おはようございます。今朝の東京は晴れ、今日は秋らしい1日になりそうです。
今日は、昔からある食べ物でも、江戸時代にかなり発展を遂げた「そば」についてご紹介したいと思います。
そばの起源をたどると諸説あるようですが、最近では中国南西部の雲貴高原辺りというのが定説のようで、朝鮮半島→対馬、シベリア→北日本、中国大陸→九州などのルートで日本に渡ってきたと考えられています。
日本でそばが栽培されたのは今から約9300年前の縄文時代草創期だといわれています。高知県佐川町の地層からそば花粉が見付かっており、その様子から遅くともその頃には栽培が始まっていたと考えられるようになりました。
当初そばは大量の製粉が難しかったこともあり、そばの実を粒のまま食べるのが主流で、主食ではありませんでした。日本の文献上での最古のそばに関する記述は「続日本書紀」にある養老6年(723年)の元正天皇の「勧農の詔(みことのり)」で、救荒作物として挙げられています。
鎌倉時代に中国から挽き臼が伝来すると大量の製粉が可能になり、そばや小麦等の粉食が急速に広まり始めます。この頃から、そば粉を使った料理が増えていきます。とはいえ、「そばきり」と呼ばれる今の麺が登場するのはまだ先の話です。
そば粉をお湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」、それをまた鍋で煮て作る「うきふ」、「つみれ」、「すいとん」、更には薄く焼いた「おやき」、「せんべい」、そして「そば饅頭」、「そば団子」など、そのバリエーションはたくさんありました。
小麦粉で作るうどんやそうめんが古代からあったのに対し、そばが中々麺にならなかったのは、そば粉の中にグルテンのようなつなぎとなる成分が含まれておらず、そば粉100%だと麺にすることが難しかったからです。そこで、江戸時代初め頃に、つなぎとして米を炊くときに噴き出る「おねば」やすり潰した大豆を入れることにより、やっと麺にすることができるようになったのです。今ではつなぎに小麦粉を混ぜ込むのが一般的です。
この「そばきり」は、江戸中期の俳人、森川許六(1656~1715年)が1706年に発刊した俳文集『風俗文選』で「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿(長野県塩尻市)より出て、普く国々にもてはやされける」と記しているように、その頃には日本中に広がっていたと考えられます。
長野県南西部の大桑村に定勝寺というお寺があります。その寺に天正2年(1574年)にしたためられた「定勝寺文書」に「ソハキリ(そばきり)」の文字がみられ、それが文献上日本最古の麺となったそばの記述だといわれています。
さあ、このそばが江戸時代にどのような進化を遂げていくのでしょうか? この続きは次回に回したいと思います。
高見澤