東藝術倶楽部瓦版 20160610 :江戸上水の大動脈(残りの四上水)

 

おはようございます。

今朝の東京は昨日の雨も一段落して、太陽が顔をのぞかせて暑いくらいですが、やはり梅雨の季節なのでしょうか、比較的雲も多く、カラッとした天気にはならないようです。

 

さて、江戸の人口が増え、街が拡大するに従って上水道が整備されたことはこれまでご説明したとおりで、神田上水と玉川上水を一昨日、昨日と紹介しました。

この二つの上水に続いて整備されたのが「本所(亀有)上水」です。この本所上水は「亀有上水」とも呼ばれ、整備されたのは万治2年(1659)との説が有力です。他にも元禄年間(16881704)との説もありますが、明暦の大火〔明暦3年(1657)〕以降に造られたことは間違いありません。

元荒川を水源に、埼玉郡瓦曽根・溜井(現在の埼玉県越谷大吉・古利根西岸)から取水し、開渠で亀有、寺島、小梅を経て法恩寺橋東に達し、本所方面一帯に給水しました。明暦の大火後に、新たに発展した本所や深川といった隅田川東岸に給水するのが目的でした。

天和2年(1683)に、本所・深川地域の度重なる水害によって武家屋敷や町屋が撤退したことで、一時的に廃止されますが、その後の再開発によって元禄元年(1688)に再び使用されることになりました。

ただ、享保7年(1722)には青山上水、三田上水、千川上水とともに突然廃止されることになります。

 

本所上水の次に開設されたのは「青山上水」で、万治3年(1660)のことです。玉川上水の四谷大木戸の水番所付近から分水し、青山、赤坂、麻布、六本木、飯倉を経て芝方面に給水されました。この上水も前述の本所上水とともに享保7年に廃止されました。その後、明治15(1881)に麻布水道として復活し、赤坂、麻布、四谷の一部地域に給水したようです。

 

青山上水と同じように、玉川上水から分水した「三田上水」が開設されたのは寛文4年(1664)です。玉川上水を下北沢村付近から分水し、代々木、渋谷、目黒、大崎、白金付近まで開渠で水を流し、伏樋で伊皿子、三田まで給水しました。享保7年に廃止にはなりましたが、享保9年(1724)に農業用の三田用水として復活、世田谷、麻布など14カ村に給水したとのことです。

 

六上水の最後の一つ、「千川上水」ですが、これもまた玉川上水を水源としていて、仙川村近くの境橋(現在の西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から分水し、江戸城の城北地域へ通水した総延長22キロメートルの上水です。境橋から巣鴨まで掘り割りとし、そこから小石川、本郷、さらには下谷、浅草方面に給水しました。開設されたのは元禄9年(1696)で、小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草浅草寺など江戸幕府と所縁のある施設への給水が目的だったようです。千川上水も、前述の三上水と同様に享保7年に廃止されますが、その後天明元年(1781)に農業用水として復活します。ただ、水不足等の原因で天明6年(1786)には再び廃止されました。

 

高見澤

2020年9月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年6月10日 13:43に書いたブログ記事です。

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