2016年11月アーカイブ

 

おはようございます。11月も今日で最終日、今年も残すところあと1カ月となります。何事もなく無事新しい年を迎えたいところですが、今の世の中何が起きるか分かりません。常に意識を持った行動に努めましょう。

 

さて、寒い日が続いていますが、こんな日は鍋をつついて一杯、という人も少なくないでしょう。そこで、本日は「鍋料理」についてご紹介致しましょう。

日本で現代のような鍋料理が登場するのは比較的新しく、江戸時代後期のことです。鍋そのものは古くからありましたが、鍋で煮炊きした料理は必ず一人前ずつ椀や皿に盛りつけて食べていました。鍋に自分の箸を入れて食べるというのは、無作法とされていて好まれなかったようです。

 

これが江戸時代中期になると、焜炉や火鉢といった持ち運びのできる小型の過熱道具が普及し、燃料も薪から煙が出ない炭が使われるようになります。これにより、竈や囲炉裏がなくとも台所以外の部屋で鍋が使えるようになりました。そうなると、熱いものは熱いうちに食べるのが美味しいわけで、知らず知らずのうちに鍋料理が普及していくことになったのです。ところが、最初のうちは焜炉や火鉢も大きいものではなく、一人一人の膳で食べる習慣が根強かったために、鍋も一人前か二人前程度の小さなものでした。これを囲炉裏に掛ける「大鍋」に対して、「小鍋膳立て」、略して「小鍋立て」といいます。また、それまで塩や味噌が主体だった調味料も醤油や味醂が普及し、味付けにバリエーションができたことも鍋料理が広まる要因の一つになったものと思われます。そして、江戸時代後期になると、焜炉や火鉢も大きくなり、鍋を囲める人数も多くなりました。こうして鍋料理が庶民の間でも広まっていくことになったのです。

 

江戸の鍋料理の代表的なものは、「ねぎま鍋」、「どじょう鍋」、「あなご鍋」、「しゃも鍋」、「ぼたん鍋」などです。

「ねぎま鍋」というのはネギとマグロのトロ身を入れた鍋で、以前本瓦版でもご紹介した通り、マグロのトロ身は嫌われ者の「猫またぎ」でしたが、これを鍋に入れてみたら脂がのっていてめっぽう美味しい、ということで居酒屋や独り者の料理として広まったものです。

「どじょう鍋」は、それまで内臓も取らずに丸ごと味噌汁で食べていたものを、小鍋立てが登場してから醤油で煮て食べるようになりました。文政年間(18181830年)には裂いて内臓や頭、骨を取ったものを出す店も登場すると、丸ごと煮たものをあえて「丸煮」と呼ぶようになりました。天保年間(18301844年)には、裂いたどじょうの下に笹掻きゴボウを敷いて上に玉子とじをかける「柳川鍋」が登場します。売り出した店の名前「柳川屋」からこの名前が付いたという説が有力のようです。どじょう屋では「あなご鍋」も同様の味付けで客に出していました。

「しゃも鍋」は鶏鍋のことで、今の水炊きとは異なり煮汁が少ないすき焼風の鍋だったようです。「しゃも」はいわゆる「軍鶏」のことで、闘鶏用に飼われていた軍鶏を食べていたのですが、鍋料理が普及すると軍鶏以外の鶏もすべて「しゃも鍋」として呼んでいました。

「ぼたん鍋」は「ももんじ屋」で出される薬喰いの獣肉鍋です。滋養強壮を目的として食べていました。

 

そしてこれら鍋に欠かせないのが「根深ネギ」です。江戸の鍋料理の真の主役はこの白くて太い「根深ネギ」だという人もいるくらいです。江戸時代初め、関西からの農民が隅田川東岸の葛飾や葛西に入植し、青ネギを持ち込みました。しかし冬場になると低温と乾燥で葉が枯れてしまいます。そこで葉の下部に土をかけて保護したところ、白く軟化して甘い根深ネギができたとのこと。木枯らしに当ることで甘味が増すともいわれます。

 

焜炉や火鉢等調理道具の登場、醤油や味醂といった調味料の普及、そしてネギなどの食材の開発がタイミングを同じくして揃い出たことで、はじめて江戸の料理革命が生まれるに至りました。鍋料理誕生秘話ともいえるでしょう。江戸の素晴らしさを再認識させられる鍋料理なのです。

 

高見澤

 

おはようございます。11月も残すところあと2日、年月が経つのも速いもので、中国駐在から帰国してもうすぐ8カ月が過ぎようとしています。ところで、昨日の胸騒ぎは一応収まりましたが、これで終わったような感じはなく、引き続き警戒が必要かと思われます。

 

