おはようございます。
今朝の東京都心は、天気予報では曇りでしたが、出勤の途中で小雨が降り始めています。梅雨本番の時期になり、傘が手放せなくなりました。
さて、昨日は江戸の六上水をご紹介しましたが、この六上水についてもう少し掘り下げてみたいと思います。ただ、その前に、今日は少し江戸について基本的な知識をおさらいしておきたいと思います。
歴史を遡ればきりがないので、先ずは江戸時代の始まりとなる徳川家康が入府した天正18年(1590年)頃からみてみましょう。
同年、豊臣秀吉による北条攻めが行われ、後北条氏が滅亡、家康が関東地方に封じられます。家康は江戸入府すると同時に城下町の建設を始めます。当時の記録では断片的な様子しか伺うことができず、実際にどのような街並みがあったのかは定かではありませんが、小さな集落が戦乱によって荒廃していたことだけは間違いないようです。そこを家康が江戸城の拡張や町の建設に着手し、江戸の町が徐々に拡張していったものと思われます。
慶長14年(1609年)、江戸を訪問したスペイン人のフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロは、江戸の人口を約15万人と記録しています(「日本見聞記」)。当時の日本全体の人口は約1,200万人、今の東京都の人口程度と推定されています。尚、当時の京(京都)は30~40万、大坂は20万と記録されています。
その後、江戸の人口は寛永年間(1624~1645年)には25~40万人に増え、100万に達するのは関ヶ原の戦いから約120年後の享保年間(1716~1735年)になります。当時の江戸は世界最大の都市となり、日本全国は3,100万人だったと言われています。
ちなみに、1800年頃の世界各都市の人口を調べてみると、ロンドンが86万人、パリが54万人、北京が90万人でした。
享保年間からさらに約130年後の弘化年間(1844~1848年)には、江戸の人口は110万人、日本全国では3,200万人であったと推測されています。
水がなければ人は生活することはできません。町の拡張とともに、世界的にも稀な巨大な都市となった江戸。100万を超える人々の生活を賄うだけの水の確保は、江戸幕府の最も重要な任務の一つであったのです。
高見澤