2016年8月アーカイブ

 

おはようございます。

先週は業務多忙のため、勝手ながらしばらく瓦版をお休みさせて頂きました。

9月20日より、日本経済界の合同訪中代表団が中国・北京と湖北省を訪れます。榊原経団連会長や宗岡日中経済協会会長、三村日本商工会議所会頭等、経済界のそうそうたる面々が参加し、多くの同行記者も随行しますので、それなりの報道がなされるかもしれません。私自身、事務局として加わっており、その準備のため朝早くから夜遅くまでフル活動していますので、今後暫くの間は突然の休刊もあり得ますので、ご容赦願えればと思います。

 

さて、異常な動きを示した台風10号ですが、観測史上初の東北への上陸、東北各地に大きな被害をもたらしました。海も大荒れで、漁業を営む人たちも大変だったかと思います。

本日は、江戸の「魚市場」について、ご紹介したいと思います。

 

魚市場と言えば、「魚河岸」という言葉を思い浮かべますよね。江戸時代の初期に、徳川家康が大坂の佃村から漁師を呼び寄せ、江戸湾内で漁業の特権を与えて獲れた魚を幕府に納めていたことは、以前にも本瓦版でご紹介した通りです。幕府に納めていた魚の残りを、日本橋界隈で売るようになったのが、魚河岸の始まりだと言われています。もちろん、それ以前にも地元の漁師が魚を売っていましたが、それらを一カ所に集めて、問屋を通して売るというシステムにしたのが、この魚河岸だったのです。

 

明暦の大火(1657年)でいったんは焼失、その後復興後に本格的な市場が、日本橋から江戸橋にかけた日本橋川の河岸地域に展開します。北岸(三越側)の本船町、長浜町、安針町、本小田原町などが鮮魚を扱う「日本橋魚河岸」と呼ばれた地域です。それに対して南側(高島屋側)の四日市町には塩魚や干物を扱う「四日市河岸」、また本材木町の楓川(もみじがわ)沿いには延宝2年(1674年)に開かれた「新場」という魚市場がありました。

日本橋以外にも、芝・金杉浜町の海岸に「雑魚場」という小さな市がありました。ここでは、もっぱら庶民向けの小魚を扱っていたようで、この他にも深川蛤町には貝専門の市場もありました。

 

この「河岸」という言葉は、本来、川や堀で船への荷物の積み下ろしをする場所を指します。日本橋周辺だけで22カ所あったと言われ、その場所の地名や荷揚げする品物から、それぞれの呼び名がついていました。ですから、魚を取り扱うことから魚河岸の名がつけられ、それがまた魚市場を表す言葉にも使われるようになったのです。

 

現在、新しく東京都知事に選ばれた小池百合子知事の判断が注目されている築地市場ですが、魚市場と言えばいつも威勢のいい競りというイメージがあります。しかし、江戸時代の市場には競りはありませんでした。漁師は獲った魚を地元の魚問屋に納め、その問屋がまとめて船で日本橋に運び、日ごろから契約してある魚市場の問屋に渡し、その問屋が配下の仲買に売り、仲買が小売の魚屋に売るというシステムになっていました。つまり、事前に魚の価格は決まっており、競りをする必要はなかったのです。

 

江戸時代の魚市場の最大の問題は、何と言っても「鮮度」です。冷凍どころか冷蔵の設備もない時代ですから、魚は時間の経過とともに鮮度はどんどん落ちていきます。人口が増加した江戸では、江戸前だけでは足りず、房総、鹿島灘、相模湾、伊豆などで獲れた魚も日本橋に入ってきました。

内房総、相模湾、伊豆方面は「押送船(おしおくりぶね)」という帆と櫓を併用した快速船で運びましたが、風があった場合でも、房総半島先端部の館山から10時間かかっていたと言われ、特に真夏には魚の傷みが心配されたと思います。更に遠い鹿島灘や九十九里浜の魚は、銚子から底の平らな「まな船」で利根川を遡り、木下か布佐で馬に積み替えて行徳、松戸に送り、そこから再び船に積んで運んでいたので、その間の所要時間は30時間以上、昼間に水揚げされた魚が江戸の食卓に上るまでには、どんなに早くとも3日目の昼になっていまいました。

こうなると真夏でなくとも鮮魚の鮮度はかなり落ちます。ですから、市場では少しでも活きのよい魚を仕入れて売りたいという魚屋の駆け引きがそこで行われ、活気に満ち溢れることになったのです。

 

そこで、何とか活きのよい魚をそのまま運ぶ方法はないかと考えたのが、生簀(いけす)と生け船です。漁で獲った魚を出荷までの間、生簀に入れて、運ぶ時は海水の入った箱に入れて、日本橋まで生きたまま運びました。生簀があれば、出荷時期や出荷量の調整もできるので、市場の安定にもつながります。とはいえ、活きのよい魚が庶民の食卓に上ることは珍しかったようですが、それでも特別な日などには、刺身なんかも食べていたようです。

 

