2016年10月アーカイブ

 

おはようございます。10月も今日で終わり、明日から11月です。今年も残すところあと2カ月、今年はどのような締めになり、また来年はどのような展開になるのか、正直言ってワクワクしています。

 

さて、本日は「江戸の肉食」を取り上げてみましょう。

江戸幕府が開かれ、幕府によってバテレン禁止令が出されます。日本の歴史の教科書では、日本が鎖国政策をとり、キリスト教信者への弾圧がなされたと書かれていますが、本当のところはどうなのでしょうか?これについては、また別途紙面を割いてお話をしたいと思いますが、江戸時代はこうした影響もあって、基本的には仏教や神道が信仰の対象となります。特に常に殺生がつきまとう武士にとって仏教は、自らの救いを求める精神の拠りどころだったのかもしれません。それ故、江戸時代は庶民も含め基本的に仏教徒が大半を占めていたものと思われます。

 

仏教の戒律で最も忌み嫌われる殺生、だからこそ日本では長い間獣肉を食べる習慣がなかったといわれています。では魚は?といわれると困ってしまいますが、獣に比べるとまだ許容範囲なのでしょうか、いずれにせよどこかでタンパク質を摂取しなければなりませんので、魚介類が江戸の食文化の中心となっていきます。

 

では、江戸の人々は獣肉をまったく食べなかったのでしょうか?実はそうでもないようで、武士の頭領として一番厳格な食習慣を守らねばならない将軍の膳にはツル、雁、カモの鳥類のほか、ウサギが出ていました。ウサギの数え方が「一羽、二羽」としたのも、動物というよりは鳥類と見做したかったかったからなのでしょうか?クジラもまた当時は魚として認識されていました。鷹狩りなんかが行われた際にも、捕獲した動物を食べていたのでしょう。とはいえ、現代のようにステーキやハンバーグ、とんかつや鳥の唐揚げなどといったように、毎日の食卓に上がったというわけではありません。

 

一方、庶民はといえば、肉食の機会は更に少なかったのではないでしょうか。江戸には「ももんじ屋(百獣屋)」という動物の肉を売る店がありました。江戸時代中期までは屋台や葦簀張りの店で売るだけでしたが、天保(18301844年)の頃から一緒に飲食もできるようになりました。牛、鹿、イノシシ、タヌキ、ウサギなどその時々に入荷した動物の肉で、主にネギを加えて鍋にしていたようです。しかし、原則として肉食を忌み嫌っていましたので、表向き「百獣」とは看板に出せないので、「山くじら」としていました。これは、動物の肉がクジラの肉に似ていたからだといわれています。二代広重の名所江戸百景「びくにはし雪中 」には、その看板が描かれていますよね。

 

江戸時代の人たちが動物の肉を食べる主な目的は、「薬喰い」といわれるように、病気になって体力の回復が必要なときです。中国でも羊の肉を食べると身体が温まるといわれていますが、冷えて血の巡りが悪くなったときに肉を食べると効果があったのかもしれません。

 

私自身、普段はほとんど肉食をしません(食べたいとも思いません)が、さすがに中国駐在中は食べざるを得ませんでした。中国は基本的に大陸性の食習慣ですから、北京ダックやシャブシャブなど肉が欠かせません。そのお蔭もあり、私の胴回りは大きく成長(?)してしまいました。日本人の体質は基本的に中国人と異なっているので、同じように肉食を続けていると身体にかなりの負担がかかります。とはいえ、食べたい時に食べたいものを食べる。これが食の基本なのかもしれません。仏教では決して「欲」を否定しているわけではありません。なぜかって?だって食欲がなければ生きていけないでしょう。欲を知らなければ欲を超えることはできません。仏教が禁止しているのは欲に対する「執着」です。食事も「過ぎたるは及ばざるが如し」、食べ過ぎは身体を壊すからです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、黒木代表から皆さんにご案内があったかと思いますが、1112日(土)午後2時お江戸日本橋集合で、勉強会を開催します。日本橋や魚河岸のお話をしながら、ちょっと贅沢な話しですが、今の日本の政治・経済、日中関係等についても紹介できればと思っています。

 

さて、本日は江戸の「仕出し屋」についてご紹介したいと思います。

今ではコンビニが24時間営業していて、食事時や小腹が空いた場合など、簡単に調理した食べ物が手に入るようになりました。また、昔は「出前」なんて言っていましたが、寿司や弁当、あるいはファーストフードの宅配なんかも電話やメール1本で頼める時代です。

 

ところが事実、江戸時代にもこうした料理の宅配サービスがあったのですから驚きです。もちろん電話やメールなんていうものはありませんから、あらかじめおカネを払って頼んでおかなければなりませんけど。

 

棒手振りの物売りが食材や料理された食べ物を売りに来たことは、以前ご紹介した通りですが、これが幕末頃になると、寿司、そば、うなぎといった出前が充実するようになります。そして、更には会席膳などの料理一式を届けてくれる「仕出し屋」が登場します。食器やお膳がなければ、それもすべて用意してくれました。頼んだ家では、汁物を温め直すだけで、手軽に豪華な料理でお客をもてなすことができたのです。もちろんメイン料理、手の込んだ料理だけでも希望に応じて届けてもらうことも可能でした。

 

江戸の武家屋敷では、基本的に客に出す料理は屋敷内でつくるのが原則でしたが、次第に贅沢になってきて、中には仕出し屋から料理を取り寄せるということが行われ、商家でもお祝い事などの行事の時には料理を仕出し屋に頼むことが増えていったそうです。

 

以前、勉強会で行った吉原の引手茶屋や妓楼でも、当初は店の中で料理を作っていましたが、次第に仕出し屋から料理を取るようになりました。料理が美味しいことも客寄せの重要なファクターですが、経費削減のためにも引手茶屋や妓楼自身が腕利きの料理人を雇うことはせず、料理は外部のコントラクターに委託するという、現代の企業間契約にも似たビジネススタイルが江戸にはあったのですね。

