水は享保7年(1722)に突然廃止されます。分水された上水については、日を改めて紹介したいと思います。

この玉川上水も神田上水と同じように明治に入ってからも使われますが、文明開化による衛生面の問題もあって、明治34(1901)に、神田上水とともに廃止されることになります。

 

高見澤

 

おはようございます。

最近、中国では「ゾンビ企業」なる言葉がはやっていますが、日本では「スマホゾンビ」という言葉があるそうです。スマホに夢中になり、駅のホームから転落する人もいるそうですね。街や駅を歩いていると、ゾンビのような人をよく見かけるので、ちょっとしたことで事故につながらないか心配になります。

 

さて、昨日は江戸の人口についてのおさらいをしましたが、江戸にとって如何に飲料水や生活用水の確保が大事だったかということがお分かり頂けたかと思います。

 

徳川家康が江戸入府する以前からも、小さな集落とはいえ人が住んでいたのですから、当然わずかな人々の暮らしを維持するだけの水源はありました。湧水や泉であったり、井戸を掘ったり、もちろん川の水も使っていました。そこに家康が武士団を伴って江戸にやってくるのですから、人口の増加に合わせて、電気・ガス・水道...おっとこのころは電気・ガスはありませんね、水道、道路や橋などのインフラの整備が行われることになったわけです。

 

1590年、家康は江戸入府に先立ち、大久保藤五郎に江戸の生活用水の整備を命じ、最初に手掛けたのが「江戸の六上水」の一つである「神田上水」の前身、「小石川上水」だったと言われています。

この小石川上水は、平川に合流していた谷端川の下流域・小石川(現在の文京区小石川)を整備して水源として、神田方面に通水したものと思われていますが、当時の資料がほとんど残っておらず、その実態はよく分かっていません。

 

江戸の町が拡大するに従い、水源を井の頭池、善福寺池、妙正寺池等の湧水に求めるなど、大久保は引き続き上水の整備を行います(小石川上水からどう発展したのかは分かりません)。これが江戸の北東部(給水範囲:神田、日本橋、京橋)を潤す神田上水になります。神田上水は慶長年間(1596~1615年)に着手され、定説はありませんが、完成したのは寛永6年(1629)年頃ではないかとされています。

一方、このころの江戸西南部では、赤坂溜池を水源として利用していたようです。

 

この神田上水ですが、もともと江戸を流れていた平川をベースに整備したもので、流域を石垣や土留めなどで安定させたようです。

現在の江戸川橋の上流に「大堰」を築いて水位を上げ、土地の高低を利用して小日向の台地の南側から東へ流し、お茶の水坂の途中から対岸に向けて神田川を渡しました。神田川の空中を横切る上水路として、通称「万年樋」と呼ばれる懸樋(かけひ)です。現在でも水道橋などの地名が残っていますよね。

 

小日向の上水道は長い間開渠で、寺などの敷地の出入り口には石蓋のような橋が架けられていたようですが、明治になり暗渠となりました。

西洋の生活様式の導入により、感染症が流行するなど衛生面で問題が生じるようになり(後日、下水と汚物処理についての紹介で詳細に説明します)、明治34年(1901年)に玉川上水とともに神田上水の使用が廃止されます。

 

高見澤

 

おはようございます。

今朝の東京都心は、天気予報では曇りでしたが、出勤の途中で小雨が降り始めています。梅雨本番の時期になり、傘が手放せなくなりました。

 

さて、昨日は江戸の六上水をご紹介しましたが、この六上水についてもう少し掘り下げてみたいと思います。ただ、その前に、今日は少し江戸について基本的な知識をおさらいしておきたいと思います。

 

歴史を遡ればきりがないので、先ずは江戸時代の始まりとなる徳川家康が入府した天正18年(1590年)頃からみてみましょう。

同年、豊臣秀吉による北条攻めが行われ、後北条氏が滅亡、家康が関東地方に封じられます。家康は江戸入府すると同時に城下町の建設を始めます。当時の記録では断片的な様子しか伺うことができず、実際にどのような街並みがあったのかは定かではありませんが、小さな集落が戦乱によって荒廃していたことだけは間違いないようです。そこを家康が江戸城の拡張や町の建設に着手し、江戸の町が徐々に拡張していったものと思われます。