「朝昼晩三千両の落ちどころ」という川柳があります。江戸では1日に三千両のおカネが流れていました。「なんの千両は朝のうち」ということで、そのうち朝の千両は朝の魚河岸で動き、昼の千両は芝居町(江戸三座)、夜の千両は吉原でそれぞれ動いたと言われるほどでした。魚河岸が如何に活況に満ちていたかが分かります。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は台風が近づいており、次第に雨脚が激しくなりつつあります。朝の通勤ラッシュにも影響が出そうですので、早めの対応が宜しいかと思います。

 

さて本日も前回に続いて江戸前に関するお話をしていきたいと思います。

現在、東京湾で普通に見られる魚の種類はおよそ50種類ぐらいだそうで、江戸時代もそう大差はないと思われます。ただ、量については江戸時代の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。ところが、徳川家康が江戸に入る前は、関東の漁師はその魚の豊富さを理解しておらず、漁自体も磯辺に小網や釣り糸を垂らす効率の悪い漁業をしていたことが、慶長年間(15961615年)に書かれた『慶長見聞録』に記されています。

 

そこで家康は江戸入りの際に、当時漁業の先進地域であった摂津国(大阪府)佃村と大和田村の漁師を江戸に呼び寄せました。これが契機になり、関西から多くの漁民が豊かな漁場と大きな市場を求めて関東に押し寄せてきました。

中でも紀州(和歌山県)の漁民はカツオとイワシを追って、戦国時代末期から房総半島や三浦半島に、漁期の春から秋にかけて納屋を建てて出漁し、獲れた魚を乾燥させて持ち帰り関西方面に販売していました。このため、江戸時代に入るとそれら足掛かりのある場所に定住して、年間を通して漁をし、江戸に販売するようになりました。江戸時代中期には、房総半島の漁師の半数以上が紀州出身だったとも言われています。房総には、白浜、田子、勝浦など紀州と同じ地名があるのは、そのためのようです。

 

関西の漁師は、「地獄網」と呼ばれる底刺し網を使って、深海魚や砂底の貝まで獲り尽くす効率的な漁法をしていたようで、関東の漁師は大そう驚いたようです。こうして関東に入ってきた関西の漁業技術が江戸前の漁師たちにも伝播して、漁獲量は増えていきました。とはいえ、江戸前の海は幕府の直接管理の下に置かれていたので、誰もが自由に漁をすることはできませんでした。

幕府は、84の「浦」と呼ばれる漁業専従の村と、18の「磯付き村」と呼ばれる半農半漁の村に漁業権を与え、税を課しました。中でも漁獲量が多かった本芝から品川、羽田、そして東海道沿いの神奈川までの8浦には、将軍家への上納を義務付けていたとのことです。

 

高見澤

 

おはようございます。

昨日の東京は相変わらず雨が降ったり止んだりの不安定な天気でした。このような不安定な状態は、今後激しさを増すようになるものと思われます。地球自体に大きな変化が起きている証拠であり、一刻も早く安全な場所に避難する必要があるのかもしれません。

 

さて、昨日の江戸前のお話しの続きですが、通常「江戸前」といえば、「江戸前の海で獲れた魚」を指します。江戸前の大体の場所は前回のメルマガでお分かりいただけたものと思いますが、海そのものに境界線があるわけではないので、その外側で獲れた魚も江戸前として取り扱われていました。東京湾の内海(三浦半島の観音崎と千葉県富津岬を結んだ線より北側)で漁獲されて、日本橋の魚河岸に直接搬入された魚も江戸前だったのです。

 

江戸前に対して「旅もの」という魚があります。これは江戸前以外の遠隔地から江戸に入ってくる魚を指し、江戸時代前期には塩漬けや干物がほとんどでした。それが江戸時代中期になると、外房や九十九里浜、相模湾、伊豆半島などから生魚も入ってくるようになりますが、現代のような冷凍技術やコールド・チェーンと呼ばれる物流システムなどありませんから、いくら急いだとしても2~3日は経っているので、鮮度はかなり落ちます。つまり、江戸前は鮮度の良さを示すブランドでもあったわけなのです。

 

東京湾には、主なものだけでも多摩川、隅田川、荒川、江戸川といった河川が流れ込んでいます。このため、魚のエサとなるプランクトンが豊富にいることから、江戸前は旅ものよりは栄養も味も勝っているといわれます。しかし、こうした江戸前の恵みを江戸の人たちが十分に受けるようになるまでには、少し時間がかかったようです。

 

基本的に動物の肉を食べない江戸時代の日本人にとって、海の恵みは重要な蛋白源の一つでした。

この続きは、次回ご紹介したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。台風一過の猛暑日だった天気が、今朝は比較的不安定となり、東京都心は朝から雨に見舞われています。降ったり止んだりの不安定な天気が続いています。

それにしてもリオ・五輪で活躍の女子レスリングの選手は大したものです。最後の最後で逆転V、現在のところ2つの金メダルを獲得、もう一人も決勝に残っており、期待がかかります。最後まで諦めず、粘り強く頑張る精神力の強さが大事です。ギリギリのところをどう切り抜けていくか、その人の技量が試されるところです。

 