特に吉原では、仕出し屋のことを「喜の字屋」と呼んでいました。元々は享保(17161736年)の頃、喜右衛門という人が吉原の仲の町に仕出し屋を開業して繁盛したので、以来、吉原の仕出し屋全部を縁起を担いで「喜の字屋」と呼ぶようになったとのことです。歌舞伎の江戸三座の一つ「森田座」の座元である森田勘彌(守田勘彌)が専有する屋号の「喜の字屋」とは関係なさそうです。

 

この吉原の仕出しの特徴は「台の物」といわれるもので、卓袱台ぐらいの大きさの台に、魚や料理を豪華に盛り付けた皿や鉢を並べて、台ごと配達していました。そのため別名「台の物屋」とも呼ばれていました。料理はといえば刺身、煮物、蒲鉾や伊達巻きがのった「口取り」、それに焼き物4品で金一分(2万円)というのが相場だったようです。これだと高いし、ほとんど食べないことが多かったので、天保年間(18301844年)にはその半額の二朱(1万円)というリーズナブルな台ができました。ただこれにのっているものはといえば、煮物と酢の物だけという貧相なものだったようで、これでは花魁クラスを口説くことはできませんよね。

客が頼んだ豪勢な「台の物」は、当然食べ切ることはできませんので、残ったものは遊女たちの夜食になります。そのため、お客を煽ててなるべく高い台の物を注文してもらい、ついでに食べたいものを追加してもらうということもありました。お気に入りの女性からおねだりされたら、ここは男気を見せなければなりません。男の性(さが)なんていうものは、そんなものなのでしょうか...

 

高見澤

 

おはようございます。

すでに黒木代表から事前のご連絡がされています1112日(土)の勉強会の行程が固まりつつあります。追って皆様にはご案内させて頂きますが、現地を歩いてみて知り得ることもたくさんあり、今回もいくつかのサプライズを味わうことができるかと思います。

 

さて、今日は江戸の「居酒屋」についてご紹介したいと思います。この居酒屋ですが、そもそもは字の通り、小売りの酒屋が店先で味見に一杯だけ売っていたのが、そこにちょっとした肴を出すようになり、居座って飲むので「居酒屋」といわれるようになったものです。それが次第に肴のメニューも増え、酒屋とは別に酒と肴を出すみせが登場していったのです。

一方、以前にも紹介しましたが、江戸時代には定食屋としての「一膳飯屋」が登場し、男の多かった江戸ではそこに酒を置く店も出てきました。更に、惣菜を調理して売っている煮売り屋で、惣菜を肴に一杯、ということもあったようです。

このように、酒屋、一膳飯屋、煮売り屋と、それぞれ別の商売だったものが、同じように居座って酒を飲ませるということで、まとめて居酒屋と呼ぶようになったとのことです。

 

「てやんでえ、こちとら江戸っ子だい。宵越しの銭は持たねえや...」と落語なんかでよく耳にするセリフですが、居酒屋はその日の稼ぎをみんな飲み食いで使ってしまう下層階級の行くところで、武士や店の主が行くところではありませんでした。また、店の構も、酒屋系ならば店の軒先に座るための床几や空樽を椅子替わりに、一膳飯屋系なら水茶屋程度の小屋に葦簀張りで、こちらも座るのは床几、煮売り屋なら調理設備も必要なので、表長屋の一軒で畳が敷いてある上がり座敷、といった具合です。

更に、時代劇のようにテーブルや椅子なんてものはなく、一般に同じテーブルを囲んで一緒に食事をしたり、酒を飲むようになったのは、 明治後半以降のことで、江戸時代は家庭も飲食店もすべて膳か折敷(をしき)というお盆のようなものを使っていました。

 

酒を入れる酒器についても、燗徳利が登場するのは江戸時代後期のことです。それまでは「チロリ」という金属製の縦長の容器に入れて燗をして、武家屋敷や料理茶屋では「銚子」と呼ばれる磁器や漆塗りの容器に移し替えて客に出し、居酒屋ではチロリごと客に出していました。

そうそう、「お銚子」というと、今では陶器制の首のくくれた容器を思い浮かべますが、実はそれは「燗徳利」のこと。「銚子」は結婚式の三々九度などで酒を漆器の器にそそぐ急須のような形をした漆塗りの容器のことなのです。

 

燗徳利は、チロリと銚子の両方の用途を兼ね備えたもので、本来は略式の酒器という位置付けでした。ですから高級な料理茶屋では出さなかったのですが、その便利さと冷めにくいということから、次第に使う店が増えていったようです。

 

居酒屋の本来の意味、燗徳利と銚子の違いなど、時代とともに忘れ去れていくのは、寂しい限りです。

 

高見澤

 

おはようございます。

江戸の食の四天王といえは、「天ぷら」、「そば」、「すし」、そして「ウナギ」です。本瓦版では、すでに前の3つについては紹介してきましたので、本日は最後の「ウナギ」についてお話をしたいと思います。

 

今ではワシントン条約締結国によるシラスウナギの輸出規制で高値となっているウナギですが、江戸時代は下魚として庶民が普通に食べていました。

 

それは、江戸にはウナギが獲れる漁場が少なからずあったからだと思われます。漁場の一番は隅田川河口の深川(江東区)です。「深川鰻、大なるは稀なり、中小のうち小多し、甚だ好味なり」といわれ、同じ隅田川でも上流の千住(足立区)や尾久(荒川区)のものは「深川の佳味には及ばず」だったそうです。このため、深川のウナギが江戸前にウナギの象徴になり、深川以外の江戸周辺から来るウナギは江戸前とは言わず、「旅うなぎ」と呼ばれて差別されていました。

 

江戸に「うなぎ屋」が登場するのは江戸中期の享保(17161736年)の頃で、京や大坂から「蒲焼き」の調理法が伝わったのもこの頃からです。『万葉集』の大伴家持の歌に「石麻呂にわれ物申す夏痩せによしと言ふものぞ鰻取り寄せ」とあり、夏痩せによいとして勧めてウナギを勧めているように、ウナギは日本で古来から滋養食として食べられていました。

