おはようございます。今朝の東京は台風が近づいており、次第に雨脚が激しくなりつつあります。朝の通勤ラッシュにも影響が出そうですので、早めの対応が宜しいかと思います。
さて本日も前回に続いて江戸前に関するお話をしていきたいと思います。
現在、東京湾で普通に見られる魚の種類はおよそ50種類ぐらいだそうで、江戸時代もそう大差はないと思われます。ただ、量については江戸時代の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。ところが、徳川家康が江戸に入る前は、関東の漁師はその魚の豊富さを理解しておらず、漁自体も磯辺に小網や釣り糸を垂らす効率の悪い漁業をしていたことが、慶長年間(1596~1615年)に書かれた『慶長見聞録』に記されています。
そこで家康は江戸入りの際に、当時漁業の先進地域であった摂津国(大阪府)佃村と大和田村の漁師を江戸に呼び寄せました。これが契機になり、関西から多くの漁民が豊かな漁場と大きな市場を求めて関東に押し寄せてきました。
中でも紀州(和歌山県)の漁民はカツオとイワシを追って、戦国時代末期から房総半島や三浦半島に、漁期の春から秋にかけて納屋を建てて出漁し、獲れた魚を乾燥させて持ち帰り関西方面に販売していました。このため、江戸時代に入るとそれら足掛かりのある場所に定住して、年間を通して漁をし、江戸に販売するようになりました。江戸時代中期には、房総半島の漁師の半数以上が紀州出身だったとも言われています。房総には、白浜、田子、勝浦など紀州と同じ地名があるのは、そのためのようです。
関西の漁師は、「地獄網」と呼ばれる底刺し網を使って、深海魚や砂底の貝まで獲り尽くす効率的な漁法をしていたようで、関東の漁師は大そう驚いたようです。こうして関東に入ってきた関西の漁業技術が江戸前の漁師たちにも伝播して、漁獲量は増えていきました。とはいえ、江戸前の海は幕府の直接管理の下に置かれていたので、誰もが自由に漁をすることはできませんでした。
幕府は、84の「浦」と呼ばれる漁業専従の村と、18の「磯付き村」と呼ばれる半農半漁の村に漁業権を与え、税を課しました。中でも漁獲量が多かった本芝から品川、羽田、そして東海道沿いの神奈川までの8浦には、将軍家への上納を義務付けていたとのことです。
高見澤