さて、本日も江戸の食についてのお話を続けたいと思います。

江戸の人々の腹を満たしたものとして、これまでご紹介してきた農産物に加え、海産物を忘れることはできません。いわゆる「江戸前」です。

 

湿地帯や樹木が生い茂るだけの武蔵野台地だった江戸に町づくりが行われ、200年ほど経った文化・文政期(18041830年)頃から、やっと江戸の人々の間に自分たちを生粋の江戸住民だという意識が生まれ始めます。それまで先進的だと思われていた京や大坂に対し、自らの文化を生み出すことができるようになり、それが江戸の人たちの自信につながり、「江戸っ子」という言葉が生まれたのでしょう。

 

江戸時代が始まり、日々拡張を続けて行く江戸の街ですが、やはりその町の範囲を確定しなければなりません。文政元年(1818年)、江戸幕府は町奉行が治安を担当する範囲を「御府内」と呼び、地図に朱色の線を引いて「朱引内」としました。その範囲は、当時の高輪、四谷、板橋の大木戸よりさらに外側を含むもので、西は現在の山手線内、北は板橋・千住、東は亀戸・小名木辺りまででした。

 

文政2年(1819年)の「魚河岸肴問屋」の文書に、「江戸前というのは、西は品川洲崎の一番棒杭から、東は深川洲崎の松棒杭を結ぶ線より内側を江戸前の海と呼んでいる」と書き残されています。現代の住所でいえば、品川区東品川1丁目にある利田(かがた)神社から、江東区木場6丁目の洲崎神社を結ぶ線の内側を指しています。今では内側の海の半分近くが埋め立てられ、線の外側まで埋め立て地が広がっていますが、当時は品川と深川は見通せるほどだったというわけです。

さらに同文書では、「品川の沖に広がる羽田の海が江戸前の西の入り口で、深川の沖が下総の海より入る入口である」と書かれています。幕末に米国のペリーが黒船で来航したとき、幕府は江戸の海に黒船が入ることを阻止するために、大きな大砲を設置する7つの「台場」を建設しましたが、その場所が西の入り口の羽田沖でした。

 

これで江戸前の海の範囲は大体お分かりいただけたかと思います。次回はもう一つの「江戸前」の意味である「魚」についてお話ししたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨晩から今朝方にかけて関東に近づいていた台風は東北に抜けて行きました。出勤途中、少し雨に見舞われましたが、今は止んでいます。今後、台風の大型化や竜巻などの突風も増えていくことが懸念されます。

 

さて、本日は江戸の青果市場についてご紹介したいと思います。

野菜や果物のことを「青果」と言いますが、これは江戸時代に野菜のことを「青物」、果物を「果実」と呼んでいた名残です。ただ当時は野菜の量が圧倒的に多かったために、単に「青物市場」と呼んでいました。また、昔は「やっちゃ場」とも呼ばれていましたが、これは掛け声や囃子のことを「やっちゃ」と言い、それが飛び交う場所ということでついた俗称だそうです。

 

現在、卸売市場では競りを行って取引を行っていますが、江戸時代は競りを行わず、問屋(仲買)仲間で大体の相場を決め、農家は農家で村ごと、あるいは地主単位で一致団結して値段交渉するなど、問屋と農家が対等の立場で取引される相対相場が基本でした。

 

江戸には、三つの大きな青物市場がありました。そのうち、一番規模が大きく有名だったのが「神田青物市場」です。この市場が出来たのは江戸初期の慶長年間(15961615年)で、現在の千代田区神田須田町辺りに自然発生的に生まれたといわれています。この地域は、当時は江戸の大動脈である神田川と日本橋川に挟まれており、船を使った輸送が便利な場所でした。明暦の大火後の貞享3年(1686年)に散在していた青物問屋を神田多町周辺に集め、正式に青物市場として発足させました。ここは将軍家御用達の青物市場でもありました。現在、淡路町交差点の西側から靖国通りに進み、2本目の多町大通りを右に曲がってすぐのビルの前に「神田青果市場発祥之地」の碑があります。

 

二つ目が「千住青物市場」です。三大青物市場の中で、最初にできた市場で、江戸時代に入る前の天正4年(1576年)といいますから、織田信長が安土城を作った時期で、江戸はまだ武蔵野の寒村であった時代です。先住は江戸の北東にあり、中世から続く奥州街道の宿場町で、隅田川を通る船の荷揚げ場でもありました。そのため、早くから近隣の物資が集積し、いち早く市場が形成されたというわけです。ここが公的に市場の形を成したのは、享保20年(1735年)で、ここもまた、徳川幕府の御用達の市場だったようです。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906年)建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。

 

三つ目が「駒込青物市場」で、通称「駒込土物店(こまごめつちものだな)」、武蔵野台地で栽培されたダイコン、ニンジン、ゴボウなど土のついた根野菜を多く扱っていたことから「土物店」と呼ばれました。ここは中山道が通り、奥州街道や川越街道の分岐点(追分)があったため、江戸の街づくりが始まった元和年間(16151625年)には、近郊の農民が江戸市中に野菜を行商に行く道筋であり、農民が坂道の一番上の辺りで一休みしながらお互いの野菜を交換するようになりました。これを見た斉藤伊織という人が、それらの仲立ちを買って出たことが、ここに青物市場ができるきっかけになっということです。文京区本駒込1丁目にある天栄寺の境内に、「駒込土物店縁起」の碑が残されています。