しかし、当時はぶつ切りにして焼き鳥のように串に刺して焼くか、飯と一緒に漬けて「熟れずし」として食べていました。このぶつ切りにして串に刺した形が植物のガマの穂に似ているから「ガマ焼き」となり、「蒲焼き」になったという説があります。

 

この蒲焼きが飛躍的に進歩するのが江戸時代前期、京や大坂でウナギを焼いたものに、当時普及し始めた醤油を付けて焼く方法が開発され、その時にぶつ切りのままよりも、裂いて平たくした方がよく焼け、醤油のつきもいいので、現在のような蒲焼きの姿が誕生したのです。

江戸時代中期になると、関東でも醤油の生産が盛んになり、また三河国(愛知県東部)から安価な味醂も入るようになって甘辛い醤油ベースのタレが完成し、これをウナギにたっぷり使った蒲焼きが造られるようになりました。

 

元々ウナギは下魚ですから、最初は棒手振りや屋台で一串16文で買える庶民の食べ物だったのですが、天明(17811789年)の頃にウナギ専門の料理茶屋ができ始め、値段も一皿200文になりました。こうしてウナギが俄かに高級料理へと変わっていったのです。

しかし、この時にはまだ「うな重」や「うな丼」はありませんでした。蒲焼きだけを酒の肴として食べていたのです。そのため、ご飯のおかずとして一緒に食べたい人は、出前を頼んで家で食べていたのですが、残念なことに蒲焼きが冷えてしまいます。そこで、炊き立てのご飯に蒲焼きを載せて温かさを保ったまま運ぶという方法が考案されます。その結果、運ぶうちに蒲焼きのタレがご飯に浸み込んで絶妙な味になることが分かり、こうしてうな丼が開発されることになりました。これを最初に考え出したのは、ウナギが大好きだった歌舞伎の興行主の大久保今助だとも、浜町の大黒屋とも言われています。

 

高見澤

 

 

 

 

おはようございます。東京は今日も朝から日差しがまぶしく感じます。北海道では寒気が入っているようですが、昨日の昼間は少し暑いくらいでした。それでも夜になると少し冷え込みましたが、人によって感じ方は異なるようで、息子は半そでのTシャツ、上の娘はマフラーという姿に、思わず笑いが出てしまいました。

 

さて、本日は昨日に続いて「そば」のお話をしていきたいと思います。今の麺類としてのそばの原型である「そばきり」について歴史を遡れば、今のところ天正2年(1574年)の「定勝寺文書」に行きつくことは昨日述べた通りです。

 

江戸時代初期には、昨日も紹介したように「つばぎ」が使われてそばきりが作られるようになりましたが、このそばきりを、味噌をつくる工程で生じる「垂れ味噌(醤油の原型)」をかけて食べていたようです。しかし、これは寺などで食べる精進料理の一種で、一般に庶民が食べるようなものではありませんでした。

 

5代将軍徳川綱吉の頃(16801709年)、小屋がけや屋台でうどんやそばを食べさせるところが登場します。ただ、その当時はまだうどんがメインのようでした。元禄年間(16881704年)頃には店舗の店も開店し始めますが、これもまたうどんがメインでした。当時、うどん屋の看板に「けんどん」と書かれているところが多かったようで、これは「一人前ずつ盛り切りにして、あとは給仕をしないので勝手に食べてくれ」という意味だとか。何となく立ち食いそば屋のイメージでしょうか。

 

江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の頃(17161745年)になると、そばのつなぎに小麦粉が使われるようになります。「二八そば」というのがありますが、これは小麦粉2に対してそば粉8の割合でつくられたそばという説もあります。このほか「十割」、「三七」、「半々」、「外二」など多種多様なそばが生まれました。そば汁についても、鰹節から取った出し汁に醤油を加えたものができるようになりました。また、かけそば、蒸して温めた蒸篭(せいろ)そば、冷水で洗った盛りそばなど、多くのバリエーションができて、江戸庶民の食べ物として定着していきます。

 

寛政元年(1789年)、江戸の麻布長坂町で江戸暮らしをしていた信州の行商人・清右衛門が「信州更科蕎麦処」の看板を掲げ、信州からの直売を売り物にして、そばの実の中心のみを挽いた白い上品な「更科そば」を販売し始めます。また、雑司ヶ谷鬼子母神前や本郷団子坂では、そばの実の甘皮の色を入れた薄緑色の「藪そば」が生まれました。

 

文化年間(18041818年)になると、汁に砂糖や味醂が使われるようになり、江戸っ子好みの甘辛いそば汁が完成します。

 

こうして江戸時代に進化を遂げたそばですが、値段はといえば16文、これは「二八」を掛け合わせた数字になり、これが「二八そば」の意味だという説もあります。江戸中期の延享元年(1744年)から幕末の万延元年(1860年)までの100年間、幕府がそばの値段を認可制にしており、値段は変わりませんでした。それほど、そばは江戸庶民にとって欠かせない食べ物だったのです。

かけそばが値上げできないことから、そば屋では付加価値を高めるために魅力あるメニュー作りに走ります。これが「種物(たねもの)」と呼ばれるそばです。葛あんの「あんかけそば」、小柱の「あられそば」、エビ天の「てんぷらそば」、浅草海苔の「花巻そば」、とじ卵の「とじそば」、鴨葱の「鴨南蛮」など、現代のそば屋にある定番メニューがこのころに誕生したのです。

 

更に、元々そばは飢饉をしのぐ「救荒食」として食べられていたのですが、それがこうした形で一般に食べるようになるのと同時に、三十日(みそか)に食べる「晦日そば」、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が江戸時代中期に定着します。金銀細工師が、飛び散った金粉や銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったとのゲン担ぎが「晦日そば」や「年越しそば」の習慣が生まれたといわれています。「引っ越しそば」の習慣もまた江戸時代に生まれたとされています。

