おはようございます。今朝の東京は雲が厚くなっていて、朝方出勤時には雨が少しパラついていました。今日は雨日和のようですので、傘をお忘れなく。
さて、本日は江戸の「天ぷら屋」についてご紹介したいと思います。
この天ぷらですが、いつごろから食べられるようになったのでしょうか。
中華料理といえば、たくさんの油を使って炒めたり、揚げたりするのが一般的です。食材を油で揚げるという料理方法が中国から日本に伝わったのは奈良時代だったようで、小麦粉を水で練ったものを揚げる「唐菓子」の製法でした。しかし、当時は油が貴重だったことと、日本人の嗜好に合わなかったため、ごく一部の寺院などで行事食として伝わっただけでした。
これが鎌倉時代から室町時代になると、精進料理の調理法として中国から再渡来してきます。精進料理は、食材に肉や魚を使わないため、不足する脂肪分を油で摂取しようという狙いがあったようです。そして戦国時代後期には、「揚げ物」として料理方法が定着し、素材に何もつけないで揚げる「素揚げ」、小麦粉だけをつけた「空揚げ」、小麦粉を水で溶いたものをつけて揚げる「衣揚げ」といったように、現在の調理方法の原型が整いました。
ちょうどその頃、スペインやポルトガルからも「揚げ物」の調理方法が伝来します。「衣揚げ」もその一つで、肉や魚をメインに揚げていました。これを、それまでの精進料理の揚げ物と区別して、ポルトガル語の"temporas(斎日:さいにち→ものいみ日)"、あるいは"tempero(調味料)"から「天ぷら」と呼ばれるようになったとのことです。とはいえ、この頃でもやはり油が高級品だったために、庶民にはまだ高嶺の花だったようです。
江戸時代に入ると食用油の生産量が急速に増えました。このため、庶民の口にもやっと揚げ物が普及するようになります。その中で最初に普及したのが、豆腐を素揚げにした「豆腐揚げ」です。そのため、「油揚げ」といえば、この豆腐揚げを指すようになりました。
江戸の庶民が天ぷらを食べ始めたのは、安永年間(1772~1781年)の頃だといわれています。天ぷら屋の最初は屋台でした。タネを竹串に刺して、その場で揚げながら売っていました。値段はどれも1串4文(80円)でしたから、庶民でも割と気軽に買うことができたのです。天ぷらのタネはもっぱら魚介類が多く、江戸前で獲れるハゼ、キス、アナゴ、芝エビ、貝柱などでした。当時、野菜は天ぷらとはいわず、「精進揚げ」といって区別していました。当時は「天つゆ」などはなく、醤油をつけて食べていました。
この天ぷらを「天麩羅」と書きますが、これを考案したのは江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)だといわれています。
屋台中心だった天ぷら屋も天保年間(1830~1844年)には、立派な店舗を構えるところもあって、名店として呼ばれる店も多くなりました。また、幕末には道具やタネを持って屋敷や宴会場に出かけ揚げるという「出張天ぷら」のパフォーマンスを披露する店もあったようです。
いずれにせよ、それまでの高級料理とされていたものが、庶民の料理として屋台で食べられるようになるのですから、料理革命といわれるように、江戸の庶民が如何に豊かだったかを思い知ることができます。
高見澤