さて、本日は11月にちなんで「幕の内弁当」についてご紹介したいと思います。11月がなぜ幕の内弁当なのかというと、江戸では歌舞伎小屋と歌舞伎役者との間で毎年11月1日から1年間専属契約を結ぶのが慣例で、契約した役者の顔ぶれを披露するのが11月に行われる「顔見世興行」、そして歌舞伎といえば「幕の内弁当」という訳なのです。歌舞伎については、また別の機会を設けてお話しするとして、ここでは簡単に説明しておきたいと思います。

 

江戸時代の歌舞伎興行は現代と違って照明設備がありません。先日の江戸日本橋の勉強会でも三光神社で地元商工会長から「二代目関三十郎」のお話を伺った際に、日差しに映し出され光り輝いた三十郎の「三」と「光」の二文字を合わせて「三光」と命名されたと知った訳ですが、芝居小屋の室内では、明かり窓を通して入ってくる陽の光が照明の役割を担っていました。そのため、上演時間は陽の昇る夜明けから陽の沈む夕暮れまでとなります。一方、観客はといえば芝居小屋周辺に立ち並ぶ芝居茶屋に入り、開演を待ちます。芝居茶屋は芝居小屋の観客席の手配、観劇中に飲むお茶・酒・肴、幕の間に食べる菓子や食事の手配、更には観劇に疲れたときの休憩場所など、歌舞伎鑑賞に必要なサービスを提供してくれます。

 

このように、朝から晩までほぼ12時間近く観劇する観客は、途中何度か食事をとることになります。多い場合は朝昼晩と3食とる人もいますが、通常は昼食だけです。大商人や御殿女中などカネのある人は茶屋の座敷に戻って膳で食べますが、庶民はそうはいきません。観客席でそのまま芝居茶屋から届けられた弁当を食べるのです。この弁当が、芝居のセットを転換している「幕間」という休憩時間に食べたので、「幕の内弁当」と呼ばれるようになったということです(他にも諸説あり)。幕の内弁当の中身は、軽く炙った握り飯、玉子焼きと蒲鉾、それにこんにゃく、焼き豆腐、かんぴょうを煮たものが定番でした。

 

昼食に幕の内弁当を食べた後、数時間もすると小腹が空いてきます。その時に芝居茶屋から配達されるのが「すし」です。もちろん腐りやすい握りずしではなく、巻きずしや押しずし、そして幕末になると稲荷ずしも加わるようになりました。こうしたすしは、そのまま食べてよし、余ればお土産に持ち帰るのもよしということで、大変喜ばれました。特に歌舞伎の演目「助六」にちなんで、助六の結んだ紫の鉢巻きに見立てた海苔でかんぴょうを巻いた細巻きと、助六の恋人で吉原の花魁揚巻に見立てた油揚げで包んだ稲荷ずしで構成された「助六ずし」は大変好評だったようで、今でも歌舞伎座の定番弁当になっています。

 

当初は芝居小屋で食べられていた幕の内弁当も、次第に規格化され量産されるようになります。天保8年(1837年)起稿の『守貞漫稿』によると、江戸時代末期には握り飯に副食物を添えた弁当を幕の内と呼ぶようになり、最初に作ったのは芳町にある万久という店であったとのことです。やがて、この幕の内弁当は芝居小屋を離れ、病人への見舞いや贈答にも用いられるようになっていきます。

 

歌舞伎を鑑賞しながら幕の内を堪能する。そんな江戸勉強会も面白いかもしれません。

 

高見澤

 

東藝術倶楽部会員各位

 

おはようございます。昨晩の雨も止み、まだ雲に覆われている東京ですが、今日は朝から何となく胸騒ぎを覚えます。大きな事故や災害が起きなければと心配になるところですが...

 

さて、本日は「秋の味覚」についてご紹介したいと思います。食欲の秋といわれるように、秋にはたくさんの食材が旬を迎えます。その中で、山での秋の代表格といえば「松茸」を思い浮かべる人がほとんどではないかと思います。

「匂い松茸味しめじ」といわれるように、キノコの中でも松茸の香りは特別です。栽培ができず天然モノしか食べられない希少価値のキノコであることから、今では非常に高値で取引されています。中国や韓国、米国などからも輸入されています。

 

今では高値の華の松茸ですが、江戸時代以前の京や大坂では松茸の専門の市が立ち、庶民も普通に食べていたようです。武士も農民も身分の上下を問わず松茸狩りを楽しんでおり、商家の女性たちにとっては秋の行楽の一つでした。

 

一方、江戸の庶民は松茸にはほとんど関心がなかったようです。男子トイレに「急ぐとも 心静かに手を添えて 外にこぼすな 松茸の露」という張り紙を見た人もいるかと思いますが、こうした狂歌などに詠まれることはあっても、食べ物としての認識は低かったようです。

その最大の理由は、江戸の近郊には松茸が生える赤松の山がなく、江戸っ子は生の松茸を見る機会がほとんどなかったからだといわれています。関西では古来落葉樹の伐採が進み、その後に痩せ地でも育つ赤松が増えて、その結果松茸が生えるようになったのですが、江戸時代以前の関東は落葉樹がまだまだ多く、赤松が少なかったのです。

