東藝術倶楽部瓦版 20160805 :江戸の料理革命ー外食産業の発展

 

おはようございます。

昨夜は長野県の岡谷市付近で1時間に100ミリを超す大雨が降ったとの速報が流れました。これから不安定な天気が日常になる可能性も否定できません。世界を見ても、その中で特に日本は根本が間違っていますので、やることなすことすべてが頓珍漢な方向に向かっています。正しい方向に向かうためには、先ずは根本を正す必要があります。そうすれば、地球の怒りも次第に静まっていくのではないかと思います。

 

さて、江戸の料理革命のお話しも次第に佳境に入ってきました。昨日ご紹介した中で、朝食のおかずを売り歩く商売が盛んになったとの話がありました。この始まりは、独身や単身赴任の男性を目当てにした「煮売り屋」や「煮しめ屋」と呼ばれる屋台で、焼き豆腐、焼き魚、大根や芋の煮物などの家庭料理を売っていたものを、「棒手振り(ぼてふり)」という天秤棒に惣菜の入った容器を担いで、長屋に行商するようになったことのようです。

 

この屋台ですが、当時の男性にとって家庭の味に飢えていたのでしょうか、大人気だったようで、店の前に座り込んで食べるようになり、簡単な席や囲いを作って、酒と肴で食事ができるようにしました。これが江戸時代中期には常設の店となり、店舗を構えた「居酒屋」へと発展していったとのことです。

 

明暦の大火(1657年)後に、浅草の浅草寺の境内に煮売り屋のお惣菜にご飯や汁をつけた提供する店が登場します。茶飯や豆腐汁、煮しめ、煮豆などをセットにした「奈良茶飯」で、これが評判を呼び瞬く間に江戸中に同類の店ができました。これが高級志向に発展したのが「料理茶屋」で、庶民のための定食屋になったのが「一膳飯屋」です。

 

江戸時代初期には飲食店もなった江戸の街ですが、こうして次第にいろいろな形態の外食産業が軒を並べるようになりました。江戸の外食産業の代表といえば、そば屋、天ぷら屋、すし屋ですが、これが登場するのは江戸時代中期以降のことです。仕事中、あるいは仕事帰りの男性が軽くお腹を満たすおやつ代わりの感覚で立ち寄ったようです。今風にはファーストフード店といったところでしょうか。人通りの良い場所として、橋の袂や橋の上で営業する者もあり、通行の邪魔になるので、町奉行所は何度も出すことになったようです。

 

その後、女性客を目当てに寺や神社の境内で営業したり、男性客を呼び込もうと美人の女性を雇ったり、また焜炉の普及で温かい料理を出したりなど、サービスの更なる向上に努めるようになりした。こうして江戸の外食産業は大きく発展したのです。外食についていえば、現代とそう変わらない便利さが江戸にはあったのです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年8月 5日 15:51に書いたブログ記事です。

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