 

信州人にとってそばは元気の源、ソールフードなのですが、それは江戸っ子にとってもいえそうですね。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、今日は秋らしい1日になりそうです。

 

今日は、昔からある食べ物でも、江戸時代にかなり発展を遂げた「そば」についてご紹介したいと思います。

 

そばの起源をたどると諸説あるようですが、最近では中国南西部の雲貴高原辺りというのが定説のようで、朝鮮半島→対馬、シベリア→北日本、中国大陸→九州などのルートで日本に渡ってきたと考えられています。

日本でそばが栽培されたのは今から約9300年前の縄文時代草創期だといわれています。高知県佐川町の地層からそば花粉が見付かっており、その様子から遅くともその頃には栽培が始まっていたと考えられるようになりました。

 

当初そばは大量の製粉が難しかったこともあり、そばの実を粒のまま食べるのが主流で、主食ではありませんでした。日本の文献上での最古のそばに関する記述は「続日本書紀」にある養老6年(723年)の元正天皇の「勧農の詔(みことのり)」で、救荒作物として挙げられています。

 

鎌倉時代に中国から挽き臼が伝来すると大量の製粉が可能になり、そばや小麦等の粉食が急速に広まり始めます。この頃から、そば粉を使った料理が増えていきます。とはいえ、「そばきり」と呼ばれる今の麺が登場するのはまだ先の話です。

そば粉をお湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」、それをまた鍋で煮て作る「うきふ」、「つみれ」、「すいとん」、更には薄く焼いた「おやき」、「せんべい」、そして「そば饅頭」、「そば団子」など、そのバリエーションはたくさんありました。

 

小麦粉で作るうどんやそうめんが古代からあったのに対し、そばが中々麺にならなかったのは、そば粉の中にグルテンのようなつなぎとなる成分が含まれておらず、そば粉100%だと麺にすることが難しかったからです。そこで、江戸時代初め頃に、つなぎとして米を炊くときに噴き出る「おねば」やすり潰した大豆を入れることにより、やっと麺にすることができるようになったのです。今ではつなぎに小麦粉を混ぜ込むのが一般的です。

 

この「そばきり」は、江戸中期の俳人、森川許六(16561715年)が1706年に発刊した俳文集『風俗文選』で「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿(長野県塩尻市)より出て、普く国々にもてはやされける」と記しているように、その頃には日本中に広がっていたと考えられます。

長野県南西部の大桑村に定勝寺というお寺があります。その寺に天正2年(1574年)にしたためられた「定勝寺文書」に「ソハキリ(そばきり)」の文字がみられ、それが文献上日本最古の麺となったそばの記述だといわれています。

 

さあ、このそばが江戸時代にどのような進化を遂げていくのでしょうか? この続きは次回に回したいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は、先日の日本経済界の訪中代表団の結果報告を安倍総理にするために、訪問団の団長とともに首相官邸に行ってきました。間近で直に安倍首相にお会いしてお話を聞くことができたのですが、今まで持っていたイメージとは大分異なり、改めて一般人とは違った世界の人であることに気付かされました。

黒木さんからご案内があったように、来月勉強会がありますので、その際にこの件についても詳細にご報告させて頂ければと思います。お楽しみに!

 

さて、本日は昨日の続きで、いよいよ「すし屋」について紹介したいと思います。

江戸時代後期に誕生した「握りずし」もそうですが、それ以前の「押しずし」の時代から屋台で売られることが多く、ちゃんとした食事というよりも、小腹が空いたときに立ち食いをする間食というイメージだったようです。値段は1個8文(160円)ほど、玉子焼きだけが16文ほどで、庶民にとっては魚と飯が一緒に食べられる手軽な食べ物として瞬く間に定着していきました。

 

屋台の暖簾(のれん)をくぐると、黙っていても先ずは大きな湯飲み茶碗にお茶が出されます。その茶を一口飲みながら台の上に並んだネタをチェック。店の方も客の厳しいチェックに耐えられるネタを用意しなければならず、客の注文で握り始めても、握り手の手元は常に客に見られています。

一方お客はといえば、握られたすしを端から手に取って、大きなどんぶりに入れられた醤油にちょっとだけつけて、そのまま口に放り込みます。このとき、うっかりどんぶりの中にネタや飯を落としたら大変! なぜなら、醤油はお客全員が共用するもので、二度づけ禁止だからです。食べ終わったら、湯飲み茶碗にわざと残しておいたお茶で指先を洗い、暖簾の端でさっと拭いて、勘定を支払う。これが江戸の「握りずし道」というもので、まさに店側と客との「真剣勝負!」といった感じだったようです。だからこそ、すしは単なる食べ物ではなく、江戸文化の代名詞にもなっていったのではないでしょうか。

 

この「すし」の当て字について一言。最初は発酵して酸っぱいという意味で「酸し」、その後魚と酢を合成して「鮓」、そして魚の塩辛という意味の「鮨」を魚が旨いという意味で用いられ、握りずしが登場する頃になると、縁起を担いで「寿し」や「寿司」という字が使われるようになりました。

 

江戸の握りずし道、皆さんも試されては如何でしょうか?