 

関東の山間部では松茸が獲れることもありましたが、江戸に運ぶうちに乾燥したり、腐ったりして、庶民の口に入ることはほとんどありません。関東の大名から将軍家への献上品として宿場ごとにリレー方式で運び一昼夜で届けた例もあるくらいです。

とはいえ、江戸でも関西から送られてきた塩漬けの「漬け松茸」を料理茶屋で出していたようです。これは軸の先端部分の「石づき」を切り落とし、つぼみはそのまま、傘の開いたのは軸と傘を切り離して茹で、冷ました後に塩を敷いた樽に並べ、また塩を松茸が隠れるくらいにかけて、その上に松の葉を置き、その繰り返して樽が一杯になったら樽の底に穴を開けて水分を抜くというものです。この漬け松茸は、先ず塩抜きをして汁物や煮物などに使うのですが、当然香は失われています。

 

寛永20年(1643年)刊行の『料理物語』には、「松茸 古酒にてさわさわといりさかけ(酒気)のなき時白水をさしだしたまりくはへ(加え)ふかせ候てすいあはせ出し候。すい口 柚輪切(ゆわぎり)其まま入吉(いれてよし)」という記述が出てきます。また、享保15年(1730年)の料理書『料理綱目調味抄』(中川茂兵衛ほか)には「松茸を常のかけんに漿にていり生かみそに柚酢(ゆす)を加へ温(ぬくめ)て掛るごまのいりたるもよし」とあり、宝暦14年(1764年)の『料理珍味集』にも「松茸笠軸よきほどに薄く切寒鍋(からなべ)に入いる也灰汁気出るを捨てしやうゆをさしいりて柚酢かける」と、松茸の調理法に関する記述がみられます。これらの記述から、江戸庶民の松茸の定番の食べ方は、煎った松茸に出汁や醤油かけ、それに柚を添えるというものだったことが分かります。

 

昔と比べ、今の人々はほとんど山との共生をしなくなりました。昔の人々は、山に入って落ちている枝や灌木をとって薪に使ったり、落ち葉をとって有機肥料にしていました。実はこのことが里山の手入れにつながり、松茸などのキノコや山菜の生長を促してきたのです。石炭・石油・ガスといった化石燃料によるエネルギー革命や農薬・化学肥料による農業革命が、人々の暮らしを大きく変えましたが、それが却って山の豊かな恵みを奪うことにつながったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は何と54年ぶりに11月中の初雪を観測した東京でしたが、本日は雪も止んで晴れています。とはいうものの一段と冷え込んでいます。

 

さて、こんな寒い日には暖かい「甘酒」なんかは如何でしょう。そういえば、先日の日本橋勉強会の時にも人形町で甘酒を堪能しましたね。ということで、本日のテーマは「甘酒」です。

甘酒の起源ですが、どうやら古墳時代にまで遡るようです。『日本書紀』に「狭名田(さなだ)の田の稲を以て、天甜酒(あまのたむざけ)を醸()みて嘗(にいなえ)す、又淳浪田(ぬなた)の稲を用て、飯(いい)を為(かし)きて嘗す」とあり、この天甘酒が甘酒の起源ではないかといわれています。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」、または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」とも呼ばれたようです。

 

この甘酒ですが、「甘酒も飴湯も同じ樹陰かな」(正岡子規)とあるように、俳句の世界では夏の季語になっていることをご存知の方も少なくないと思います。このメルマガでもよく紹介している『守貞漫稿』にも「夏月専ら売り巡るもの」として「甘酒売り」が記されています。

しかし、文化11年(1814年)に書かれた江戸の随筆『塵塚談』(小川顕道著)に「甘酒売りは冬の物と思っていたら、近頃は四季に関係なく商売をしている。(中略)今は暑中往来を売り歩き、以前のように冬に売る者が少ない」とあるほか、同じような証言をしている資料もあることから、甘酒売りが夏の風物詩になったのは、どうやら江戸後期になってからではないかと考えられます。つまり、江戸中期以前は、やはり冬の飲み物であったのではないかと推察されるわけです。甘酒を冬に飲むというのは、当たり前といえば当たり前のような気がしますよね。その値段ですが、江戸中期には1杯6文というのが決まりで、夏の飲み物になった江戸後期には1杯8文に値上がりしています。

 

甘酒には二種類あって、一つは米の飯に米麹を混ぜて発酵させ、アルコール成分が生じる前に飲む「一夜酒」です。麹さえあれば家庭でも簡単に作ることができ、一年中飲むことができます。もう一つは日本酒を製造する時に出る酒粕に砂糖を加えて作るもので、これは新酒のできる冬場にしか酒粕が手に入りませんので、冬限定の飲み物になります。