 

この三大青物市場以外にも、京橋川に掛かる京橋と比丘尼橋との間に三浦半島などから船で運ばれたダイコンを荷揚げした「京橋大根河岸」や、竪川などの運河を通って運ばれた葛西方面の野菜を扱う「本所四ツ目青物市場」などがありました。

 

江戸時代の浮世絵を見ながら、こうした史跡を散策してみるのも一興です。機会があれば、勉強会のテーマとしても取り上げたいところです。

 

高見澤

 

おはようございます。台風7号が発生し、今日明日中にも関東に接近、今夜から激しい雨になるとのことです。

幸いにも我が家は高台にあるので、浸水の懸念は大きくありませんが、低地にお住まいの方は今から対策をとられておいた方が宜しいかと思います。

 

さて、本日は江戸の「料理革命」ならぬ「農業革命」についてのお話をしたいと思います。

以前、本メルマガで「旬」と「初物」についてご紹介したことがありました(東藝術倶楽部瓦版 20160803 :江戸の料理革命ー女房を質に入れても初鰹)。この初物を、徳川の将軍様のみならず、多くの人が口にできたのが、江戸時代に考案された野菜の促成栽培だったのです。

 

四代将軍徳川家綱の寛文年間(16611673年)に、江戸の砂村(現在の江東区北砂、南砂、新砂、東砂)で促成栽培が始められました。砂村は海に近く、夜間の急激な温度変化が少なく、野菜の栽培に適した自然環境であったことから、そうした利点を活かして、松本久四郎という農民が工夫したのが始まりといわれています。

 

先ず苗を育てる温床の周りを高さ2~3メートルの蓆で作った垣根で囲い、北風を防ぎます。それに加えて、日本橋にある魚河岸から出る魚のアラを貰い受け、藁や落ち葉と一緒に積んで、その発酵する熱で地温を上げます。さらに保温のために、油紙を張った障子で温床を覆い、寒い日には炭火で温めます。今でいうハウス栽培そのものです。この栽培方法によって、正月にもナス、キュウリ、インゲンの種が植えられ、3月には収穫が可能となりました。

 

これらは、最初は将軍家に献上されていましたが、大金を払ってでも初物を食べたいという大名や豪商が次第に増え、砂村の促成栽培の野菜は高値で取引されるようになりました。これらの野菜は「萌やし」と呼ばれていました。

 

こうした野菜が高値で取引されるとなると、至るところで促成栽培が行われるようになるのが人情というものです。本来であれば、増産することに力を注がなければならないのに、このように異常な手間暇をかけて希少野菜を栽培することに対し、幕府は規制を設けて制限をかけます。寛文以来、たびたび初物の出荷日を規制するお触れが出したようですが、「たびたび」ということは、そのお触れが守られなかったことを意味しています。

 

九代将軍家重の安永年間(17721781年)には、料理茶屋が各地にできて、その客寄せパンダとして早出しの野菜を使った料理がもてはやされたそうです。

夏野菜以外にも、タケノコ、小松菜、ホウレンソウ、レンコンなどが四季を問わずに食べられるようになり、天保年間(18301844年)にはタデ、ツクシ、ワラビ、芽ショウガといった付け合せまで促成栽培されるようになりました。

 

成熟した江戸の社会が、こうした農業革命を可能にしたともいえます。

 

高見澤

 

おはようございます。

リオでのオリンピックも佳境を迎え、日本選手の活躍が連日報道されています。一方で、現地では犯罪に巻き込まれる人も少なからずいるようで、治安悪化対策は南米における最大の課題だと言えるでしょう。このような世界が存在すること自体、異常なことなのですが、現実は現実として捉え、先ずは目の前にある問題に対して前向きに対処していきましょう。

 

さて、江戸の料理革命に関するご紹介は、前回で一区切りさせていただきましたが、食に関するお話しはまだまだ続きます。

 

朝から臭い話で恐縮ですが、食に関するリサイクルのことはぜひとも紹介しておかなければなりません。

先日も江戸の下水に関するお話しで少し紹介しましたが、江戸時代のトイレ事情についてのお話しです。ご存知の通り江戸のトイレは汲み取り式で、人々が日々排出した糞尿は、便所の下に組み込まれたタンクに一旦溜められ、いっぱいになると汲み出され、それが穀物や野菜等を育てるための肥料(下肥)として利用されていました。このため、当時の西洋のように、街路に糞尿が撒き散らされることはなく、また下水に流れ込むこともなかったので、川や海は汚染されずにすんだことは、以前にもご説明した通りです。

 

