おはようございます。今日の東京は蒸し暑く感じられます。神保町から九段下まで歩きましたが、朝からかなり汗をかいてしまいました。
汗をかくと、身体が塩分を要求します。肉体労働者が味の濃いものを欲しがるのは、汗ととともに身体から塩分が排出されるからです。塩に含まれる塩化ナトリウムをはじめとする各種ミネラルが作用して、人の身体のイオンのバランスが保たれるわけです。
前回、前々回と「酢」についてご紹介してきましたが、本日は人間の身体に欠かせない「塩」についてお話ししたいと思います。
日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代の終わりから弥生時代にかけてと言われています。狩猟していた時代は、自然のものを食べていたので、知らず知らずのうちに食物から塩分が摂れていたようですが、農耕栽培による定住がはじまり、穀物や野菜が食されるようになって、塩を調理に使うようになったのでしょうね。
中国では、前漢の時代、昭帝の始元6年(紀元前81年)にはすでに鉄と塩の専売を議論した「塩鉄会議」が開催された記録が残っています。秦の孝公(紀元前381~紀元前338年)に仕えた政治家・思想家で、墾草の令による変法を断行したことで有名な商鞅(紀元前390~紀元前338年)が、捕まって「車裂きの刑」に処せられる前に、塩商人に身をやつしていたことがあったように、春秋戦国時代には塩の商売が当たり前のように行われていたことが分かります。
日本は海に囲まれた島国ですから、大陸のような岩塩はなく、海水から塩を造ることになります。基本的には、海水から「かん水」という濃い塩水を取り出す「採鹹(さいかん)」の段階、そしてそれを煮詰めて塩にする「煎熬(せんごう)」の段階を経て、脱水すれば「塩」が出来上がります。最も古いやり方は、干した海草を焼いて残った塩の混ざった灰をそのまま使っていたようですが、6~7世紀になって、かん水を採り、煮詰めるようになりました。9世紀には「塩浜」という採鹹地が採用されるようになり、煎熬にもいろいろと手が加えられるようになり、徐々に発展していきました。
江戸時代、17世紀中旬には播磨の国赤穂(兵庫県)で「入浜式塩田」が採用されはじめ、それ以降、瀬戸内海沿岸の10カ国(備前、周防、讃岐等)は「十州塩田」と呼ばれ、日本の製塩の中心地となりました。一方、三陸地方では、直接海水を煮詰める「海水直煮」という方法が採用されていました。
日本の戦国時代には、海のない甲斐の国(山梨県)と信濃の国(長野県)を領有していた武田信玄が、駿河の国(静岡県)から塩の供給を閉ざされた際に、敵であった越後の国(新潟県)の上杉謙信が塩を送ったという逸話が残されています。「敵に塩を送る」の語源となった話ですが、現代でも専売制にした時期があったように、それほど塩は人の生活には欠かせない物資だったのです。
江戸時代の初めには、砂糖は輸入品、酢と醤油は大坂方面から仕入れたものしかなく、江戸の庶民にはいずれも高嶺の花でしたから、庶民の食事はもっぱら塩と味噌による味付けになったようです。それが徳川三大将軍・家光の正保年間(1644~48年)になると、江戸に近い関東でも醤油や酢が造られはじめ、砂糖も輸入量が増えて価格が下落し、やっと庶民も口にすることができるようになったということです。
江戸時代に入って、庶民の間で食の楽しみが一般的になったのには、こうした背景があったのです。
高見澤