東藝術倶楽部瓦版 20161018 :江戸時代、食べられていたのは 50 年にも満たない !? -握りずし

 

おはようございます。昨日も雨もすっかり上がり、今朝は気持ちのいい日差しが照り始めています。

昨日、我が職場の隣にある有名私立高校で、高校生が同級生と先生の計3名を切りつける事件がありました。警察や報道陣が詰めかけ、一時は騒然となっていたようです。昨夜8時頃帰宅の途についたのですが、保護者に対する説明会が行われたようで、父兄らしき人たちが大勢地下鉄の駅から学校に向かっていました。名門高校でのこうした事件、現代社会の世相を表しているように思えてなりません。

 

さて、今日もまた現代の喧騒から離れ、ユートピアである江戸のお話しに行きたいと思います。今日は「すし」についてご紹介致しましょう。

 

「江戸前すし」といえば、何といっても「握りずし」ですね。ところが、この握りずしが誕生したのは江戸時代後期の文政年間(18181830年)ですから、江戸時代の人々が食べていた期間は50年もなかった、というのが実情です。

 

元々「すし」は、魚を保存する方法で、中国大陸から米が伝播したときに一緒に入ってきた「熟れずし(なれずし)」がその原型だといわれています。飯で魚を漬け、飯の乳酸発酵を利用して魚のたんぱく質をアミノ酸に変えて旨味を引き出し、腐敗を防ぐ保存方法です。もちろん食べるまでには数カ月以上の歳月が必要で、その間に飯は発酵して形がなくなるので、魚だけを食べることになります。

これが室町時代になると、開きにした魚の中に飯を詰めて、半月から1カ月ほどおいた「生熟れずし(なまなれずし)」を食べるようになります。これだと、飯と魚を一緒に食べることができます。江戸時代前期に、江戸の人々が食べていたのはこの生熟れずしでした。これなら、遠隔地から運んできても、ちょうど江戸に届くころには食べごろになるので、大名から将軍家への献上品としても使われたようです。特に、和歌山の鮎ずしは好評だったとか。

 

江戸時代中期の宝暦年間(17511764年)には、自然発酵で飯が酸っぱくなるまで待たずに、当時普通に使われるようになった酢を加えて酢飯をつくる「早ずし(はやずし)」が開発されます。このすし飯を箱に詰めて、その上に魚の切り身を載せて押す「押しずし」が考案されました。江戸時代中期のすしといえば、この押しずしが主流だったのです。大阪のバッテラや京都の棒ずし等の鯖ずし、富山の鱒ずしなどは、この押しずしです。

 

江戸時代後期の文化年間(18041818年)に、尾張の国(愛知県)から大量に糟酢(かすず)が江戸に入ってくるようになりました。安価で少し甘味があるこの糟酢のおかげで、簡単にすし飯ができるようになり、握った飯の上に味をつけた魚介類や玉子を載せて客に出したところ、これがすぐ食べられるすしということで大ヒット。瞬く間に江戸中に広まったのです。

 

ネタは江戸前の海で獲れたコハダ、クルマエビ、シラウオ、アナゴ、ハマグリなどが中心で、これらを「江戸前ずし」と呼ぶようになりました。後に、マグロを醤油漬けにした「ヅケ」なども加わり、人気はますます上昇しました。すしに付き物のワサビとガリもこの時代には既についており、現代の握りずしがほぼ完成していたようです。

 

次回は、このすしを売る「すし屋」についてご紹介します。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年10月18日 10:09に書いたブログ記事です。

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