 

慶長14年(1609年)、江戸を訪問したスペイン人のフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロは、江戸の人口を約15万人と記録しています(「日本見聞記」)。当時の日本全体の人口は約1,200万人、今の東京都の人口程度と推定されています。尚、当時の京(京都)は3040万、大坂は20万と記録されています。

 

その後、江戸の人口は寛永年間(16241645年)には2540万人に増え、100万に達するのは関ヶ原の戦いから約120年後の享保年間(17161735年)になります。当時の江戸は世界最大の都市となり、日本全国は3,100万人だったと言われています。

ちなみに、1800年頃の世界各都市の人口を調べてみると、ロンドンが86万人、パリが54万人、北京が90万人でした。

 

享保年間からさらに約130年後の弘化年間(18441848年)には、江戸の人口は110万人、日本全国では3,200万人であったと推測されています。

 

水がなければ人は生活することはできません。町の拡張とともに、世界的にも稀な巨大な都市となった江戸。100万を超える人々の生活を賄うだけの水の確保は、江戸幕府の最も重要な任務の一つであったのです。

 

高見澤
 

おはようございます。関東もいよいよ梅雨に入り、自然界もいよいよ夏に向けた装いとなっています。

紫陽花が色付き、草木も緑が濃くなってきています。

 

さて、これまでは中国の水に関わるお話を紹介してきましたが、これからは東藝術本来の姿として、いよいよ江戸の水について勉強していかなければと思っています。

そこで本日からは、江戸の上水道についてご紹介したいと思います。

 

ご存知の通り、江戸は百万都市として世界最大規模の人口を有し、人口が増加するとともに都市が拡大、十分な飲料水や生活用水の確保が急務となっていました。もともと湿地帯であった江戸の東南部は、井戸水には大分塩分が含まれていたようで、上水道建設が必要だったのです。

 

天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府した際に小石川上水が開設されたのが、江戸の上水の起源とされています。この小石川上水は、その後発展・拡張して神田上水となり、明治時代にその役割を終えるまで、江戸住民の暮らしを支えてきました。

江戸時代には、この神田上水のほか、玉川上水、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水のいわゆる「江戸の六上水」がありましたが、享保7年(1722年)に神田と玉川以外の4上水は廃止され、江戸時代を通じて利用されていたのは主に神田と玉川の2上水だったのです。

 

江戸時代には電気もなければポンプもありません。標高の高低差を利用して水を流していくわけですが、石や木で造られた「石樋」や「木樋」と呼ばれる水道管によって上水井戸に運ばれ、人々はそこから水をくみ上げて利用するようになっていました。

その技術について、追々勉強していきたいと思いますが、なかなかのものであったようです。

 

次回以降も、引き続き江戸の上水道についてご紹介していければと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。

今日も東京は良い天気で、日差しがきつく感じられます。女性の方はしっかりとした紫外線対策が必要でしょう。

 

さて、これまでは中国の水に関して、古代中国の土木設計・建築技術のレベルの高さについて紹介してきました。現在でもそれを活かし、生活や経済活動に利用していることは高く評価できるものの、その一方で水に関して深刻な問題を抱えていることも事実です。

 

中国には「三河三湖」という言葉があります。これは、今水質汚染が最も酷い三本の河と三つの湖を指しています。「三河」は遼河(延長1390キロ:内モンゴル→吉林省→遼寧省→渤海)、海河(延長1329キロ:北京市・河北省等からの5本の支流→天津市→渤海)、淮河(延長1078キロ:河南省→安徽省→江蘇省→洪沢湖・黄河・長江)です。「三湖」は太湖(面積2445平方キロ:江蘇省)、巢湖(面積2063平方キロ:安徽省)、滇池(面積330平方キロ:雲南省)です。

