2016年9月アーカイブ

 

おはようございます。

9月も今日で終わり、明日からは10月。今朝は大分涼しくなった感じがしました。

 

さて、そろそろ江戸の魚についてのお話も今日で一段落とさせたいと思います。今日の話題は「貝」です。

 

江戸時代、貝といえば何といっても「潮干狩り」です。今でもゴールデンウイークには風物詩として、テレビでもその映像を見ることがあります。

春3月(新暦4月)、江戸前の海は大潮で、芝浦、高輪、品川沖、佃島、深川洲崎、中川沖などには洲が姿を見せていました。江戸の人々は、満潮のときには船を出して沖に行き、引き潮で洲が顔を出したら上陸してハマグリやアサリなどの貝を獲っていました。洲に取り残されたヒラメやカニを見つけることもあったようでした。

江戸時代初期には、少しでも新鮮な魚介類を食べようという江戸庶民の思いから始まったようですが、江戸時代後期にもなるとレジャーとして江戸庶民の間に年中行事として定着し、家族総出で1日を楽しく過ごすようになりました。

 

江戸前の海は遠浅で、川から流れ込む栄養分の多い淡水が混ざり合うため、貝にとっては良好な成育環境となり、砂地からはシジミ、ハマグリ、バカガイ、サルボオなどが豊富に獲れたようです。今では、福島第1原発事故の影響で、江戸前の海の放射能汚染が懸念されるところですが、当時はさぞかし安心して江戸前の新鮮な味を堪能できたことでしょう。

 

江戸時代当時、シジミは砂抜きをしてそのまま味噌汁などにしたようですが、ハマグリやアサリ、バカガイ、サルボオなどはむき身にして食べていたとのことです。魚より鮮度が良いものが手に入ったので、むき身をそのまま刺身として食べることもあったようです。「アオヤギ(バカガイの足)」や「小柱(貝柱)」は今でも江戸前の握り寿司の定番ネタとなっています。

貝は比較的手に入りやすかったこともあり、殻つき、むき身を問わず棒手振りの行商人たちによって、毎日長屋まで届けられていました。殻つきのハマグリは小粒のもので1升20文(400円)ほどで、現在に比べかなり安かったことが分かります。また、江戸時代後期には江戸前の海で牡蠣の養殖も行われていました。

 

貝について、もう一つご紹介しておかなければならないことがあります。それは、食べ終わった後の貝殻の使い道です。牡蠣の貝殻は、それを買い歩く商売があったようで、その殻を燃やして灰にした後、土蔵などの外壁に塗る漆喰の代用品として活用したり、その他の貝殻も焼くことによって有機石灰として畑の肥料として重宝されたりしていました。現代のようなシックハウス症候群もなく、ミネラル満点の野菜を常に食べることができたのです。まさにゼロエミッションを絵に描いたような食材だと言えましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。長らくの休刊、皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。

ニュースや新聞でご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、日本経済界の大型訪中代表団も中国国家要人や経済官庁、地方政府機関、企業経営者との交流を終え、無事帰国することができました。私の所属する日中経済協会の会長、経団連会長、日本商工会議所会頭をはじめ、日本を代表する大手企業の現役の会長・社長や、そうした役職を務め、以前として経済界に大きな影響力を有しているOB(相談役、顧問、名誉会長等)が多く参加しているものですから、名簿や座席の順番(プロトコール)、発言の場所・テーマ・内容等の割振り、それぞれの要望への対応、秘書との折衝など、その気遣いや配慮は並大抵のことではありません。正直なところ、心身ともに疲労困憊です。

しかも、資料の整理や報告書の作成、経理処理や来年に向けた企画などの残務が残っており、まだまだ休むわけにはいきません。とはいえ、自分の作成した原稿が、そうした人たちの口から中国の国家要人に向けて発せられたときの気分は何とも言えない気持ちです。でも、決して自分たちが日中経済や世の中を動かしているという慢心に陥ってはいけません。影響力が大きくなればなるほど、慎みを強めていかなければなりません。

今次訪中団に絡め、中国経済や日中関係についてはまた何らかの形で皆さんにご紹介することとしますので、先ずはまた江戸時代に戻りたいと思います。

 

江戸の魚の話が途中になっていましたね。前々回と前回は鰹と秋刀魚についてご紹介してきました。今回はもう一つ江戸の人々に親しまれていた魚である「鮭」についてお話しをしたいと思います。

現代では、鮭といえば北海道や東北、あるいはノルウェー、アラスカなど北方の寒い地域で獲れるイメージがありますが、江戸時代には関東の川でも鮭の遡上がよく見られました。迷い込んだという意味では、多摩川や隅田川でもあったようですが、例年遡上した鮭が漁の対象となっていた南限は、外房九十九里浜の栗山川だと言われています。