農業用の肥料としては、刈り草、海草、米糠、食用油の搾りかす、干し鰯などもありましたが、何と言ってもこの下肥が最高の肥料でした。同じ下肥でも、やはり食べているモノが良いと、それだけ肥料価値が高かったようで、農家の間で下肥の争奪戦が起こり、大名や旗本の屋敷では、希望者に対して入札制を導入したところもありました。つまり、農民はおカネを支払って下肥を入手していたのです。現代では、下水道料金やバキュームカー費用等おカネを支払って引き取ってもらいますよね。江戸時代はその逆で、むしろおカネになるのですから、何とも羨ましい限りです。

ですから、売る方からすれば高値で売ろうとします。しかし、農民からすればそんなおカネは支払えないということで、野菜や馬の飼葉を納めたり、あるいは敷地の草刈りなどの労働で対価を支払うこともあったようです。

 

町屋にあるトイレも状況は同じです。長屋など共同トイレの下肥の利益は「大家(おおや)」のものでした。この大家は、今でいうところの管理人で、建物の所有者である「家持(いえもち)」から管理を委託され、「家守(いえもり)」や「家主(いえぬし)」とも呼ばれていました。

大家の仕事は、家賃の集金、井戸・ごみ置き場・便所の管理などで、かなり細かく長屋の管理をしていました。そして、その役得がこの下肥の販売だったというわけです。その利益は、野菜などの受け取りも含め、家持からもらう給金の2倍ほどだったと言われています。長屋住民の協力がなければ、この収入も成り立たないのですから、普段からの住民との付き合いが大事になるわけです。

 

江戸では、この下肥の他にも料理の際に出る野菜くず、竃(へっつい)から出る灰(酸性土壌の中和剤として利用)、アサリやシジミなどの貝殻の灰なども肥料として使われました。

こうした肥料の運搬は、武蔵野台地ような高台では天秤棒や荷車で運んでいましたが、起伏が多く大変だったようです。一方、江戸の東側の低地では掘割や川を使って、船で大量に効率良く運べました。このため、肥料を大量に使う作物が低地でよく栽培されるようになったとも言われています。

下肥を運ぶ専用線を「葛西船」と呼んでいました。これは、江戸城本丸の汲み取りを引き受けていた葛西の農民・権四郎に由来するものです。

 

こうして農村に集められた下肥等の肥料は、一旦「肥溜め」と呼ばれる貯蔵施設に入れられます。ここでしばらく寝かされるわけですが、その間に発酵が進みます。その時の発酵熱は何と70℃にも達します。こうした過程を経て、はじめて下肥が肥料として利用されるようになります。

東京都食品環境指導センター刊行の「くらしの衛生」43号(2001年3月)によれば、温度が70℃になれば寄生虫は死滅し、食中毒の感染は防止できるとのことですから、現代にも通じる昔ながらの知恵がこうしたところでもうかがい知ることができます。

 

高見澤

 

おはようございます。

今週はほとんど瓦版をお休みさせていただきました。個人的な用事もあり、更新できなかったこと、恐縮です。

 

さて、本日は、江戸の料理革命の締め括りとして、日本料理にとってなくてはならない「出汁(だし)」について紹介したいと思います。

日本料理から意識されるようになった味に「旨味(うまみ)」というのがあります。この旨味を最も端的に引き出すのが出汁です。

 

出汁の素といえば、先ず頭に浮かぶのが鰹節、いりこ(煮干し)、昆布、干しシイタケなどでしょう。現代では化学調味料の普及で、こうした天然の素材からわざわざ出汁をとることは少なくなっているようですが、私自身どうもあの化学調味料の味は馴染めません。舌にいつまでも味が残ってしまい、そのうち何の味だったのか分からなくなってしまうからです。

特に日本料理は素材本来の味を活かしながら、調味料によって微妙な味のコントラストを創り出すものですから、やはり自然素材の天然出汁が最適だといえます。その点、中華料理は一般的に大胆な味付けなので、化学調味料が割と重宝されるのですが、食べ過ぎると「中華料理店症候群」と呼ばれる「グルタミン酸ナトリウム(MSG)症候群」が発症することもある(MSGが直接的な原因との証明は明らかになっていない)ので、注意が必要です。

 

この出汁をとる調理法が生まれたのも、実は江戸時代だったと言われています。

鰹節の素となる鰹は、日本列島沿岸であれば、季節にもよりますが、ほとんどの場所で豊富に獲れる魚です。古来、生食はもちろんのこと、保存食として「干し鰹」や「煮干し鰹」に加工したものを食していました。また、煮干し鰹を作るときの煮汁を煮詰めて作った「煎り汁」が高級調味料として一部で使われていました。

室町時代、西日本の産地では煮干し鰹を、藁を燃やした煙で燻して乾燥させる「焙乾」を行うようになり、今の鰹節に近いものが作られるようになりました。しかし、長期間保存したり、遠くへ運搬しているとカビが生えるなど、味が落ちてしまう問題がありました。

 

これが江戸時代の元禄年間(16881704年)に、悪臭を放つカビがつく前に「カツオブシカビ」という良質なカビを付着させることで、今の鰹節が製造できるようになりました。こうして鰹節が西日本の産地から江戸に出荷され、江戸でもそれが食べられるようになったのです。

