おはようございます。
先週は業務多忙のため、勝手ながらしばらく瓦版をお休みさせて頂きました。
9月20日より、日本経済界の合同訪中代表団が中国・北京と湖北省を訪れます。榊原経団連会長や宗岡日中経済協会会長、三村日本商工会議所会頭等、経済界のそうそうたる面々が参加し、多くの同行記者も随行しますので、それなりの報道がなされるかもしれません。私自身、事務局として加わっており、その準備のため朝早くから夜遅くまでフル活動していますので、今後暫くの間は突然の休刊もあり得ますので、ご容赦願えればと思います。
さて、異常な動きを示した台風10号ですが、観測史上初の東北への上陸、東北各地に大きな被害をもたらしました。海も大荒れで、漁業を営む人たちも大変だったかと思います。
本日は、江戸の「魚市場」について、ご紹介したいと思います。
魚市場と言えば、「魚河岸」という言葉を思い浮かべますよね。江戸時代の初期に、徳川家康が大坂の佃村から漁師を呼び寄せ、江戸湾内で漁業の特権を与えて獲れた魚を幕府に納めていたことは、以前にも本瓦版でご紹介した通りです。幕府に納めていた魚の残りを、日本橋界隈で売るようになったのが、魚河岸の始まりだと言われています。もちろん、それ以前にも地元の漁師が魚を売っていましたが、それらを一カ所に集めて、問屋を通して売るというシステムにしたのが、この魚河岸だったのです。
明暦の大火(1657年)でいったんは焼失、その後復興後に本格的な市場が、日本橋から江戸橋にかけた日本橋川の河岸地域に展開します。北岸(三越側)の本船町、長浜町、安針町、本小田原町などが鮮魚を扱う「日本橋魚河岸」と呼ばれた地域です。それに対して南側(高島屋側)の四日市町には塩魚や干物を扱う「四日市河岸」、また本材木町の楓川(もみじがわ)沿いには延宝2年(1674年)に開かれた「新場」という魚市場がありました。
日本橋以外にも、芝・金杉浜町の海岸に「雑魚場」という小さな市がありました。ここでは、もっぱら庶民向けの小魚を扱っていたようで、この他にも深川蛤町には貝専門の市場もありました。
この「河岸」という言葉は、本来、川や堀で船への荷物の積み下ろしをする場所を指します。日本橋周辺だけで22カ所あったと言われ、その場所の地名や荷揚げする品物から、それぞれの呼び名がついていました。ですから、魚を取り扱うことから魚河岸の名がつけられ、それがまた魚市場を表す言葉にも使われるようになったのです。
現在、新しく東京都知事に選ばれた小池百合子知事の判断が注目されている築地市場ですが、魚市場と言えばいつも威勢のいい競りというイメージがあります。しかし、江戸時代の市場には競りはありませんでした。漁師は獲った魚を地元の魚問屋に納め、その問屋がまとめて船で日本橋に運び、日ごろから契約してある魚市場の問屋に渡し、その問屋が配下の仲買に売り、仲買が小売の魚屋に売るというシステムになっていました。つまり、事前に魚の価格は決まっており、競りをする必要はなかったのです。
江戸時代の魚市場の最大の問題は、何と言っても「鮮度」です。冷凍どころか冷蔵の設備もない時代ですから、魚は時間の経過とともに鮮度はどんどん落ちていきます。人口が増加した江戸では、江戸前だけでは足りず、房総、鹿島灘、相模湾、伊豆などで獲れた魚も日本橋に入ってきました。
内房総、相模湾、伊豆方面は「押送船(おしおくりぶね)」という帆と櫓を併用した快速船で運びましたが、風があった場合でも、房総半島先端部の館山から10時間かかっていたと言われ、特に真夏には魚の傷みが心配されたと思います。更に遠い鹿島灘や九十九里浜の魚は、銚子から底の平らな「まな船」で利根川を遡り、木下か布佐で馬に積み替えて行徳、松戸に送り、そこから再び船に積んで運んでいたので、その間の所要時間は30時間以上、昼間に水揚げされた魚が江戸の食卓に上るまでには、どんなに早くとも3日目の昼になっていまいました。
こうなると真夏でなくとも鮮魚の鮮度はかなり落ちます。ですから、市場では少しでも活きのよい魚を仕入れて売りたいという魚屋の駆け引きがそこで行われ、活気に満ち溢れることになったのです。
そこで、何とか活きのよい魚をそのまま運ぶ方法はないかと考えたのが、生簀(いけす)と生け船です。漁で獲った魚を出荷までの間、生簀に入れて、運ぶ時は海水の入った箱に入れて、日本橋まで生きたまま運びました。生簀があれば、出荷時期や出荷量の調整もできるので、市場の安定にもつながります。とはいえ、活きのよい魚が庶民の食卓に上ることは珍しかったようですが、それでも特別な日などには、刺身なんかも食べていたようです。
「朝昼晩三千両の落ちどころ」という川柳があります。江戸では1日に三千両のおカネが流れていました。「なんの千両は朝のうち」ということで、そのうち朝の千両は朝の魚河岸で動き、昼の千両は芝居町(江戸三座)、夜の千両は吉原でそれぞれ動いたと言われるほどでした。魚河岸が如何に活況に満ちていたかが分かります。
高見澤