おはようございます。長らくの休刊、皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。
ニュースや新聞でご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、日本経済界の大型訪中代表団も中国国家要人や経済官庁、地方政府機関、企業経営者との交流を終え、無事帰国することができました。私の所属する日中経済協会の会長、経団連会長、日本商工会議所会頭をはじめ、日本を代表する大手企業の現役の会長・社長や、そうした役職を務め、以前として経済界に大きな影響力を有しているOB(相談役、顧問、名誉会長等)が多く参加しているものですから、名簿や座席の順番(プロトコール)、発言の場所・テーマ・内容等の割振り、それぞれの要望への対応、秘書との折衝など、その気遣いや配慮は並大抵のことではありません。正直なところ、心身ともに疲労困憊です。
しかも、資料の整理や報告書の作成、経理処理や来年に向けた企画などの残務が残っており、まだまだ休むわけにはいきません。とはいえ、自分の作成した原稿が、そうした人たちの口から中国の国家要人に向けて発せられたときの気分は何とも言えない気持ちです。でも、決して自分たちが日中経済や世の中を動かしているという慢心に陥ってはいけません。影響力が大きくなればなるほど、慎みを強めていかなければなりません。
今次訪中団に絡め、中国経済や日中関係についてはまた何らかの形で皆さんにご紹介することとしますので、先ずはまた江戸時代に戻りたいと思います。
江戸の魚の話が途中になっていましたね。前々回と前回は鰹と秋刀魚についてご紹介してきました。今回はもう一つ江戸の人々に親しまれていた魚である「鮭」についてお話しをしたいと思います。
現代では、鮭といえば北海道や東北、あるいはノルウェー、アラスカなど北方の寒い地域で獲れるイメージがありますが、江戸時代には関東の川でも鮭の遡上がよく見られました。迷い込んだという意味では、多摩川や隅田川でもあったようですが、例年遡上した鮭が漁の対象となっていた南限は、外房九十九里浜の栗山川だと言われています。
江戸に入ってくる鮭のほとんどは塩鮭で、しかもしっかりと塩が利いている「荒巻き(新巻き)鮭」でした。最近ではあまり見られなくなりましたが、昔はお歳暮用の品として人気がありました。この「荒巻き」ですが、鮭を輸送するときに藁で作った荒縄で縛っていたからで、新年のお膳にのる魚ということで、「新」の字を充てるようになったとのことです。
この荒巻き鮭は、江戸時代前期には、武家の贈答用として扱われ、大名の弁当にすら滅多に入らないほどの高級品でしたから、庶民には全く縁のない魚だったようです。それが江戸時代中期にもなると、松前藩が樺太(サハリン)に漁場を開拓するなどして、北海道からも大量に入荷するようになり、価格は下落して、ようやく庶民の口にも入るようになりました。
この鮭にも初物に絡むお話しがあります。鮭が領内の川を遡上する水戸藩(茨城県)では、川岸の村々に対して、最初に獲れた鮭を藩に献上すれば、早い順に29番目まで褒賞金を与えるという決まりがあったそうです。ちなみに1番には10両(100万円)が与えられたようです。
水戸藩では、この鮭を朝廷と将軍家に献上していたのですが、他の藩も同じように献上するようになると、何としても「初物」を献上しようと躍起になっていたのかもしれません。そうなると、江戸に近い水戸藩が有利だったのでしょうね。
ちなみに幕末の鮭の値段ですが、万延元年(1860年)紀州藩(和歌山県)の江戸屋敷に住む酒井伴四郎という下級武士が、体長2尺5寸(75センチ)の荒巻き鮭を256文(約4000円)で買って食べたという記録があります。今よりは幾分安いくらいでしょうか?
高見澤