東藝術倶楽部瓦版 20161027 :男気の見せ所-仕出し屋と台の物

 

おはようございます。昨日、黒木代表から皆さんにご案内があったかと思いますが、1112日(土)午後2時お江戸日本橋集合で、勉強会を開催します。日本橋や魚河岸のお話をしながら、ちょっと贅沢な話しですが、今の日本の政治・経済、日中関係等についても紹介できればと思っています。

 

さて、本日は江戸の「仕出し屋」についてご紹介したいと思います。

今ではコンビニが24時間営業していて、食事時や小腹が空いた場合など、簡単に調理した食べ物が手に入るようになりました。また、昔は「出前」なんて言っていましたが、寿司や弁当、あるいはファーストフードの宅配なんかも電話やメール1本で頼める時代です。

 

ところが事実、江戸時代にもこうした料理の宅配サービスがあったのですから驚きです。もちろん電話やメールなんていうものはありませんから、あらかじめおカネを払って頼んでおかなければなりませんけど。

 

棒手振りの物売りが食材や料理された食べ物を売りに来たことは、以前ご紹介した通りですが、これが幕末頃になると、寿司、そば、うなぎといった出前が充実するようになります。そして、更には会席膳などの料理一式を届けてくれる「仕出し屋」が登場します。食器やお膳がなければ、それもすべて用意してくれました。頼んだ家では、汁物を温め直すだけで、手軽に豪華な料理でお客をもてなすことができたのです。もちろんメイン料理、手の込んだ料理だけでも希望に応じて届けてもらうことも可能でした。

 

江戸の武家屋敷では、基本的に客に出す料理は屋敷内でつくるのが原則でしたが、次第に贅沢になってきて、中には仕出し屋から料理を取り寄せるということが行われ、商家でもお祝い事などの行事の時には料理を仕出し屋に頼むことが増えていったそうです。

 

以前、勉強会で行った吉原の引手茶屋や妓楼でも、当初は店の中で料理を作っていましたが、次第に仕出し屋から料理を取るようになりました。料理が美味しいことも客寄せの重要なファクターですが、経費削減のためにも引手茶屋や妓楼自身が腕利きの料理人を雇うことはせず、料理は外部のコントラクターに委託するという、現代の企業間契約にも似たビジネススタイルが江戸にはあったのですね。

特に吉原では、仕出し屋のことを「喜の字屋」と呼んでいました。元々は享保(17161736年)の頃、喜右衛門という人が吉原の仲の町に仕出し屋を開業して繁盛したので、以来、吉原の仕出し屋全部を縁起を担いで「喜の字屋」と呼ぶようになったとのことです。歌舞伎の江戸三座の一つ「森田座」の座元である森田勘彌(守田勘彌)が専有する屋号の「喜の字屋」とは関係なさそうです。

 

この吉原の仕出しの特徴は「台の物」といわれるもので、卓袱台ぐらいの大きさの台に、魚や料理を豪華に盛り付けた皿や鉢を並べて、台ごと配達していました。そのため別名「台の物屋」とも呼ばれていました。料理はといえば刺身、煮物、蒲鉾や伊達巻きがのった「口取り」、それに焼き物4品で金一分(2万円)というのが相場だったようです。これだと高いし、ほとんど食べないことが多かったので、天保年間(18301844年)にはその半額の二朱(1万円)というリーズナブルな台ができました。ただこれにのっているものはといえば、煮物と酢の物だけという貧相なものだったようで、これでは花魁クラスを口説くことはできませんよね。

客が頼んだ豪勢な「台の物」は、当然食べ切ることはできませんので、残ったものは遊女たちの夜食になります。そのため、お客を煽ててなるべく高い台の物を注文してもらい、ついでに食べたいものを追加してもらうということもありました。お気に入りの女性からおねだりされたら、ここは男気を見せなければなりません。男の性(さが)なんていうものは、そんなものなのでしょうか...

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2016年10月27日 09:32に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20161016 :知っていますか !? 居酒屋の本来の姿!」です。

次のブログ記事は「藝術倶楽部瓦版 20161031 :江戸の人たちも肉を食べていた !? -ももんじ屋の山くじら」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