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨日も雨もすっかり上がり、今朝は気持ちのいい日差しが照り始めています。

昨日、我が職場の隣にある有名私立高校で、高校生が同級生と先生の計3名を切りつける事件がありました。警察や報道陣が詰めかけ、一時は騒然となっていたようです。昨夜8時頃帰宅の途についたのですが、保護者に対する説明会が行われたようで、父兄らしき人たちが大勢地下鉄の駅から学校に向かっていました。名門高校でのこうした事件、現代社会の世相を表しているように思えてなりません。

 

さて、今日もまた現代の喧騒から離れ、ユートピアである江戸のお話しに行きたいと思います。今日は「すし」についてご紹介致しましょう。

 

「江戸前すし」といえば、何といっても「握りずし」ですね。ところが、この握りずしが誕生したのは江戸時代後期の文政年間(18181830年)ですから、江戸時代の人々が食べていた期間は50年もなかった、というのが実情です。

 

元々「すし」は、魚を保存する方法で、中国大陸から米が伝播したときに一緒に入ってきた「熟れずし(なれずし)」がその原型だといわれています。飯で魚を漬け、飯の乳酸発酵を利用して魚のたんぱく質をアミノ酸に変えて旨味を引き出し、腐敗を防ぐ保存方法です。もちろん食べるまでには数カ月以上の歳月が必要で、その間に飯は発酵して形がなくなるので、魚だけを食べることになります。

これが室町時代になると、開きにした魚の中に飯を詰めて、半月から1カ月ほどおいた「生熟れずし(なまなれずし)」を食べるようになります。これだと、飯と魚を一緒に食べることができます。江戸時代前期に、江戸の人々が食べていたのはこの生熟れずしでした。これなら、遠隔地から運んできても、ちょうど江戸に届くころには食べごろになるので、大名から将軍家への献上品としても使われたようです。特に、和歌山の鮎ずしは好評だったとか。

 

江戸時代中期の宝暦年間(17511764年)には、自然発酵で飯が酸っぱくなるまで待たずに、当時普通に使われるようになった酢を加えて酢飯をつくる「早ずし(はやずし)」が開発されます。このすし飯を箱に詰めて、その上に魚の切り身を載せて押す「押しずし」が考案されました。江戸時代中期のすしといえば、この押しずしが主流だったのです。大阪のバッテラや京都の棒ずし等の鯖ずし、富山の鱒ずしなどは、この押しずしです。

 

江戸時代後期の文化年間(18041818年)に、尾張の国(愛知県)から大量に糟酢(かすず)が江戸に入ってくるようになりました。安価で少し甘味があるこの糟酢のおかげで、簡単にすし飯ができるようになり、握った飯の上に味をつけた魚介類や玉子を載せて客に出したところ、これがすぐ食べられるすしということで大ヒット。瞬く間に江戸中に広まったのです。

 

ネタは江戸前の海で獲れたコハダ、クルマエビ、シラウオ、アナゴ、ハマグリなどが中心で、これらを「江戸前ずし」と呼ぶようになりました。後に、マグロを醤油漬けにした「ヅケ」なども加わり、人気はますます上昇しました。すしに付き物のワサビとガリもこの時代には既についており、現代の握りずしがほぼ完成していたようです。

 

次回は、このすしを売る「すし屋」についてご紹介します。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雲が厚くなっていて、朝方出勤時には雨が少しパラついていました。今日は雨日和のようですので、傘をお忘れなく。

 

さて、本日は江戸の「天ぷら屋」についてご紹介したいと思います。

この天ぷらですが、いつごろから食べられるようになったのでしょうか。

中華料理といえば、たくさんの油を使って炒めたり、揚げたりするのが一般的です。食材を油で揚げるという料理方法が中国から日本に伝わったのは奈良時代だったようで、小麦粉を水で練ったものを揚げる「唐菓子」の製法でした。しかし、当時は油が貴重だったことと、日本人の嗜好に合わなかったため、ごく一部の寺院などで行事食として伝わっただけでした。

 

これが鎌倉時代から室町時代になると、精進料理の調理法として中国から再渡来してきます。精進料理は、食材に肉や魚を使わないため、不足する脂肪分を油で摂取しようという狙いがあったようです。そして戦国時代後期には、「揚げ物」として料理方法が定着し、素材に何もつけないで揚げる「素揚げ」、小麦粉だけをつけた「空揚げ」、小麦粉を水で溶いたものをつけて揚げる「衣揚げ」といったように、現在の調理方法の原型が整いました。

ちょうどその頃、スペインやポルトガルからも「揚げ物」の調理方法が伝来します。「衣揚げ」もその一つで、肉や魚をメインに揚げていました。これを、それまでの精進料理の揚げ物と区別して、ポルトガル語の"temporas(斎日:さいにち→ものいみ日)"、あるいは"tempero(調味料)"から「天ぷら」と呼ばれるようになったとのことです。とはいえ、この頃でもやはり油が高級品だったために、庶民にはまだ高嶺の花だったようです。

 

江戸時代に入ると食用油の生産量が急速に増えました。このため、庶民の口にもやっと揚げ物が普及するようになります。その中で最初に普及したのが、豆腐を素揚げにした「豆腐揚げ」です。そのため、「油揚げ」といえば、この豆腐揚げを指すようになりました。

江戸の庶民が天ぷらを食べ始めたのは、安永年間(17721781年)の頃だといわれています。天ぷら屋の最初は屋台でした。タネを竹串に刺して、その場で揚げながら売っていました。値段はどれも1串4文(80円)でしたから、庶民でも割と気軽に買うことができたのです。天ぷらのタネはもっぱら魚介類が多く、江戸前で獲れるハゼ、キス、アナゴ、芝エビ、貝柱などでした。当時、野菜は天ぷらとはいわず、「精進揚げ」といって区別していました。当時は「天つゆ」などはなく、醤油をつけて食べていました。

この天ぷらを「天麩羅」と書きますが、これを考案したのは江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)だといわれています。

 

屋台中心だった天ぷら屋も天保年間(18301844年)には、立派な店舗を構えるところもあって、名店として呼ばれる店も多くなりました。また、幕末には道具やタネを持って屋敷や宴会場に出かけ揚げるという「出張天ぷら」のパフォーマンスを披露する店もあったようです。

 

いずれにせよ、それまでの高級料理とされていたものが、庶民の料理として屋台で食べられるようになるのですから、料理革命といわれるように、江戸の庶民が如何に豊かだったかを思い知ることができます。

 

高見澤

 