当初、鰹節は保存できる重要な動物性タンパク質として、煮炊きをしなくても食べられるので、携帯食品として重宝され、合戦の際には「勝男武士(かつおぶし)」の語呂合わせもあって人気の食品でしたが、次第に出汁をとるという調理方法に発展してきました。

それまでの調理法では、汁物を作るときにわざわざ別に出し汁を用意することはなく、中に具として入れる素材から出る味や調味料として加える塩、味噌、醤油などの味だけでした。それが、まず出し汁を作ることから始めるという調理法に変わったのです。これこそ、まさに料理革命と言えるほどの革命的な進歩だと思います。

 

同じ出し汁でも、江戸では鰹節を使っていましたが、京や大坂では専ら昆布が使われていました。江戸では、砂糖や濃口の醤油で濃いめの味付けになるので、動物系のイノシン酸の方が味付けに適しており、逆に薄味の上方では植物系のグルタミン酸が適していたのだと思われます。

 

先日、とある日本料理屋の板前さんにお話しを聞いたところ、日本のような軟水では、昆布や鰹節の出汁が出やすい反面、鶏がらや豚骨などの出汁は出にくく、中国や欧州のような硬水ではそれが逆になるとのこと。ですから、中国で日本料理を作る場合は、鰹節や昆布などの出汁は日本で使う場合の倍の量を使うことになるので、コスト的には割高になってしまうようです。

 

高見澤

 

おはようございます。

昨夜は長野県の岡谷市付近で1時間に100ミリを超す大雨が降ったとの速報が流れました。これから不安定な天気が日常になる可能性も否定できません。世界を見ても、その中で特に日本は根本が間違っていますので、やることなすことすべてが頓珍漢な方向に向かっています。正しい方向に向かうためには、先ずは根本を正す必要があります。そうすれば、地球の怒りも次第に静まっていくのではないかと思います。

 

さて、江戸の料理革命のお話しも次第に佳境に入ってきました。昨日ご紹介した中で、朝食のおかずを売り歩く商売が盛んになったとの話がありました。この始まりは、独身や単身赴任の男性を目当てにした「煮売り屋」や「煮しめ屋」と呼ばれる屋台で、焼き豆腐、焼き魚、大根や芋の煮物などの家庭料理を売っていたものを、「棒手振り(ぼてふり)」という天秤棒に惣菜の入った容器を担いで、長屋に行商するようになったことのようです。

 

この屋台ですが、当時の男性にとって家庭の味に飢えていたのでしょうか、大人気だったようで、店の前に座り込んで食べるようになり、簡単な席や囲いを作って、酒と肴で食事ができるようにしました。これが江戸時代中期には常設の店となり、店舗を構えた「居酒屋」へと発展していったとのことです。

 

明暦の大火(1657年)後に、浅草の浅草寺の境内に煮売り屋のお惣菜にご飯や汁をつけた提供する店が登場します。茶飯や豆腐汁、煮しめ、煮豆などをセットにした「奈良茶飯」で、これが評判を呼び瞬く間に江戸中に同類の店ができました。これが高級志向に発展したのが「料理茶屋」で、庶民のための定食屋になったのが「一膳飯屋」です。

 

江戸時代初期には飲食店もなった江戸の街ですが、こうして次第にいろいろな形態の外食産業が軒を並べるようになりました。江戸の外食産業の代表といえば、そば屋、天ぷら屋、すし屋ですが、これが登場するのは江戸時代中期以降のことです。仕事中、あるいは仕事帰りの男性が軽くお腹を満たすおやつ代わりの感覚で立ち寄ったようです。今風にはファーストフード店といったところでしょうか。人通りの良い場所として、橋の袂や橋の上で営業する者もあり、通行の邪魔になるので、町奉行所は何度も出すことになったようです。

 

その後、女性客を目当てに寺や神社の境内で営業したり、男性客を呼び込もうと美人の女性を雇ったり、また焜炉の普及で温かい料理を出したりなど、サービスの更なる向上に努めるようになりした。こうして江戸の外食産業は大きく発展したのです。外食についていえば、現代とそう変わらない便利さが江戸にはあったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。

ここ二日ほど不安定な天気が続いた東京ですが、今朝は割と安定しているようです。

ですが、やはり夏です。暑いです。

 

現在、世界を見渡すと、ほとんどの国で1日3食が定着しています。朝食、昼食、夕食です。時には夜食なんて1日4食に食べる人もいるかと思いますが、カロリーの摂り過ぎには注意してくださいね。

日本において、1日3食が定着するようになったのは江戸時代以降だと言われています。平安中期以降、貴族の間では1日2食(朝食、夕食)が優雅、3食は野卑だとされていました。江戸時代に入り、1657年の明暦の大火をきっかけに、復興のために駆り出された人に対して、体力維持のために昼食を出すようになったという説があります。本当のところはよく分かりませんが、実際のところ元禄年間(16881704年)には既に1日3食が定着していたようです。

 

