東藝術倶楽部瓦版 20160817 :江戸の三大青物市場

 

おはようございます。昨晩から今朝方にかけて関東に近づいていた台風は東北に抜けて行きました。出勤途中、少し雨に見舞われましたが、今は止んでいます。今後、台風の大型化や竜巻などの突風も増えていくことが懸念されます。

 

さて、本日は江戸の青果市場についてご紹介したいと思います。

野菜や果物のことを「青果」と言いますが、これは江戸時代に野菜のことを「青物」、果物を「果実」と呼んでいた名残です。ただ当時は野菜の量が圧倒的に多かったために、単に「青物市場」と呼んでいました。また、昔は「やっちゃ場」とも呼ばれていましたが、これは掛け声や囃子のことを「やっちゃ」と言い、それが飛び交う場所ということでついた俗称だそうです。

 

現在、卸売市場では競りを行って取引を行っていますが、江戸時代は競りを行わず、問屋(仲買)仲間で大体の相場を決め、農家は農家で村ごと、あるいは地主単位で一致団結して値段交渉するなど、問屋と農家が対等の立場で取引される相対相場が基本でした。

 

江戸には、三つの大きな青物市場がありました。そのうち、一番規模が大きく有名だったのが「神田青物市場」です。この市場が出来たのは江戸初期の慶長年間(15961615年)で、現在の千代田区神田須田町辺りに自然発生的に生まれたといわれています。この地域は、当時は江戸の大動脈である神田川と日本橋川に挟まれており、船を使った輸送が便利な場所でした。明暦の大火後の貞享3年(1686年)に散在していた青物問屋を神田多町周辺に集め、正式に青物市場として発足させました。ここは将軍家御用達の青物市場でもありました。現在、淡路町交差点の西側から靖国通りに進み、2本目の多町大通りを右に曲がってすぐのビルの前に「神田青果市場発祥之地」の碑があります。

 

二つ目が「千住青物市場」です。三大青物市場の中で、最初にできた市場で、江戸時代に入る前の天正4年(1576年)といいますから、織田信長が安土城を作った時期で、江戸はまだ武蔵野の寒村であった時代です。先住は江戸の北東にあり、中世から続く奥州街道の宿場町で、隅田川を通る船の荷揚げ場でもありました。そのため、早くから近隣の物資が集積し、いち早く市場が形成されたというわけです。ここが公的に市場の形を成したのは、享保20年(1735年)で、ここもまた、徳川幕府の御用達の市場だったようです。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906年)建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。

 

三つ目が「駒込青物市場」で、通称「駒込土物店(こまごめつちものだな)」、武蔵野台地で栽培されたダイコン、ニンジン、ゴボウなど土のついた根野菜を多く扱っていたことから「土物店」と呼ばれました。ここは中山道が通り、奥州街道や川越街道の分岐点(追分)があったため、江戸の街づくりが始まった元和年間(16151625年)には、近郊の農民が江戸市中に野菜を行商に行く道筋であり、農民が坂道の一番上の辺りで一休みしながらお互いの野菜を交換するようになりました。これを見た斉藤伊織という人が、それらの仲立ちを買って出たことが、ここに青物市場ができるきっかけになっということです。文京区本駒込1丁目にある天栄寺の境内に、「駒込土物店縁起」の碑が残されています。

 

この三大青物市場以外にも、京橋川に掛かる京橋と比丘尼橋との間に三浦半島などから船で運ばれたダイコンを荷揚げした「京橋大根河岸」や、竪川などの運河を通って運ばれた葛西方面の野菜を扱う「本所四ツ目青物市場」などがありました。

 

江戸時代の浮世絵を見ながら、こうした史跡を散策してみるのも一興です。機会があれば、勉強会のテーマとしても取り上げたいところです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年8月17日 17:15に書いたブログ記事です。

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