東藝術倶楽部瓦版 20161007 :江戸の外食産業

 

おはようございます。昨日、一昨日は久しぶりの休暇を頂き、瓦版も恐縮ながらお休みさせて頂きました。今朝は大分涼しくなり、天気予報によれば東京の最高気温も21℃とのことで、今日は長袖のワイシャツを着ています。

 

さて、まだまだ続く江戸の食のお話しですが、本日からしばらくの間は江戸の外食に焦点を当ててみたいと思います。

 

臨時収入があれば、家族総出で近くのレストランで食事というのは一昔前のことでしょうか。「さざえさん」時代の我々からすれば、外食といえば贅沢の代名詞でしたが、今ではファーストフード店が至るところにあり、外食なんていうのも珍しくはなくなりました。

ということで、江戸時代になる前は、食事は家で食べるか、あるいは雇われている屋敷や店の賄い飯を食べるというのが一般的でした。それが、京や大坂、江戸といった都市が形成され、急速に人口が増えるに従い、家の外で食事をする「外食」という習慣が定着し始めます。特に江戸では地方から単身赴任で出稼ぎに来る人たちが多かったので、日雇い労働者など賄い飯のない人たちにとって外食は欠かせないものになっていたのです。

 

文化年間(18041818年)には、江戸で食べ物を売る店が6165軒あったと言われています。これが多すぎるというので、幕府は5年間で6000軒にまで減らすよう指導したとのことですが、それほど江戸の外食産業は盛んであったようです。やはり江戸は相当に豊かだったことが分かります。

 

食べ物を売る店といっても、その種類や店構えは千差万別、いろいろなものがあります。先ず、元手が少なくても始められるのが「棒手振り(ぼてふり)」や「振売り(ふりうり)」と呼ばれる天秤棒に商品を振り分けて担いで移動する行商です。元々は野菜や魚介類、調味料やお惣菜など、素材や加工食品を売り歩く商売でしたが、それが買ったその場で食べたいとの要望に応えて、焜炉に火を入れて持ち運び、焼いたり温めたりして食事を提供するようになりました。焼き魚や焼き蛤、ウナギの蒲焼き、そば、汁粉、おでん、茶飯、甘酒、蒸かし芋などで、一緒に燗酒を出すものもあり、周りに座り込んで酒盛りなんていう光景もみられたようです。

 

店舗数が最も多かったのは「屋台」でした。屋台には、場所を移動しながら売り歩く「担ぎ屋台」と、場所を移動しないで簡単な屋根付きなどで営業した「立ち売り」がありました。担ぎ屋台は、今でいう祭りの「夜店」のようなもので、棒手振りでもやっていたウナギの蒲焼き、そば、寿司、天ぷらなどがメニューで、人出を見込んでは移動して商売していました。

一方、立ち売りは、毎日人出が見込める広小路や神社仏閣の境内などに常設で屋台を出すもので、多くの場合は土地の管理者に所場代を払って営業権を認めてもらっていたようです。

 

もう一つは「店舗」での営業です。初めは小屋に葦簀張り(よしずばり)といったものでしたが、江戸時代中期にもなると建物の中で営業する「店(見世)」が出始めました。また、江戸時代後期には「料理茶屋」などが登場し、立派な店舗ばかりでなく、広い敷地に瀟洒な庭など、食べ物の提供だけではなく、調度品や雰囲気を併せて売り物にする店もありました。

とはいえ、江戸の外食産業の基本は棒手振りと屋台であったことは間違いありません。江戸の庶民になったつもりで、気軽に安くて美味しいものを求めて東京の街を食べ歩くのも一興です。

 

高見澤