甘酒はアルコール分1%未満のソフトドリンクとして扱われますが、大量に飲むと幼児など酒に弱い体質の人は酔う可能性もあるとのことです。糖分が20%近くありかなり甘く感じます。また、ビタミン類や必須アミノ酸を豊富に含んでおり、今でいうところの栄養ドリンクでしょうか。冬場の身体を温めるにも、また夏バテ防止にも最適な食品といえるでしょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨、それも少しみぞれ交じりの雨で、今週前半と比べ急激に気温が低下していることが分かります。また、一昨日から福島沖で比較的強い地震が多発、いよいよ東京脱出の時が近づいているのかもしれません。昨日の五井野博士のプレミアム講演、身につまされる思いで聞いていました。今のしがらみに束縛され、行動できない自分に歯がゆさを感じる次第です。

 

さて、本日も江戸の食についてご紹介していきましょう。

古今東西、特別な時に特別なものを食べる習慣があります。日本では正月にはおせち料理、人日の節句には七草粥、桃の節句には桜餅、端午の節供には粽や柏餅、また中国では地域によって違いはありますが、冬至や春節など行事の度に餃子を食べることが知られています。

 

そんな中、江戸時代に7月7日の「七夕」に食べていたものをご存知でしょうか?

ご存知の方も少なくないと思いますが、それは「そうめん(素麺)」です。織姫が機織りをする時の細い糸に見えることから、そうめんを食べるようになったとのことで、これを食べると女性は機織りや裁縫が上達するといわれました。

 

ご存知の通り、そうめんは「うどん」や「冷麦」と同じように小麦粉から作られた麺ですが、その細さは特別です。地域によっては「きしめん(ひもかわ)」、「ほうとう」などもありますし、中国では「刀削麺(Daoxiao Mian)」なんでいうのもあります。

 

これら麺の起源はよく分かりませんが、一般には中国から日本に伝来したものと考えられています。奈良時代に唐から輸入された14種類の唐菓子の中に「索餅(さくべい)」、「餛飩(こんとん)」、「餺飥(はくたく)」といったものがありますが、これらが今日のそうめんやうどんなどの麺類を指していたのではないかと考えられています。

 

このなかで、索餅は「无岐奈波(むぎなわ)」と呼ばれ、形がなった縄に似ているので、後に「麦縄」と書かれるようになりました。索(Suo)は中国では細い縄を意味し、餅(Bing)は小麦粉などを練って作る食べ物を指します。中国ではこれら小麦粉で作った食材を総称して「麺(Mian)」と呼ばれます。

この索餅がそうめんになったかというと、そこは不確かなようです。鎌倉時代に入り、新しい麺の製造方法が禅僧たちによって中国から日本にもたらされます。それは、挽き臼で挽かれた粒子の細かい小麦粉だけを使って麺を作り、そこに植物油を塗って伸ばすという製麺法です。これがそうめんであったのではなかいと考えられています。

中国の元の時代の百科全書『居家必用(きょかひつよう)』には、「小麦粉を塩水でこね、油を塗って板の上でもむようにして徐々に細く麺条に延ばしていく。それを油紙でおおう。この麺条を横木にくるくるとかけ、引っぱって細め、日に当てて乾燥する」とあることから、鎌倉時代にもたらされたというのが有力な説なのでしょう。

 

現代では包装や輸送の関係で、そうめんは20センチほどにカットされて売られていますが、江戸時代はそのままカットしないもの、あるいはぐるぐる巻きにしたものが一般的でした。長いままだと食べるのに不便ですが、「細く長く」の言葉の通り、長寿できるようにとゲン担ぎの意味を込めて長いまま食べていたとのことです。

 

江戸時代のそうめんの食べ方ですが、前期には茹でた後に水で洗い、味噌から出る溜(たまり)を薄めたつけ汁にネギ、胡麻、山椒、辛子などの薬味を入れて食べていました。夏の暑気払いの毒消しとして入れていたのではないかと思います。中期以降は、醤油の普及とともに、鰹の出し汁に味醂の甘さを足したつけ汁が出回るようになり、薬味も生姜をつかうようになりました。

 

そうめんの産地は、江戸時代中期まではやはり西日本から下ってくる「下りそうめん」がほとんどでしたが、後期には江戸市中でもそうめん作りが行われるようになります。江戸以外の関東にもそうめんの産地が生まれ、「地回りそうめん」として江戸の旺盛な食欲を支えたようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も冷えていますが天気は晴れ、明日の未明からは雨になるという天気予報です。日一日と冬に向かっている感じです。

私はといえば、来週富山で大きな会議が予定されていて、明後日から出張です。来週は瓦版もお送りできないと思いますので、ご了承ください。

 

さて、本日は夏の食の風物詩についてご紹介したいと思います。夏の暑い盛りに外を歩いていると、どこかでグッと冷たい水を飲みたいと思いますよね。そんなときは、冷たいビールやお茶、生ジュースなどもよいですが、やはり何といっても「美味しい水」が最高だと思うのですが、如何でしょうか?