この時代、電気炊飯器なんてありませんから、炊いた米を暖かいまま保温しておくなんてことはできません。日本製の電気炊飯器は中国でも大人気で、「爆買い」の対象製品にもなったことは、皆さんも記憶に新しいところでしょう。

ところで、江戸時代に米を炊く時間が江戸と上方(京、大坂)で違っていたことはご存知でしょうか?「江戸の朝炊き、京・大坂の昼炊き」と言われるように、江戸では朝に米を炊いて、昼と夕は冷や飯、上方では昼に炊き、夕と翌朝が冷や飯でした。

 

羽釜で炊いた米をそのままにしておくと余熱で焦げ付いて取りにくくなるので、お櫃に移していました。お櫃は杉や檜の桶に蓋をつけたもので、炊きたてのご飯をその中に入れておくと、少しの間は保温でき、その間にお櫃が余分な水分を吸収してくれ、水分を吸った木肌がご飯の乾燥を防いでくれるので、パサパサの冷や飯にならずにすみます。これも昔の人たちの知恵です。

江戸では夕食は茶漬け、上方では朝食はお粥というのが一般的だったようです。江戸では、冬場に朝に食べ残した味噌汁に冷や飯を入れ、ネギやニラを加えて「おじや(上方では雑炊)」にして食べる人もいました。

 

江戸で朝炊きだったのは、昼飯に弁当を持参することが多かったからだと言われています。

江戸の街では、朝におかずとなる食材を売り歩く商売が盛んだったようです。味噌汁の具となるシジミ、アサリ、豆腐等や、納豆、漬物、煮物など種類は豊富でした。ですから、米さえ炊いておけば、朝食の準備に困ることはありませんでした。こんな商売が流行るもの、江戸の人々の暮らしが豊かだったからなのでしょうね。

 

高見澤

 

おはようございます。

東京は今朝も不安定な天気が続いています。異常気象、気候変動に対する認識の間違いが、誤った対策を生み、それがさらなる異常気象につながります。その根本を治さない限り、問題の解決には至りません。昨日、日本政府より示された28兆円の経済対策も、そうでないことを祈るばかりですが、現実にはそうもいかないでしょう。

 

さて、以前、食の基本は「地産地消」と「旬(季節の物)」というお話をしたことがあったかと思います。

川柳に「女房を質に入れても初鰹」というのがあります。初物を好む江戸っ子の気質を端的に表した川柳ですが、正直に言って初物は総じて美味しくないのが常識です。しかも希少なことから値段も高く、栄養素も旬の時に比べて少ない。つまり、初物なんていうのは、見栄のためばかりで、何の得にもならないのです。

それでも、江戸の人たちは初物に拘ったのですが、それはどうしてなのでしょうか?

 

江戸っ子の初物好きの最も典型的なものは「ナス」でした。初夢に、「一富士、二鷹、三茄子」と縁起の良いものとして称されるように、江戸の人たちにとってナスは特別な存在であったのかもしれません。

徳川家康の時代、駿河の国(静岡県中部)では旧暦の4月中旬(現在の5月頃)に初ナスを収穫して、将軍家に献上していました。その大きさは親指大だったとのことですから、味わうというよりも、珍しさに意味を見出していたのでしょう。その後、幕閣や大名たちの手に届くようになり5月(現在の6月)になると、他の地域からも出荷され庶民の口に入るようになりました。

 

こうなると、建設ラッシュでバブル景気に沸く江戸の豊かな人たちが、将軍様のように初物を早く食べたいという贅沢な気持ちを持つようになり、おカネを惜しまずに初物獲得競争に走ります。生産者は生産者で、高く売れるのならばと、促成栽培に工夫を凝らすようになります。

寛文年間(16611673年)には、江戸郊外の砂村(現在の江東区)で3月中旬(現在の4月)にキュウリ、ナス、インゲン豆の初物が収穫され、将軍家に献上されたとのことですから、わずか50年余りで1カ月も早く収穫されるようになったのです。

 

これに驚いた江戸幕府は、貞享3年(1686年)に初物の売り出しに規制を設けます。ナスや白瓜は5月、熟瓜は6月とするなど、より自然環境に合わせた収穫期にしたのですが、裏を返せば、江戸時代に既に野菜の促成技術がここまで進んでいたことを証明していることになります。

野菜に続き、寛保2年(1742年)には鱒が正月、鮎と鰹が4月、ナマコと鮭が9月、鮟鱇が10月、生鱈が11月、白魚が12月以降と決められました。しかし、江戸の人々が経済的に豊かになると、欲望と見栄にかられ、やはり初物に手を出したくなり、生産者も少しでも多く稼ぎたいとの思いから、需要側と共有側のニーズ、シーズが一致します。幕府が何度禁令を出しても、江戸の人々の初物食いは止まらなかったようです。

これもまた江戸の人々の暮らしの豊かさを示すエピソードの一つです。

 

高見澤

 

おはようございます。

今朝の東京は土砂降り、少し歩いただけでもびしょ濡れでした。今は大分降りも弱くなっていますが、また後で昼前からぶり返すようです。

不安定な天気が続きます。雷や竜巻などの突風も発生しやすいので、気を付けましょう。

 