日本で一番長い信濃川の延長が367キロ、最大の湖の琵琶湖の面積が670.4平方キロですから、中国の河や湖のスケールが如何に大きいかが分かります。

 

中国での環境汚染問題の最大のネックは、実はこのスケールの大きさにあるのです。

日本でも1950年代から70年代にかけて、高度経済成長とは裏腹に公害問題が深刻になりました。有機水銀による水質汚染の水俣病(熊本県水俣湾周辺)と第二水俣病(新潟県阿賀野川流域)、カドミウムによる水質・土壌汚染のイタイイタイ病(富山県神通川流域)、亜硫酸ガス(SO2)等による大気汚染の四日市ぜんそくなどの四大公害病をはじめ、日本各地で環境汚染が広がっていきました。

五井野正博士が富士山周辺の湖で、公害問題として空き缶のポイ捨てが原因の「穴あき病」を最初に指摘されたのもちょうどこのころです。

 

日本では面積が小さいことから、少しの汚染でも人や動物の身体に深刻な症状が目に見える形ですぐに現れますが、中国のように面積が大きいと汚染が拡散され、なかなか明確な形で症状が現れません。しかし、知らず知らずのうちに汚染が拡大し、症状が出るころには手が付けられないほど問題が深刻になっている、という極めて恐ろしい状態になることもあるのです。

 

こうした環境汚染に対し、中国政府は深刻に受け止め、各地で汚染の除去や防止に努めてきています。環境対策の分野で、日本政府や日本企業が協力を進めて、中国の環境改善に多大なる貢献を果たしてきたことも事実です。しかし、根本的な改善につながっているかというと、そこは疑問です。

過去、円借款や無償援助等で郵便貯金や税金といった日本国民の資産を形を変えてばらまき、一見開発途上国支援という形を作り上げましたが、それに対する中国側の評価はどうなのでしょうか? どこか、日本の自己満足で終わっているように思えてなりません。

 

日本の協力が真の意味で実を結ぶには、日本の協力なり日本とのビジネスによって「三河三湖」をはじめとする中国の水質が大きく改善したときではないでしょうか。そのためには、最初に問題提起し、原因を突き止め、さらには解決策を提示・実行するだけの行動力を示された方に解決を委ねることが必要かと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。

北京駐在から帰国して、もうすぐ2カ月が経とうとしています。人からよく「東京の生活には慣れましたか?」と聞かれますが、「なかなか慣れません。もう少しリハビリが必要です」と答えてしまいます。

駐在中は職場と家が近く(歩いて10分)、社有車が比較的自由に使え(もちろん業務でですが...)、駐在手当(在勤加俸)や住宅費の会社負担など、今思い返せば贅沢な暮らしをしていたなぁと思う次第です。とはいえ、それなりに仕事はきつかったのですが。

 

さて、ここ数日間は中国の水に関するお話を続けていますが、しばらく中国のお話にお付き合いいただき、その後に江戸の水に係る話題に移るようにしたいと思っています。

 

本日は「京杭大運河」です。「京」は北京、「杭」は浙江省の省都である杭州を指し、その名の通り杭州と北京を結ぶ全長1,794キロの世界最長の運河です。途中に黄河や長江(揚子江)を貫き、北京、天津、河北、山東、江蘇、浙江の2直轄市、4省を通っています。

 

この運河の開削が始まったのは紀元前5世紀の春秋時代だというのですから、その歴史は2500年余りに達し、世界最古の運河でもあります。最初の掘削は、紀元前486年、呉王夫差の時代に10年の歳月を費やして邗溝を掘り、長江と淮河をつないだことです。この時代、呉では初代「孫子の兵法」で有名な孫武や楚の平王に鞭打った怨念の塊・伍子胥などの人物が活躍しています。

戦国時代には、大溝と鴻溝という運河の掘削により、長江、淮河、黄河、済水の4大水系がつながりました。

 