 

江戸の街では、隅田川の東岸の本所や深川など一部地域を除くと、掘り抜き井戸や水道水を溜めた上水井戸が各所に行き渡り、飲料水に困ることがなかったことは、以前上水道のお話をした際にもご紹介した通りです。また、人が集まる場所には茶店があり、お茶を飲むことができたことも、以前紹介した通りです。しかし、真夏の暑いときに熱いお茶や生ぬるい水よりは、やはり冷たい水が一番でしょう。

 

ちなみに、中国でも最近は冷たいミネラルウォータを飲むようになりましたが、従来、基本はお茶か白湯が一般的で、生水を飲む習慣はありませんでした。水質が硬質であることや衛生上の問題でやはり一旦沸かす必要があったのです。また、陰陽のバランスから身体を冷やすことを極端に嫌い、習慣的に冷たい水を飲むことを避けていたこともあるかと思います。今は、ミネラルウォータはもちろんそのまま飲みますが、やはり水道水は一旦沸かして飲むのが常識です。

 

では、冷蔵庫のなかった江戸時代では、果たして冷たい水を飲むことができたのでしょうか? それが実はあったのです。「冷や水売り」という商売がそれです。文化10年(1813年)に刊行された『浮世風呂』4編に、冷たい水を入れた荷台を担いで「氷水あがらんか、冷(ひやつこ)い。汲立(くみたて)あがらんか、冷(ひやつこ)い」という呼び掛け声で、水を売り歩いていた冷や水売りの姿が描写されています。また、井原西鶴の浮世草子『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』〔元禄9年(1696年)〕にも、既に冷や水売りが商売として成り立っていたことが記載されています。

 

この冷たい水ですが、井戸から汲んだばかりか否かは別として、外気温度が高いために、水を入れた木桶の側面から水が蒸発するときに気化熱を奪い、中の水の温度が下がるという現象が生じます。その効果によって水が冷たく感じるというわけです。また、水を飲ませる茶碗も真鍮や錫といった金属製の容器を使っていたそうです。それだと、陶器に比べ熱伝導率がよいので、より冷たさが感じられたのでしょう。

 

さらにこの冷や水には、白玉団子と砂糖を少し入れていました。掛け声も「冷やっこい、汲みたて」に続いて「道明寺砂糖水」といっていたそうです。道明寺とは、桜餅のところでも紹介しましたが、糯米を蒸して乾燥させそれを砕いたもので、糒(ほしいい)や関西風桜餅に使われるものですが、ここでは糯米を水に浸してから粉にした白玉粉から作った団子のことです。甘い砂糖水につるりとした白玉団子の食感や喉越しが、夏の乾いた喉に心地よかったのではないかと思います。

 

さてその気になるお値段ですが、初めは銭1文(20円)だったのですが、インフレが進んだ1800年頃から幕末にかけては4文(80円)、砂糖の量を増やすと8文、12文といった値段になりました。また『守貞謾稿』によれば、幕末の大坂では、「冷や水売り」ではなく、「砂糖水屋」と呼ばれており、砂糖を入れた甘い冷や水が一杯6文で売られていたことが紹介されています。

 

もちろんこの「冷や水売り」とは別に、「水売り」という商売がありました。こちらは季節限定ではなく、地域限定のものです。神田上水から日本橋川に流れ出た水道水を水船に積んで、隅田川対岸の本所や深川に運び売るもので、当然砂糖や白玉団子は入っていません。江戸時代前期には本所上水(亀有上水)が設置されましたが、水質が悪くたびたび潮水が入り込むので、享保7年(1722年)に廃止になりました。それ以降、神田上水からの「水売り」に頼ることになるのですが、この地域は坂がなく、また水路がたくさん通っていたので、水の運搬にはそれほど苦労はなかったようです。ちなみに値段は水桶二ツ〔一駄(36貫:約135㎏)〕で4文という格安値段でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は少し冷えましたが、天気は良好、比較的清々しい朝を迎えています。

 

さて、本日の話題は「卵」です。これもまた春の花見弁当に欠かせない食材で、今では手軽に口にできる食材ですが、日本では何時頃から鶏卵を食べるようになったのでしょうか?

