おはようございます。台風7号が発生し、今日明日中にも関東に接近、今夜から激しい雨になるとのことです。
幸いにも我が家は高台にあるので、浸水の懸念は大きくありませんが、低地にお住まいの方は今から対策をとられておいた方が宜しいかと思います。
さて、本日は江戸の「料理革命」ならぬ「農業革命」についてのお話をしたいと思います。
以前、本メルマガで「旬」と「初物」についてご紹介したことがありました(東藝術倶楽部瓦版 20160803 :江戸の料理革命ー女房を質に入れても初鰹)。この初物を、徳川の将軍様のみならず、多くの人が口にできたのが、江戸時代に考案された野菜の促成栽培だったのです。
四代将軍徳川家綱の寛文年間(1661~1673年)に、江戸の砂村(現在の江東区北砂、南砂、新砂、東砂)で促成栽培が始められました。砂村は海に近く、夜間の急激な温度変化が少なく、野菜の栽培に適した自然環境であったことから、そうした利点を活かして、松本久四郎という農民が工夫したのが始まりといわれています。
先ず苗を育てる温床の周りを高さ2~3メートルの蓆で作った垣根で囲い、北風を防ぎます。それに加えて、日本橋にある魚河岸から出る魚のアラを貰い受け、藁や落ち葉と一緒に積んで、その発酵する熱で地温を上げます。さらに保温のために、油紙を張った障子で温床を覆い、寒い日には炭火で温めます。今でいうハウス栽培そのものです。この栽培方法によって、正月にもナス、キュウリ、インゲンの種が植えられ、3月には収穫が可能となりました。
これらは、最初は将軍家に献上されていましたが、大金を払ってでも初物を食べたいという大名や豪商が次第に増え、砂村の促成栽培の野菜は高値で取引されるようになりました。これらの野菜は「萌やし」と呼ばれていました。
こうした野菜が高値で取引されるとなると、至るところで促成栽培が行われるようになるのが人情というものです。本来であれば、増産することに力を注がなければならないのに、このように異常な手間暇をかけて希少野菜を栽培することに対し、幕府は規制を設けて制限をかけます。寛文以来、たびたび初物の出荷日を規制するお触れが出したようですが、「たびたび」ということは、そのお触れが守られなかったことを意味しています。
九代将軍家重の安永年間(1772~1781年)には、料理茶屋が各地にできて、その客寄せパンダとして早出しの野菜を使った料理がもてはやされたそうです。
夏野菜以外にも、タケノコ、小松菜、ホウレンソウ、レンコンなどが四季を問わずに食べられるようになり、天保年間(1830~1844年)にはタデ、ツクシ、ワラビ、芽ショウガといった付け合せまで促成栽培されるようになりました。
成熟した江戸の社会が、こうした農業革命を可能にしたともいえます。
高見澤