東藝術倶楽部瓦版 20161012 :料亭からレジャーランドへ-料理茶屋

 

おはようございます。東京も秋到来という感じの季節になってきました。我が職場のある九段下では、イチョウの実が落ち、独特のにおいを放っていますが、これもまた秋の到来を告げる風物詩の一つでしょう。これから紅葉が始まり、昨日も息子と紅葉を見に行きたいね、と話をしていたところでした。

 

さて、私自身根が食いしん坊なことから江戸の食べ物の話を始めたのですが、あまりにもネタが多く、中々次の話題に至りません。他にも祭り、音楽や演劇などの芸能、時間と暦、地域社会、経済、教育等、勉強したいことは山とあるのですが、これもまた日を追ってご紹介できればと思っています。

 

ということで、本日もまた外食産業について、昨日の続きをご紹介したいと思います。今日のテーマは「料理茶屋」です。この「料理」という言葉ですが、今では中国でも日本語の影響を受けて「料理」という単語を使うようになりましたが、本来中国語の料理は「菜(cai)」で、一昔前は「日本料理(ribenliaoli)」なんて言っても意味は通じなかったのです。

 

この「料理」という言葉が、いつごろから使われていたのかは定かではありませんが、かなり前から今の意味で用いられていたようです。「料」は「米」と「斗」で「計る」、「理」は「おさめる」という意味から、元々は「物事を適当に処理する」、「世話をする」という意味があったようです。

 

以前、江戸の初期に煮売り屋、煮しめ屋などのお惣菜を売る屋台が生まれ、元禄年間(16881704年)には「奈良茶屋」が江戸の各所に開店したことをご紹介したかと思います。その後、一汁一菜の定食を提供する「一膳飯屋」、酒と肴を提供する「居酒屋」なども生まれ、次第に江戸の外食産業の基礎が出来上がっていきました。とはいえ、この時期はまだ店舗も葦簀張りの小屋のようなものが多かったようです。

 

江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗の緊縮財政が終わると、江戸の人々はより美味しいもの、より珍しいものを求めるようになり、グルメ志向が次第に高まっていきました。洒落た座敷に手入れの届いた庭や景色を楽しみながら、「会席膳」と呼ばれる酒の肴として6~7品、その後に御飯として一汁一菜のコース料理を出す「料理茶屋」が次々に出現しました。

 

文化文政年間(18041830年)には、料理のみならず店の雰囲気やサービスなどにも気が配られるようになり、料理茶屋の番付が登場しました。今でいう「ミシュランのいくつ星」といった感じです。江戸の東部、隅田川沿いの風光明媚な場所に有名店が多く集まっていたようです。

 

更には、料理茶屋の中に風呂を設けて食事の前に汗を流してもらったり、送迎用の船を用意したりなど、現代の入浴レジャーランドのようなサービスまで生まれました。また、周辺の岡場所から芸者や太鼓持ち(幇間:ほうかん)を呼んで宴会もできるようになり、このころに現代の料亭の形式も整ったようです。

 

当時の懐石膳だけで1人前10匁(もんめ、約1万3,000円)ですから、酒や芸者の花代まで入れれば30匁以上もしたでしょうから、庶民には縁遠いところだったのかもしれません。とはいえ、大名家の重役や大店の旦那、幕府の役人の接待などには人気があり、大変繁盛したとのことです。

 

そして、広告としてこうした店の構や座敷の様子を描写した浮世絵(錦絵)も印刷されるようになり、江戸の文化は益々華やかになっていくのです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年10月13日 21:23に書いたブログ記事です。

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