 

調べてみると意外と面白く、これもまた江戸時代に入ってから多くの日本人が食べるようになったようです。もちろんそれまでにも食べる人はいましたが、鶏を飼う主な目的は闘鶏で、鶏肉や卵を食べるためではなかったようです。ですから、一般に市場には出回ることはなく、料理にもほとんど使われることはありませんでした。

 

一方、西洋では卵をふんだんに使ったカステラやボーロといったお菓子が食べられていました。それが戦国時代後期から、ポルトガル人をはじめとする西洋人よって日本に伝えられるようになり、日本人の間にも卵の美味しさが知られるようになります。それ以降、卵を生産する目的で鶏を飼う農家が増え、卵は普及していきます。

 

江戸初期の寛永20年(1643年)に刊行された日本初の一般向け料理書『料理物語』には、「卵酒(玉子酒)」についての記載があり、先ず器に卵を割り、冷酒を少しずつ入れてかき混ぜ、塩を少々加えて燗をするという方法が説明されています。

また、江戸中期の天明5年(1785年)に出版された『万宝料理秘密箱』には、通称「玉子は百珍」と呼ばれる「卵之部」があり、何と103種類もの卵の調理法が紹介されています。各種卵焼き、錦糸卵、卵豆腐といった今でも定番の卵料理から、卵蕎麦、冷し卵羊羹など変わったものまであります。

これまでにも何度か紹介した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』にも、江戸で人気の寿司ネタとして「玉子巻き」が紹介されています。屋台の寿司が1つ8文(160円)の中で、玉子巻きだけが倍の16文だったということですから、当時は卵が高級食材であったこと分かります。卵の黄身で溶いた衣で揚げた天ぷらは「金ぷら」と称されて、贅沢グルメとして持て囃されていたとのことです。また、親子丼や茶碗蒸しなど多様な卵料理が生まれたのもこの頃です。

 

幕末になると、「ゆで玉子」の行商が登場します。その値段は1個20文(400円)だったというのですから、庶民でも滋養をつけたい時には食べることができたようです。それから日本人が好きな「生卵かけ御飯」ですが、これは明治以降に食べるようになったとのことです。

 

高見澤

 

今回の江戸日本橋勉強会で紹介したかった名所の一つに親子丼発祥の地がありました。残念ながら今回は時間の関係で実際に味わうことはできませんでしたが、平日の昼時には長い行列ができるほどの人気店だとか。

 

【親子丼の「玉ひで」】

宝暦 10年(1760年)、初代山田鐡右衛門が妻のたまと一緒に御鷹匠仕事の店「玉鐡」を江戸日本橋和泉町(現在の人形町三丁目)に開店。その後、軍鶏料理専門店になる。

明治20年(1887年)頃、客が軍鶏鍋鳥鍋(鳥寿喜)の〆に卵でとじてご飯と一緒に食べる「親子煮」が食べられていたのを見て、明治24年(1891年)に5代目店主秀吉の妻山田とくが、食べやすいようにご飯にかけて「親子丼」を一品料理として提供するようになった。「玉鐡」が「玉ひで」となったのはこの頃。

当初「汁かけ飯」は店の格が落ちるとして、昭和54年(1979年)まで店内では提供せず、出前のみで対応していた。この親子丼は旧魚河岸の人たちには人気があったという。

現在の店主は8代目山田耕之亮。

http://www.tamahide.co.jp/

 

おはようございます。先週末の暖かさとはうって変わり、今朝は風が冷たかった東京です。今週から来週にかけて、気温の変化が激しいとの予報ですので、体調管理にはご注意ください。

 

さて、本日は春の風物詩の一つである花見弁当に定番の「蒲鉾」についてご紹介したいと思います。

蒲鉾の起源をたどれば平安時代に至ります。平安時代の古文書『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』には、「永久3年(1115年)七月廿一日戌子、関白右大臣、東三條へ移御のときの祝宴の高坏の図」に「蒲鉾」が記されているほか、その他祝宴の献立の中にもしばしば「蒲鉾」の文字が登場してきます。平安時代には練り物が既に存在していたことが分かります。

 

しかし、この時代の蒲鉾は、室町時代中頃の書物『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』(享禄元年:1528年)にも「かまぼこはなまず本也。蒲のほをにせたる物なり」と記してあるように、姿形が蒲の穂子に似ていることから、「蒲鉾」といわれるようになったようです。実際には、竹の串に摺った魚肉を貼り付けて焼いたものですが、これは今では「竹輪」といっています。嘉永元年(1848年)に出版された『近世事物考(きんせいじぶつこう)』(久松祐之著)には、「後に板に付けたるができてより、まぎらわしきにより元のかまぼこは竹輪と名付けたり」と記載されているように、この頃に蒲鉾と竹輪とが別々のものとして認識されるようになりました。

 

では、今の板付の蒲鉾はいつ頃できたのでしょうか。

江戸時代の戦記本『摂戦実録大全(せっせんじつろくたいぜん)』(宝暦2年:1752年)には、豊臣秀頼が大坂城へ帰る途中、伏見で梅春という料理人が「かまぼこ」を作って振るまったという話が載っており、そこには「板に付けてあぶる」という表現がされているので、安土桃山時代末期には「板付蒲鉾」がすでに存在していたことが分かります。また、