おはようございます。東京も秋到来という感じの季節になってきました。我が職場のある九段下では、イチョウの実が落ち、独特のにおいを放っていますが、これもまた秋の到来を告げる風物詩の一つでしょう。これから紅葉が始まり、昨日も息子と紅葉を見に行きたいね、と話をしていたところでした。

 

さて、私自身根が食いしん坊なことから江戸の食べ物の話を始めたのですが、あまりにもネタが多く、中々次の話題に至りません。他にも祭り、音楽や演劇などの芸能、時間と暦、地域社会、経済、教育等、勉強したいことは山とあるのですが、これもまた日を追ってご紹介できればと思っています。

 

ということで、本日もまた外食産業について、昨日の続きをご紹介したいと思います。今日のテーマは「料理茶屋」です。この「料理」という言葉ですが、今では中国でも日本語の影響を受けて「料理」という単語を使うようになりましたが、本来中国語の料理は「菜(cai)」で、一昔前は「日本料理(ribenliaoli)」なんて言っても意味は通じなかったのです。

 

この「料理」という言葉が、いつごろから使われていたのかは定かではありませんが、かなり前から今の意味で用いられていたようです。「料」は「米」と「斗」で「計る」、「理」は「おさめる」という意味から、元々は「物事を適当に処理する」、「世話をする」という意味があったようです。

 

以前、江戸の初期に煮売り屋、煮しめ屋などのお惣菜を売る屋台が生まれ、元禄年間(16881704年)には「奈良茶屋」が江戸の各所に開店したことをご紹介したかと思います。その後、一汁一菜の定食を提供する「一膳飯屋」、酒と肴を提供する「居酒屋」なども生まれ、次第に江戸の外食産業の基礎が出来上がっていきました。とはいえ、この時期はまだ店舗も葦簀張りの小屋のようなものが多かったようです。

 

江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の緊縮財政が終わると、江戸の人々はより美味しいもの、より珍しいものを求めるようになり、グルメ志向が次第に高まっていきました。洒落た座敷に手入れの届いた庭や景色を楽しみながら、「会席膳」と呼ばれる酒の肴として6~7品、その後に御飯として一汁一菜のコース料理を出す「料理茶屋」が次々に出現しました。

 

文化文政年間(18041830年)には、料理のみならず店の雰囲気やサービスなどにも気が配られるようになり、料理茶屋の番付が登場しました。今でいう「ミシュランのいくつ星」といった感じです。江戸の東部、隅田川沿いの風光明媚な場所に有名店が多く集まっていたようです。

 

更には、料理茶屋の中に風呂を設けて食事の前に汗を流してもらったり、送迎用の船を用意したりなど、現代の入浴レジャーランドのようなサービスまで生まれました。また、周辺の岡場所から芸者や太鼓持ち(幇間:ほうかん)を呼んで宴会もできるようになり、このころに現代の料亭の形式も整ったようです。

 

当時の懐石膳だけで1人前10匁(もんめ、約1万3,000円)ですから、酒や芸者の花代まで入れれば30匁以上もしたでしょうから、庶民には縁遠いところだったのかもしれません。とはいえ、大名家の重役や大店の旦那、幕府の役人の接待などには人気があり、大変繁盛したとのことです。

 

そして、広告としてこうした店の構や座敷の様子を描写した浮世絵(錦絵)も印刷されるようになり、江戸の文化は益々華やかになっていくのです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は大分涼しくなりました。急激に寒くなっていくようなので、体調の管理には十分ご注意ください。

また、今、九州熊本は地震に続き阿蘇山の噴火で大変なことになっています。さらに台風による大雨なども加わり、踏んだり蹴ったりの状態ですが、これがその他の地域にも波及しないとは限りません。いつ、どこで、何が起こるかは予測することは不可能です。何が起きても即座に対処できるよう万全の体制を整えておくことが大事です。今の日本は、何か起きた時に対処不可能なものを作っているのですから、愚かというしか言いようがありません。

 

さて、本日は江戸の典型的な外食産業である「茶屋」についてご紹介したいと思います。茶屋と一口にいっても、茶葉を売る「葉茶屋」、料理や酒を提供する「料理茶屋」、芝居や相撲の手配をする「芝居茶屋」や「相撲茶屋」、遊郭で遊女を紹介する「手引き茶屋」(吉原では「引手茶屋」)、そして路傍でお茶を飲ませてくれる「水茶屋」などです。

この「水茶屋」ですが、今でいうところの喫茶店やカフェといったところでしょうか。

 

お茶の起源は古く、紀元前2700年頃の中国雲南省西南地域で初めて茶樹が発見されたという説が有力です。雲南省では今でも茶の古木が多くみられます。農業と漢方の租といわれる「神農」が野草と茶葉を食べていたという逸話があることから、当時は食材として使われていたのかもしれません。それが今のように嗜好品として飲まれるようになったのは、漢の時代であったといわれています。

そのお茶が日本に伝わったのは平安時代といわれており、最澄や空海などの遣唐使が中国から茶の木や種を持ち帰っていたとのことですが、奈良時代にはすでに到来していたのではないかとの説もあります。当初、このお茶は秘伝の薬として扱われていたので、一般にはお茶のことが知られていなかったようです。それが、鎌倉時代に臨済宗の開祖・栄西が『喫茶養生記』を書いて一般に広めたことで、中国から茶木を持ち帰った功績を独り占めにしたといわれています。今も昔も手柄の独り占めという増上慢の輩の性は変わりませんね。

 

室町時代に入り、「茶道」という茶の礼法が生まれる頃に、京の路傍で庶民にお茶を飲ませる茶屋が商売を始めています。茶屋では、移動式の炉と釜を置き、挽いた粉茶を茶筅で混ぜる抹茶方式と、茶葉を入れた布袋を釜に入れて煮だした煎茶方式があり、喉が渇いたときは煎茶、滋養や眠気覚ましには抹茶が好まれたようです。

 

