東藝術倶楽部瓦版 20160818 :江戸前の海の範囲

 

おはようございます。台風一過の猛暑日だった天気が、今朝は比較的不安定となり、東京都心は朝から雨に見舞われています。降ったり止んだりの不安定な天気が続いています。

それにしてもリオ・五輪で活躍の女子レスリングの選手は大したものです。最後の最後で逆転V、現在のところ2つの金メダルを獲得、もう一人も決勝に残っており、期待がかかります。最後まで諦めず、粘り強く頑張る精神力の強さが大事です。ギリギリのところをどう切り抜けていくか、その人の技量が試されるところです。

 

さて、本日も江戸の食についてのお話を続けたいと思います。

江戸の人々の腹を満たしたものとして、これまでご紹介してきた農産物に加え、海産物を忘れることはできません。いわゆる「江戸前」です。

 

湿地帯や樹木が生い茂るだけの武蔵野台地だった江戸に町づくりが行われ、200年ほど経った文化・文政期(18041830年)頃から、やっと江戸の人々の間に自分たちを生粋の江戸住民だという意識が生まれ始めます。それまで先進的だと思われていた京や大坂に対し、自らの文化を生み出すことができるようになり、それが江戸の人たちの自信につながり、「江戸っ子」という言葉が生まれたのでしょう。

 

江戸時代が始まり、日々拡張を続けて行く江戸の街ですが、やはりその町の範囲を確定しなければなりません。文政元年(1818年)、江戸幕府は町奉行が治安を担当する範囲を「御府内」と呼び、地図に朱色の線を引いて「朱引内」としました。その範囲は、当時の高輪、四谷、板橋の大木戸よりさらに外側を含むもので、西は現在の山手線内、北は板橋・千住、東は亀戸・小名木辺りまででした。

 

文政2年(1819年)の「魚河岸肴問屋」の文書に、「江戸前というのは、西は品川洲崎の一番棒杭から、東は深川洲崎の松棒杭を結ぶ線より内側を江戸前の海と呼んでいる」と書き残されています。現代の住所でいえば、品川区東品川1丁目にある利田(かがた)神社から、江東区木場6丁目の洲崎神社を結ぶ線の内側を指しています。今では内側の海の半分近くが埋め立てられ、線の外側まで埋め立て地が広がっていますが、当時は品川と深川は見通せるほどだったというわけです。

さらに同文書では、「品川の沖に広がる羽田の海が江戸前の西の入り口で、深川の沖が下総の海より入る入口である」と書かれています。幕末に米国のペリーが黒船で来航したとき、幕府は江戸の海に黒船が入ることを阻止するために、大きな大砲を設置する7つの「台場」を建設しましたが、その場所が西の入り口の羽田沖でした。

 

これで江戸前の海の範囲は大体お分かりいただけたかと思います。次回はもう一つの「江戸前」の意味である「魚」についてお話ししたいと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年8月18日 14:18に書いたブログ記事です。

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