室町時代の写本『食物服用之巻(しょくもつふくようのまき)』(永正元年:1504年)には、「粥の事、かまぼこは右にてとりあげ、左へとりかえ、上ははし、中はゆび。下はいたともにきこしめす也。きそく(亀足)かけとて、板の置やうに口伝あり」と記されており、板付き蒲鉾の発祥は室町時代中期といえるかもしれません。

 

 安政6年(1859年)に書かれた『及瓜漫筆』には、「魚どもを取りよせ、大勢よりて、ひたとおろし、骨をさりて、大きな臼を二ツ三ツ立ならべて、おろしたる肉を入れ、杵をもってければ、即時にかまぼこになりけるを板につけ、庭の中に長く掘り、隅の火を卓散におこし、畳を左右に立ならべ、かまぼこを段々に指て炙り・・・」とあることから、当時は表面を焼いた「焼き蒲鉾」であったことが分かります。

 

今のような蒸した蒲鉾が登場するのは江戸時代末期のことになります。江戸時代の百科事典『守貞謾稿(守貞漫稿:もりさだまんこう、喜田川守貞著、天保8年起稿)』に「江戸にては焼て売ることなく、皆蒸したるのみを売る」と「蒸し蒲鉾」の記載がみられます。このことから、江戸では「焼き板」がすたれて「蒸し板」ばかりになったことが分かります。ですから、江戸の蒲鉾は食紅で色を付けない限りは白色が一般的です。一方、京・大坂では蒸してから更に焼くようになったので、焦げ目がつくのが普通です。このようにして、「江戸式蒸し板」、「大阪式焼き板」という現代の形が出来上がりました。また、「細工蒲鉾」といわれる「切り出し蒲鉾」や「模様入り蒲鉾」などが作られるようになったのも江戸時代末期だといわれています。

 

ちなみに蒲鉾の値段ですが、安いものでは1枚100文(2000円)、良いものでは200文(4000年)より高いものもあったそうで、今からすればかなり高価な食材であったことが分かります。

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨晩はスーパームーン。しかし、東京はあいにくの雨で見ることは叶わずでした。今朝はその雨も止み、冬に向かって次第に寒さが増してきそうな気配です。

 

さて、本日も春の食の話題といきましょう。

「明けぼのやしら魚しろきこと一寸(初案:雪薄し白魚しろきこと一寸)」、お馴染みの松尾芭蕉の句です。今日はこの句に出てくる白魚についてご紹介したいと思います。

 

歌舞伎の『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』の銘台詞「月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)も霞(かす)む春の空」にも出てくるように、早春の夜に隅田川河口に篝火を焚いた漁火がいくつも見えた風景は、とても風情があったようです。

この漁火は「白魚(しらうお)」を獲るために、夜間に船を出して、四手網(よつであみ)を使ってすくう漁法のために焚かれたものです。この白魚ですが、サケ目シラウオ科の魚で、春2~5月に産卵、孵化して夏には2~4センチとなり、10センチぐらいまで育つそうです。よくスズキ目ハゼ科の「素魚(しろうお)」と混同されやすいのでご注意ください。

 

白魚は「白魚のような指」に例えられるように、細くて繊細な魚です。夜に漁獲したものをそのまま市場に出荷します。漁期は旧暦の12月中旬から3月3日の桃の節句までで、江戸前の海から始まり、季節とともに隅田川、荒川、江戸川、多摩川を遡っていきます。白魚漁は早春の風物詩だったわけです。

 

今では普通に食べられる白魚ですが、江戸初期には大変高価なもので、庶民が口にすることはほとんどありませんでした。徳川家康が存命中は「御止魚(おとめうお)」と呼ばれ、江戸城に納める以外は獲ることも売ることも禁じられていたといわれます。これは、家康が江戸入府したときに、摂津国より呼び寄せた佃島の漁師が江戸前の白魚を献上したところ、家康がたいそう喜んだことから、以降毎年献上するようになり、漁獲量を確保するために売ることが禁じられたとのことです。白魚の脳髄が葵の御紋に見えるなどという話もありますが、それほど白魚は特別な魚であったことを伺い知ることができます。

 

家康の死後、漁獲する漁師は制限されていたものの、他の魚同様に江戸城に納めた残りを売ることができるようになりました。体長10センチ足らずの白魚、指でつまめば潰れてしまいます。1匹ずつ箸でつまんで、20匹を1「ちょぼ」として最低単位で売られるようになりました。江戸中期までの値段は、「白魚に値あるこそうらみなれ」と芭蕉が詠っているように相当高かったのではないかと推測されます。これが、天保年間(18301844年)になると、1ちょぼ100文(2000円)くらいになり、さらに幕末には30文となったため、やっと庶民も春の味覚として味わうことができるようになったのです。

 

高見澤

 