江戸時代に入ると、葦簀をさし掛けただけの簡素な小屋で営業するようになり、手間のかかる値段の高い抹茶は敬遠されて、もっぱら煎茶専門となりました。

当時、水質があまり良くなかった江戸では、生水を避けるためにもお茶はなくてはならない飲料でもありました。しかも、炉と釜さえあれば誰でも簡単に始められるので、江戸中で競争が激しくなったようです。

 

宝暦年間(17511764年)、それまで比較的年配者が多かった「茶汲み女」に若い女性を採用するようになりました。やはりウエイトレスは若くて美人がいいというのは江戸も今も変わりません。中にはわざわざ評判の茶汲み女を見るために、飲みたくない茶まで飲みに来る客もいて、美人の看板娘を置く店ほど繁盛したようです。その頃のお茶代は4文(100円)から8文(200円)程度ですから、好みのウエイトレスがいれば毎日でも通いたくなりますよね。これがまた、店のチラシ広告として浮世絵(錦絵)の図柄ともなり、飛ぶように売れたものもあったようです。また、モデルになった美人の茶屋にも客が殺到し、中には長居をしたいばかりに50杯もお茶を飲んだという客もいたというのですから、男の性は古今東西変わらないものだと思います。

 

こうした状況があまりにもひどいということで、老中・水野忠邦は、天保の改革(18411843年)で水茶屋が若い女性を雇うことを禁止しましたが、水野が失脚するやいなや、若い女性の雇用が復活したようです。水茶屋はメイドカフェの原点かもしれませんね。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、一昨日は久しぶりの休暇を頂き、瓦版も恐縮ながらお休みさせて頂きました。今朝は大分涼しくなり、天気予報によれば東京の最高気温も21℃とのことで、今日は長袖のワイシャツを着ています。

 

さて、まだまだ続く江戸の食のお話しですが、本日からしばらくの間は江戸の外食に焦点を当ててみたいと思います。

 

臨時収入があれば、家族総出で近くのレストランで食事というのは一昔前のことでしょうか。「さざえさん」時代の我々からすれば、外食といえば贅沢の代名詞でしたが、今ではファーストフード店が至るところにあり、外食なんていうのも珍しくはなくなりました。

ということで、江戸時代になる前は、食事は家で食べるか、あるいは雇われている屋敷や店の賄い飯を食べるというのが一般的でした。それが、京や大坂、江戸といった都市が形成され、急速に人口が増えるに従い、家の外で食事をする「外食」という習慣が定着し始めます。特に江戸では地方から単身赴任で出稼ぎに来る人たちが多かったので、日雇い労働者など賄い飯のない人たちにとって外食は欠かせないものになっていたのです。

 

文化年間(18041818年)には、江戸で食べ物を売る店が6165軒あったと言われています。これが多すぎるというので、幕府は5年間で6000軒にまで減らすよう指導したとのことですが、それほど江戸の外食産業は盛んであったようです。やはり江戸は相当に豊かだったことが分かります。

 

食べ物を売る店といっても、その種類や店構えは千差万別、いろいろなものがあります。先ず、元手が少なくても始められるのが「棒手振り(ぼてふり)」や「振売り(ふりうり)」と呼ばれる天秤棒に商品を振り分けて担いで移動する行商です。元々は野菜や魚介類、調味料やお惣菜など、素材や加工食品を売り歩く商売でしたが、それが買ったその場で食べたいとの要望に応えて、焜炉に火を入れて持ち運び、焼いたり温めたりして食事を提供するようになりました。焼き魚や焼き蛤、ウナギの蒲焼き、そば、汁粉、おでん、茶飯、甘酒、蒸かし芋などで、一緒に燗酒を出すものもあり、周りに座り込んで酒盛りなんていう光景もみられたようです。

 

店舗数が最も多かったのは「屋台」でした。屋台には、場所を移動しながら売り歩く「担ぎ屋台」と、場所を移動しないで簡単な屋根付きなどで営業した「立ち売り」がありました。担ぎ屋台は、今でいう祭りの「夜店」のようなもので、棒手振りでもやっていたウナギの蒲焼き、そば、寿司、天ぷらなどがメニューで、人出を見込んでは移動して商売していました。

一方、立ち売りは、毎日人出が見込める広小路や神社仏閣の境内などに常設で屋台を出すもので、多くの場合は土地の管理者に所場代を払って営業権を認めてもらっていたようです。

 

もう一つは「店舗」での営業です。初めは小屋に葦簀張り(よしずばり)といったものでしたが、江戸時代中期にもなると建物の中で営業する「店(見世)」が出始めました。また、江戸時代後期には「料理茶屋」などが登場し、立派な店舗ばかりでなく、広い敷地に瀟洒な庭など、食べ物の提供だけではなく、調度品や雰囲気を併せて売り物にする店もありました。

とはいえ、江戸の外食産業の基本は棒手振りと屋台であったことは間違いありません。江戸の庶民になったつもりで、気軽に安くて美味しいものを求めて東京の街を食べ歩くのも一興です。

 

高見澤

 

おはようございます。

今年のノーベル医学・生理学賞に、東工大名誉教授の大隅良典氏が選ばれました。日本人が3年連続でノーベル賞受賞という快挙で、このことは14年ぶり2回目のことだとか。これが何を意味するのかは分かりませんが、先ずは大隅氏に祝意を表したいと思います。

 

さて、個人的にはノーベル賞受賞に値する発見とも思える「お酒」について、本日は江戸を絡めてご紹介していきたいと思います。

 

以前の瓦版で調味料を紹介した際に、「下り醤油」と「地回り醤油」についてのお話をしたことがあったかと思います。お酒についても同様に「下り酒」と「地回り酒」がありました。下り酒は摂津国(大阪府)の伊丹、池田、灘(兵庫県)などから来たお酒で、地回り酒は関東で醸造されたお酒です。

 