本日は、昨日話題に出た「江戸わずらい(脚気)」と糠について少し掘り下げてみましょう。

玄米に豊富に含まれるビタミンB群、なかでもビタミンB1が不足すると、足のだるさ、食欲不振、手足のしびれ、動悸、息切れ、そして最後には心不全で命を落とすことにもつながりかねません。江戸では、庶民の間でも白米を食べる習慣が広まっていたために、脚気を患う人が多かったようです。

犬公方で有名な徳川5代将軍・綱吉も、将軍になる前の館林藩主の時代に脚気に罹り、練馬村の下屋敷にしばらく逗留し、糠漬けの沢庵を食べるようになったら、脚気が治ったというエピソードがあります。一方、13代将軍・家定と14代将軍・家茂は、二人とも若くして死にますが、その死因は脚気だったとの説がありますが...欧米諸国が日本に入り込み、倒幕と維新に向けて日本中が動き出す陰謀渦巻く中での若き将軍の死、さてその真相は如何に?

 

ところでこの米糠ですが、現代の白米のレベルですと、玄米の重さの約1割程度になります。一斗で約一升の糠が出る計算になります。これをこのまま捨てるにはもったいない。そこで、糠漬けが登場することになったのは、以前にも紹介した通りです。糠漬けを食べやすい白米と一緒に食べることで、栄養のバランスが保てることになるのです。ちなみにこのビタミンB群は、水溶性であるのと同時に熱にも強いので、玄米を炊いてもビタミンCのように分解されることはありません。ビタミンCB群と同じ水溶性ですが、熱に弱いという弱点があります。

 

この米糠、糠漬け以外にもいろいろな用途があります。お風呂に入るときに、石鹸代わりに糠を袋に入れて擦る「糠袋」、煮た大豆に麹、塩、米糠、水を加えて発酵させたものを味噌汁仕立てにした「糠味噌汁」というのもあります。糠袋は油分が含まれているので、床などのワックスがけにも利用できます。また、チャーハンや雑炊、カレー、コロッケなどに加えてもいいかもしれません。さらには、米糠パック、米糠風呂、洗顔など美容にも役立ちますし、有機肥料としても使えます。捨てるところなど一切ありません。

 

ただ注意しなければならないことは、栄養素が溜まりやすいということは、農薬などの化学物質や重金属も溜まりやすいので、やはり無農薬、低農薬のものを使うことをお勧めします。

 

高見澤

 

おはようございます。

先週金曜日に北京から戻ってきました。北京では珍しく蒸し暑い日が続いており、今年は雨が多いことがうかがわれました。水不足の北京にとっては恵みの雨かと思いきや、雨水対策が十分でなく、少しの大雨で都市機能がマヒする可能性もあり、場合によっては身近でも命の危険を感じる場所も少なくありません。早急なる対策が必要でしょう。

そして昨日は東京都知事選、小池百合子氏が早々に当選確実を決め、圧倒的な強さを見せました。初の女性都知事誕生です。これから東京都がどう変わるのか、注目していきたいところです。

 

さて、江戸時代の主食、米に関する最大の料理革命と言えば、何といっても庶民が白米を食べるようになったことでしょうか。戦国時代以前は、貴族の食卓や酒造りでは精米した白米を使っていましたが、庶民は玄米を食していたようです。それが、江戸時代に入ると庶民の食卓にも白米が上がるようになり、特に江戸中期以降は、長屋の住人でさえも一般的に食するようになりました。

 

従来、米を精米するには、籾殻の付いた米と籾を臼に籾を入れて、杵で叩いて籾殻を取り除いた後、しばらく続けて叩いていると、玄米の糠まで取れて白米にする手法が採られていました。かなりの時間と労力が必要だったので、毎日の炊飯用にここまですることはできませんでした。

それが江戸時代になると、戦乱の世が治まり、兵役や普請の必要がなくなったために、農閑期に駆り出されていた男手に余裕が生まれ、それと同時に中国から「唐臼(からうす)」と呼ばれる足踏み式の臼が導入されたことから、精米の効率が一気に高まり、一般庶民の間でも白米が食べられるようになったというわけです。

 

江戸時代には「江戸わずらい」という病が流行りました。足が浮腫み、身体が怠くなり、歩行が困難になり、最終的には抹消神経障害をきたして心不全でご臨終...これは、明らかなるビタミンB群の不足からくる「脚気」という病気です。この瓦版でも以前ご紹介したこともありますが、白米を食べるようになって、糠に含まれるビタミンB群が欠乏したことによる現象です。

 

こうした人々が江戸を離れ、農村に戻って生活するようになると、白米だけではなく、野菜や山菜、糠漬けなどを食べることで、ビタミンB群が補給されて、脚気が自然と治っていく...ということもあったようです。

料理革命によって白米が食べられるようになっても、精米過程で生じる糠を再利用することで、米そのものに含まれる栄養素も身体に入れることができるのです。無駄なものは一切出さないリサイクルの精神、ゼロエミッションの理想的世界の一端をここに垣間見ることができます。

 

高見澤

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