東藝術倶楽部瓦版 20160614 :江戸時代の水屋(水売り)

 

おはようございます。

今朝の東京は昨日とは打って変わって太陽が燦々と輝くよい天気です。日中はかなり暑くなると思いますが、朝は風もあって爽やかな感じを受けました。でも、長野の故郷の爽やかさには敵いませんね。

 

さて、昨日までは江戸の上水についてお話をしてきました。電気がなかった時代に、土地の高低差やサイフォンの原理を利用して、街のあちらこちらに水を行き渡らせていた江戸の技術に驚かされたところです。しかし、それでも現代のように江戸全域をカバーするまでにはいきません。

 

そこで「水屋(水売り)」なる商売が生まれてきます。

水屋は「桝」と呼ばれる取水口から桶に水を汲み上げ、その桶を天秤棒の前後にかけて担いで売り歩く人です。水屋には、それぞれ縄張りがあったようで、一軒一軒の家の水がめの状況を把握しており、お得意さんとの信頼関係で結ばれていました。留守をする家では、水がめの上に代金分のお金を置いておき、水屋は当たり前のように水を足しておいたとのことです。

今ではなかなか考えられない治安の良さというか、余裕のあった社会ならではの逸話です。

 

その水屋ですが、重労働の割には低賃金で、2桶で4文にしかならなかったようです。当時、長い間値段が変わらなかったかけそばが16文、その4分の1ですから、如何に安かったかが分かります。今では、ペットボトル2リットル瓶6本1箱の値段がスーパーでは600円足らずで買えますが、それでも立ち食いそば屋のかけそばよりは高い値段です。1日10往復して水を売り歩いたとしても40文、かけそば2杯分にしかなりません。

水屋に限らず、それでも江戸庶民の暮らしが成り立っていたのですから、江戸社会の豊かさがうかがい知れるところです。

 

水屋は明治に入ってからも存在していたようで、明治31年(1898年)に加圧式の淀橋浄水場が完成した後もしばらくの間は本所や深川辺りで活躍していたとのことです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年6月14日 08:16に書いたブログ記事です。

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