お酒の生産は室町時代後期から大きく進歩したと言われています。それまでは甕(かめ)で醸造していたものが、十斗樽が登場したことで一度に大量の醸造が可能となり、原料の米も玄米から白米に変わり、更には木炭を使って濁酒(どぶろく)を清酒にするなど、現代の日本酒の基本的な製法がほぼ出揃った時期でした。江戸時代初期にこの最新の製法で酒造りをしていたのが、摂津国の造り酒屋だったのです。

 

江戸時代当初は摂津国から馬の背に樽を振り分けにして運んでいたそうで、これがまた高値で売れたものだから、量が次第に増え、最終的には船で大量に運ぶことになりました。元禄10年(1697年)にはその量が64万樽に達したとの記録があり、一樽四斗(72リットル)ですから、一人当たり年間50リットルを飲んでいた計算になります。その後さらに量が増えて、文化14年(1817年)には100万樽にもなったそうです。

しかしこの下り酒は輸送コストがかかるので、地回り酒に比べかなり割高でした。馬による陸路輸送の時は一升200文、海上輸送になると120150文、江戸時代後期には諸物価の値上がりで300400文だったようです。

 

これに対して地回り酒は味も下り酒に及ばず、中々人気が出ませんでした。そのため美味しいお酒を「下りもの」、不味いさけを「下らないもの」というようになり、それがつまらないものを「くだらない」という語源にもなったとか。

それでも江戸時代後期には、地回り酒も10万樽ほど出荷するようになりましたが、江戸で消費するお酒の1割程度でしかありません。そして値段は下り酒の半額程度だったようです。

 

安土桃山時代までは、新酒よりも古酒の方が高級品で、甕で密封して貯蔵していたために、色や香りが中国の紹興酒(黄酒、老酒)に似ていたのではないでしょうか?

それが江戸に輸送するようになり、容器を割れない木製の樽にしたため、密封ができず味が変化してしまい、そのために古酒から新酒へと人気が移っていきました。その新酒も良いお酒ほど水の量を少なくして醸造したため、上酒は甘くねっとりとした仕上がりになり、甘口のお酒になったとのことです。

 

高見澤

 

おはようございます。

ここ東京は、大分秋らしくはなってきていますが、まだまだ暑い日が続いています。太陽活動の活発化に合わせて、地球も防衛体制を整えているのがその主な原因で、決して二酸化炭素排出が主要な原因ではないとの説がありますが、私自身はそちらの説を信じています。

 

さて、昨晩、黒木さんから1112日の勉強会のご案内が皆様に届いたかと思います。テーマについては、黒木さんと相談中です。決まり次第、改めてご案内させていただきます。久しぶりの勉強会で、私もわくわくしている次第です。ぜひとも多くの方のご参加をお待ちしています。

 

さて、今回は「お酒」のお話をしようと思いますが、江戸の酒に入る前に、少しお酒の基礎知識を学んでおきましょう。

お酒は製造方法によって3種類に分かれます。一つは「醸造酒」、もう一つが「蒸留酒」で、ここまでは皆さんも聞いたことがあると思います。そして三番目が「混合酒」です。

 

先ずは醸造酒です。これは基本となるお酒で、米や麦などの穀物やブドウなどの果物を醸して作ります。起源は古く、紀元前3000年頃の古代メソポタミアや古代エジプトにも記録が残されているようです。

ブドウなどの果実を放置しておくと、自然に泡が発生し、数日後にはアルコールが蓄積していることがあります。これはブドウの果皮に付着していた「酵母」がブドウに含まれる糖に作用して起こる自然現象です。この酵母は、酵母菌と呼ばれる「菌」の一種です。ワインの場合、この酵母が果実中の糖分を炭酸ガスとアルコールに分解してエネルギーを得ており、この酵母が活動することによりアルコールができてしまうという仕組みです。これを「発酵(アルコール発酵)」と呼んでします。

ところが、この酵母はデンプンを糖に分解する力は持っていないため、デンプン状態のままで糖分を保有している米や麦などは、糖化酵素(アミラーゼ)を持つ「麦芽(モルト)」やデンプンを糖に分解する「麹」を使って、デンプンを糖に分解します。この糖を酵母によって発酵することで、アルコールが作られることになります。このアルコールを熟成、ろ過して作られるのが「醸造酒」なのです。

もちろん、美味しいお酒を造るためには、このほかに様々な工程や工夫がありますが、それこそが職人の業(わざ)となります。この醸造酒には、ワイン、ビール、清酒(日本酒)、老酒(黄酒、紹興酒)などがあります。

 

次に蒸留酒です。これは簡単にいえば醸造酒に蒸留工程を加えて造ったお酒です。お酒をさらに蒸留するのですから、醸造酒に比べアルコール度数が高くなります。中国には70度を超す白酒(バイジュウ)もあります。

お酒を蒸留するための蒸留機は、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384322年)によって初めて記録に残されており、ブランデーを造っていたとの記録もあるようです。この蒸留技術がアレクサンダー王の征服戦争によって世界各国に広められ、その後、中世の錬金術師たちが洗練したものとしたそうです。一方、アジアでの蒸留酒の起源は、中国の雲南省一帯といわれています。

この蒸留酒には、ウィスキー、ブランデー、焼酎、泡盛、白酒、ウォッカ、テキーラ、ジンなどがあります。

 

最後は混合酒です。これは醸造酒や蒸留酒を原料に、草根木皮、薬草、香味、果実、糖分などを配合したお酒です。いわゆる「リキュール」というお酒です。梅酒、果実酒、薬酒などがこれに属します。

 

醸造酒は自然発酵を旨とするため、アルコールといっても複数の成分が入っています。それに対し蒸留酒は単一のアルコール成分しか入っていないために、二日酔いにはなり難いといった説もあるようです。私自身、アルコールは大の苦手ですが、醸造酒にせよ蒸留酒にせよ、美味いお酒を飲んだ後であれば、二日酔いにはならなかったと思います。いずれにせよ飲み過ぎは禁物ですが、できる限り伝統的な自然発酵で造られ、添加物のない昔ながらのお酒を嗜む程度であれば問題ないかと思います。

 

高見澤

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