東藝術倶楽部瓦版 20160608 :神田上水

 

おはようございます。

最近、中国では「ゾンビ企業」なる言葉がはやっていますが、日本では「スマホゾンビ」という言葉があるそうです。スマホに夢中になり、駅のホームから転落する人もいるそうですね。街や駅を歩いていると、ゾンビのような人をよく見かけるので、ちょっとしたことで事故につながらないか心配になります。

 

さて、昨日は江戸の人口についてのおさらいをしましたが、江戸にとって如何に飲料水や生活用水の確保が大事だったかということがお分かり頂けたかと思います。

 

徳川家康が江戸入府する以前からも、小さな集落とはいえ人が住んでいたのですから、当然わずかな人々の暮らしを維持するだけの水源はありました。湧水や泉であったり、井戸を掘ったり、もちろん川の水も使っていました。そこに家康が武士団を伴って江戸にやってくるのですから、人口の増加に合わせて、電気・ガス・水道...おっとこのころは電気・ガスはありませんね、水道、道路や橋などのインフラの整備が行われることになったわけです。

 

1590年、家康は江戸入府に先立ち、大久保藤五郎に江戸の生活用水の整備を命じ、最初に手掛けたのが「江戸の六上水」の一つである「神田上水」の前身、「小石川上水」だったと言われています。

この小石川上水は、平川に合流していた谷端川の下流域・小石川(現在の文京区小石川)を整備して水源として、神田方面に通水したものと思われていますが、当時の資料がほとんど残っておらず、その実態はよく分かっていません。

 

江戸の町が拡大するに従い、水源を井の頭池、善福寺池、妙正寺池等の湧水に求めるなど、大久保は引き続き上水の整備を行います(小石川上水からどう発展したのかは分かりません)。これが江戸の北東部(給水範囲:神田、日本橋、京橋)を潤す神田上水になります。神田上水は慶長年間(1596~1615年)に着手され、定説はありませんが、完成したのは寛永6年(1629)年頃ではないかとされています。

一方、このころの江戸西南部では、赤坂溜池を水源として利用していたようです。

 

この神田上水ですが、もともと江戸を流れていた平川をベースに整備したもので、流域を石垣や土留めなどで安定させたようです。

現在の江戸川橋の上流に「大堰」を築いて水位を上げ、土地の高低を利用して小日向の台地の南側から東へ流し、お茶の水坂の途中から対岸に向けて神田川を渡しました。神田川の空中を横切る上水路として、通称「万年樋」と呼ばれる懸樋(かけひ)です。現在でも水道橋などの地名が残っていますよね。

 

小日向の上水道は長い間開渠で、寺などの敷地の出入り口には石蓋のような橋が架けられていたようですが、明治になり暗渠となりました。

西洋の生活様式の導入により、感染症が流行するなど衛生面で問題が生じるようになり(後日、下水と汚物処理についての紹介で詳細に説明します)、明治34年(1901年)に玉川上水とともに神田上水の使用が廃止されます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年6月 8日 14:15に書いたブログ記事です。

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