 

江戸に入ってくる鮭のほとんどは塩鮭で、しかもしっかりと塩が利いている「荒巻き(新巻き)鮭」でした。最近ではあまり見られなくなりましたが、昔はお歳暮用の品として人気がありました。この「荒巻き」ですが、鮭を輸送するときに藁で作った荒縄で縛っていたからで、新年のお膳にのる魚ということで、「新」の字を充てるようになったとのことです。

 

この荒巻き鮭は、江戸時代前期には、武家の贈答用として扱われ、大名の弁当にすら滅多に入らないほどの高級品でしたから、庶民には全く縁のない魚だったようです。それが江戸時代中期にもなると、松前藩が樺太(サハリン)に漁場を開拓するなどして、北海道からも大量に入荷するようになり、価格は下落して、ようやく庶民の口にも入るようになりました。

 

この鮭にも初物に絡むお話しがあります。鮭が領内の川を遡上する水戸藩(茨城県)では、川岸の村々に対して、最初に獲れた鮭を藩に献上すれば、早い順に29番目まで褒賞金を与えるという決まりがあったそうです。ちなみに1番には10両(100万円)が与えられたようです。

水戸藩では、この鮭を朝廷と将軍家に献上していたのですが、他の藩も同じように献上するようになると、何としても「初物」を献上しようと躍起になっていたのかもしれません。そうなると、江戸に近い水戸藩が有利だったのでしょうね。

ちなみに幕末の鮭の値段ですが、万延元年(1860年)紀州藩(和歌山県)の江戸屋敷に住む酒井伴四郎という下級武士が、体長2尺5寸(75センチ)の荒巻き鮭を256文(約4000円)で買って食べたという記録があります。今よりは幾分安いくらいでしょうか?

 

高見澤

 

おはようございます。

東京も大分涼しさを感じるようになりました。とはいえ、天気は相変わらず不安定で、地球の営みが大きく変わりつつある雰囲気を感じています。

昨晩の人権擁護連盟関係者のパーティには、途中からしか参加できず大変残念でした。それでも、博士のお話を少しでも聞くことができました。

 

さて、そろそろ秋の気配を感じる季節です。秋といえば秋刀魚ですね。ただ、今年は異変が起きていて、秋刀魚の値段がかなり高いようです。先日の新聞には、卸売価格が昨年の3倍だと書かれていました。その原因として、中国や台湾の漁船が、公海上で大量に秋刀魚を捕獲しているからだとの報道をみましたが、果たしてそうなのでしょうか? 海も生き物です。あれから5年半近く、何らかの異変が起きていてもおかしくはありません。

 

中々活きのいい魚を食べることができなかった江戸の庶民にとって、日常の魚といえば干し魚と塩魚でした。その中で、代表的なのが秋刀魚と鮭です。今では秋刀魚は新鮮なのが当たり前ですが、当時の秋刀魚の漁場は、寒流が南下する鹿島灘や銚子の沖でした。水揚げされた秋刀魚は、銚子から利根川を遡り、途中陸路に変えて、さらに江戸川を下るルートで江戸に入るわけですから、最短でも30時間、丸1日以上かかってしまいます。鮮度の落ちやすい秋刀魚はそのまま運ぶと売れないため、銚子であらかじめ塩を振って、塩秋刀魚として運んでいたのです。これが江戸に到着するころには、ちょうどいい塩加減になっていたことでしょう。

 

江戸では、この秋刀魚を売るのは魚屋ではなく塩物屋で、秋になると秋刀魚の入った籠をさげて売り歩きました。それでも江戸中期までは下魚だといって一般には人気がなく、塩分や脂肪分を摂取したい肉体労働者が好んで食べていたようです。それが寛政年間(17891801年)頃になると、一般にも食べられるようになり、出初めには「初物」として先を争って買うほどに人気が高まったようです。

 

秋の風物詩、今年は気軽に堪能できるのでしょうか?

