東藝術倶楽部瓦版 20160715 :味噌の歴史ー味噌汁は「ふるさとの味」

 

おはようございます。いやぁ、それにしても凄かったですね、昨晩の雨は!東京千代田区、港区界隈では、晩の7時から8時頃にかけてが一番酷かったようです。私が帰った8時半頃には大分小降りになっていましたが、東京では床上浸水に見舞われたところもあったようです。自然の猛威も、何らかの意味があるので、それぞれに考えることが大事です。

 

さて、本日は味噌の歴史についてご紹介したいと思います。

日本の味噌の起源は、中国から朝鮮半島を伝わってきた説と、日本独自に生み出されたという説があります。昨日の話の中で出てきた「醤(ひしお)」ですが、古くは紀元前700年頃の中国・周王朝の制度を記した「周礼」にみられることから、長い歴史の中で、それぞれの国がお互いに影響し合いながら、その土地土地に適合した醤が出来てきたのではないかと思います。

中国では「トウバンジャン(豆板醤)」や「テンメンジャン(甜麺醤)」が有名ですが、その他にも「シアジャン(蝦醤)」、「ラージャオジャン(辣椒醤)」など、それぞれ地域特有の醤があります。それが韓国では「コチュジャン」のような「穀醤」、東南アジアではナンプラやニョクマムのような「魚醤」となるわけです。

 

日本で歴史上「味噌」という文字が登場するのは平安時代になってからですが、それでも奈良時代には醤が売られていたと言われています。その醤がどのようなものであったのは、今となっては分かりません。味噌が今のように磨って使うようになったのは鎌倉時代で、室町時代にやっと庶民の食卓に上がるようになったようです。

鎌倉時代から戦国時代にかけて、芋の茎を縄状に編み、それを味噌で煮しめた「芋がら縄」が兵士の重要な携帯食として使われるようになります。味噌も芋の茎も両方食料になりますから、陣笠を逆さにして水を入れ、「芋がら縄」をちぎって入れて煮詰めるたけで、栄養満点の立派な味噌汁が出来上がります。今でいうところの「インスタント味噌汁」ですね。

 

昨日もご紹介しましたが、味噌が調味料として認識されたのは江戸時代になってからのことです。それまで、各家庭で作られていた味噌が各地の工場で大量生産され、全国各地の味噌が江戸でも味わえるようになりました。これにより、外食産業が生まれ、味噌が益々一般的に広まっていきました。

江戸時代には「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」と言われたように、栄養価が高く、健康食としての認識が高まりました。元禄8年(1695年)に出版された『本朝食鑑』には、「みそはわが国ではむかしから上下四民とも朝夕に用い」、「1日もなくてはならないもの」であり、「大豆の甘、温は気をおだやかにし、腹中をくつろげて血を生かし、百薬の毒を消す。麹(こうじ)の甘、温は胃の中に入って、食及びとどこおりをなくし、消化をよくし閉塞を防ぐ。元気をつけて、血のめぐりをよくする」と書かれています。

私の小さい頃も、母親が大豆を煮て、米麹をまぶして味噌玉を作っていた記憶があります。今では自分では作らず、大豆を味噌屋に提供して作ってもらっていますが、昔の農家では当たり前のように「手前味噌」が作られていたのでしょう。

日本では、この味噌や醤油がベースとなって食生活が確立しており、江戸庶民のパワーの源はここにあったのかもしれません。農家では、どんなに飢饉のときでも味噌の仕込みは欠かさなかったと言われています。また諸大名も味噌作りを奨励しており、各地でそれぞれ特色のある味噌が生まれました。

 

ちなみに、我が故郷の長野で作られているのが有名な「信州味噌」です。いわゆる「米味噌」で、佐久市にある安養寺が発祥の地だと言われています。現在、日本で生産、消費されている味噌の約4割がこの信州味噌だそうです。放射能対策としても有効だと言われる味噌。信州の水と野菜を使って作られる味噌汁は、日本の「ふるさとの味」と言えるでしょう。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年7月15日 14:35に書いたブログ記事です。

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