その後、時代は大分後の隋の時代になりますが、二代皇帝・煬帝が604年に大運河の工事を始めます。まず、黄河と淮河を結ぶ通済渠、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠、そして長江と杭州を結ぶ江南河が完成し、河北から浙江をつなぐ大運河となったのです。その完成は610年のことです。

さらに元代には、杭州から大都(北京)への運河全線が開通し、これが現在の京杭大運河の前身となりました。

 

この京杭大運河は一から全てを開削したのではなく、それぞれの時代に造られた既存の小運河を連結した部分もかなりあります。

もちろん軍隊の遠征など軍事用に利用され、南北統一の役に立ったこともあれば、江南の物産を華北に運ぶ物流に大きく寄与したこともあります。

この運河は今でも利用されていますが、山東省の済寧以北は水量が激減し、主に利用されているのは杭州―済寧間と北京―天津間です。しかし、近年水不足が深刻な中国の北部に、水の豊かな南部から水を送る「南水北調」プロジェクトに、この運河が利用されているのも事実です。

 

過去の遺産をしっかりと受け継ぎ、それを現在の生活に活かす工夫が中国では続けられています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨夜はスーパーマーズ、ここ直近10年で最も火星が近い距離にあり、地球からの火星観測には絶好のチャンスであったにもかかわらず、天気は曇り。残念だったと思う方も少なくなかったのではないでしょうか。今朝の東京は薄曇りですが、これから午後にかけて天気は回復し、暑くなるとの予報です。

 

さて、本日は、前回のお話を受け、団城の排水の秘密に迫りたいと思います。

 

団城には「白衣将軍」と呼ばれる古木があります。その古木が2001年に病気となり、専門家がそれを診断した際に、偶然この排水システムが発見されました。団城の地面には青い煉瓦が敷き詰められ、その地下に暗渠を用いた高度な排水システムがあったのです。

 

団城の地勢は北側が高く、南側が低くなっています。地面に敷かれた煉瓦は上が大きく下が小さい「逆階段型」となっており、一つ一つの煉瓦がダムの役割を果たし、煉瓦と煉瓦の間には大きな隙間が空いていて、降った雨はその隙間を縫って地下に流れ込みます。

地下に流れ込んだ水は、地勢に沿って石造りの「水眼」と呼ばれる穴に流れ込みます。団城には合計11カ所の「水眼」があり、古木の周辺に設置されています。「水眼」の下には縦井戸があり、それらは暗渠でつながっています。暗渠は青い煉瓦で造られ、その高さは80150センチ。

 

雨水が暗渠に流れ込むと地下を流れる川になります。すべての「水眼」は暗渠の要所要所に設置されており、暗渠は「C」字型になっていて、雨水が団城の中を流れる時間をできるだけ長くする仕掛けだそうです。大雨のときは雨水が暗渠に沿って反時計回りで流れ去り、小雨のときは土壌に浸み込んだ水が飽和状態になった後、暗渠に流れ込む仕組みです。限られた雨水資源を最大限活用しようとしていたのですね。

 

また、団城の土は穀物の殻や石灰で造られており、通気性、通水性に富み、雨水が速やかに地面に浸み込むようになっています。団城の浸透・排水システムと土壌は雨水の総合的な調節作用を果たしているばかりではなく、水、大気、温度、有機物など植物の成長に欠かせない要素をうまく調和させる機能をも持ち合わせているのです。数百年の間、団城の古木等植物の成長を促す良好な環境も創り出してきました。

 

北京は水不足が深刻で、地表水の約9割が開発済み、地下水も過剰採取により地下水位の低下や地盤沈下が懸念されています。その一方で豪雨による浸水被害が発生しているわけですから、その豪雨時の水を上手に溜めて利用する仕組みがあれば、一石二鳥にも三鳥にもなるのです。

600年前の技術、驚かされる東洋の知恵に学ばなければなりません。

 

(本稿は雑誌『日中経協ジャーナル』201211月号「現地便り」に掲載された記事をリメイクしたものです。)

 

高見澤

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