 

高見澤

 

おはようございます。皆様には大変ご無沙汰して申し訳ありません。

来週火曜日20日から、日本経済界の大型訪中代表団が北京を訪れ、中国の国家指導者と会見するほか、政府機関や企業家との交流を行います。ちょうど今、その準備で大忙しで、瓦版の作成に手が回らない状態が続いています。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 

さて、今東京では、築地市場の豊洲への移転をめぐって大変な騒ぎになっています。ガス工場の跡地に人の口の中に入る生鮮食料品の卸売市場を移転するというのですから、これはまた慎重に行わないと大変なことになるわけです。その辺の認識が、東京都庁のお役人様にはまったくと言っていたわけですら、日本の地方行政のレベルの低さに、驚きを感じざるを得ません。このような国が、国際的に一流でいられるわけがありません。当然の帰結です。

 

魚料理といえば、日本人にとって真っ先に思い浮かべるのは刺身、天ぷら、焼き魚、煮魚などでしょう。今では冷凍保存や流通の発達によって、日本中どこでも新鮮な刺身を食べることができます。ところが、江戸時代にはそんなものはありませんから、以前お話しした通り「生簀」という工夫によって、庶民でも普通に口にすることができるようになったのです。

 

江戸時代の刺身の代表格といえば、何といっても「鰹」です。鰹は回遊魚ですから、関東には旧暦の4月、新暦では5月頃にやってきます。もちろん東京湾にはほとんど入ってきませんので、鮮魚としては、最初は鎌倉や小田原沖で獲れたものが江戸に入ってきます。獲れた鰹は東京湾の入り口まで運び、三崎で待機している押送船(おしおくりぶね)に積み替えられて江戸の河岸に届けられます。北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」に描かれている船がこの押送船で、こうして江戸の河岸に入った鰹が「初鰹」というわけです。

 

初鰹は、先ずは将軍家に献上され、その残りが市中に出回ります。この値段が、天明年間(17811789年)には1匹3両(現在の価格で24万円ほど)で、それでも食べたいという金持ちが大勢いたというのですから驚きです。これが日を追うごとに入荷量も増え、最終的には200文(4000円ほど)にまで下がったものですから、それでも贅沢品とはいえ、初鰹として庶民の口にも入るようになったのです。「二百で買って一両の気で食い」という川柳があります。200文で買った鰹を1両で買った気で食べるという意味です。おカネ云々よりも、人々の感じ方を大切にしている江戸ならではの心意気を象徴している川柳です。

 

高見澤

 

おはようございます。今日から9月です。月日が経つのは早いものです。

台風が過ぎ去った後、晴れの日が続く東京では、数日前の真夏のような暑さも過ぎ去り、今朝の風は比較的爽やかでした。

 

さて、本日は江戸の人々が食べていた魚について、ご紹介したいと思います。

文政2年(1824年)に出版された『武江物産志』という書物があります。江戸近郊の物産や動植物について書かれた自然志で、ここには海魚42種、川魚17種、貝類11種が挙げられています。

これらの魚には、それぞれ上魚、下魚といったランキングがあったようです。上魚の上位から、コイ、タイ、アユ、エビ、キス、スズキが並び、下魚は下からイワシ、サバ、アジ、フナ、マグロと並んでいきます。このランキングは、平安時代から宮中で料理を儀式として取り仕切ってきた四条流の『四条流包丁書』に書かれているとのことで、江戸時代には将軍家の料理にも取り入れられた格式でした。

 

原則として、海の魚は白身魚が上魚だったようで、特にタイは江戸城をはじめ、武家屋敷でも祝い事の席にはなくてはならない魚でした。今でも、「メデタイ」との語呂合わせで、縁起の良い魚とされていますよね。それに対して、タイにはあまり縁がなかった庶民が食べていたのが下魚です。特にイワシは漁獲量が最も多く、干せば目刺しとして保存もできるので、重宝されていたようです。販売も魚屋ではなく、イワシ専門の棒手振りの行商が、毎日長屋に来ていました。

 

今では同じ量の牛肉や銀よりも高い大トロを有するマグロですが、江戸時代中期までは漁獲地が房総半島の南端・布良(めら)村沖だったため、輸送に時間がかかり鮮度が落ちてしまうので、当然生で食べることはせず、火を通してから食べるのが一般的だったようです。それが江戸時代後期になると、海流の変化で三浦半島沖でも大量に獲れるようになり、新鮮なマグロが日本橋に届くようになり、生で食べられるようになりました。マグロは魚体が大きいのでそのまま売ることはできません。今はスーパーや魚屋では縦に下ろして「柵(さく)」にして売っていますが、当時は胴を輪切りにして販売していたようです。『江戸名所図会』には、当時の日本橋の魚市場で、マグロが運ばれたり、輪切りにされて売られている様子が描かれています。

今では高値で取引される脂肪の多いトロですが、当時は「猫またぎ」などと言われ、猫でさえも食べないとされていました。江戸時代は、脂肪の層が筋に見えたことから「だんだら」とか、脂肪が溶けて気持ちが悪かったことから「ズルズル」とか呼ばれていました。

 

時代によって、モノの価値が大きく変わるものなのですね。

 

高見澤

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