おはようございます。黒木代表からのお知らせにもありましたが、先週土曜日12日の勉強会は無事終了し、ご参加頂きました皆様には楽しんで頂けたものと、改めてお礼を述べさせて頂きます。報告書につきましては、今暫くお待ちください。来週、富山で数名の県知事クラスが出席する比較的大きな会議が控えている関係もあり、少し落ち着いてからまとめさせて頂ければと思います。

 

さて、本日からはお菓子を離れて、江戸の季節を感じさせる味覚についてご紹介していきたいと思います。今日のテーマは「雑煮」です。

文字通り雑煮というのは、様々な食材を煮混ぜたもので、元々は内臓をいたわるために食べた滋養食だったと言われています。ですから、必ずしも正月に食べる習慣はなかったのですが、これが正月の行事食となったのは室町時代で、江戸時代にはそれが全国的に広まったとのことです。

 

この雑煮ですが、地方や家庭によって、具はもちろんのこと汁の味付けや餅の形状も異なります。つまり定番の雑煮というものはないということになります。それぞれの家庭で作った料理を後から餅と合わせて汁に入れたものを雑煮と呼ぶようにしたのではないでしょうか。

 

江戸時代の雑煮について、『守貞謾稿』〔著者:喜田川守貞(北川庄兵衛)、天保8年(1837年)から約30年かけて執筆した類書(百科事典)、全35巻(前集30巻、後集5巻)〕によれば、「大坂の雑煮は味噌仕立てで、丸餅を焼いていれ、具には小芋、焼き豆腐、大根、干し鮑を入れる」とあり、江戸は「切り餅を焼き、小松菜を入れただけで、あとは鰹節から取った醤油味の汁のみ」と書いてあります。もちろん家庭によってかなり異なりますので、一概にこれが大坂と江戸の定番だったとは言えませんが、総じて江戸の雑煮はシンプルだったのかもしれません。

天保年間(18301844年)に書かれた江戸城の賄方記録(まかないかたきろく)によれば、三が日の雑煮は「餅、焼き豆腐、里芋、青菜、花鰹」とあるので、武家では比較的具沢山の雑煮だったのかも知れません。

 

また、雑煮に蛋白源を入れる場合もあります。西日本では塩鰤を、東日本では塩鮭を入れるところもあったようですが、江戸では正月恒例の雑煮として、何とウサギの肉を入れる場合もあったとのことです。特に江戸城では、正月三が日に登城した幕僚や大名に「御喰摘み(おくいつみ)」として、熨斗鮑(のしあわび)、搗栗(かちぐり)、昆布の三種と、ウサギの吸い物が将軍より下されました。獣肉を食べない将軍家でも、このウサギは特別だったようで、徳川家康が三河時代に献上されたウサギを家臣に振る舞ったことに因む伝統行事だったとのことです。ウサギの数え方が「一羽二羽」となっているのは、無理やりウサギ肉を鳥類の肉と見做したかったのではないかと思われます。

 

高見澤

 

おはようございます。米国大統領選は、結果的にトランプ氏の勝利となりました。数々の発言の失態や女性問題で世間を賑わせたトランプ氏ですが、今後どのような方針を示すのか、注目されるところです。世界が益々混沌としてきて、本当に先に読めない時代になったわけですが、宇宙の大きな流れの中で、今のこの時空間がどう位置づけられるのか、興味のあるところです。

 

さて、今日は「水菓子」についてご紹介致しましょう。

そもそも「菓子」とはどういったものだったのかというと、食事以外に食べる嗜好品を指していました。古代では果物やその加工品が多く食べられていたため、果物の「果」に草冠をつけた「菓」と、木の実の種を意味する「子」を合わせて「菓子」という言葉ができました。つまり最初の菓子というのは、果物やナッツ類を指していたことが分かります。

 

それが、江戸時代に今でいうところの米や小麦粉を使った菓子の原型が出来上がり、次第に果物が菓子の仲間から外されるようになりました。そこで、普通の菓子とは区別する意味で果物が「水菓子」として扱われるようになりました。老舗の料理屋でコース料理の最後に「水菓子」としてフルーツが出されることがありますが、これは江戸時代からの名残であることが分かります。

 

ところが、現在この「水菓子」というと、「水羊羹」や「水饅頭」など夏に冷やして食べる菓子、あるいは「かき氷」や「アイスキャンディー」のような氷を利用したデザートをイメージすることが一般的かと思います。時代とともに、言葉の意味が大きく変化していくのも興味のあるところです。これは日本語と中国語の間でも、同じ漢字で意味が大きく異なってしまい、誤解が生じることがよくあります。「手紙」は中国語では「トイレットペーパー」の意味ですから、ご注意ください。

 

話を元に戻しますが、徳川家康は真桑瓜(マクワウリ)がことのほか大好物だったようで、この名前も家康が名づけ親になったと言われています。このため、以来江戸幕府はこの真桑瓜を大切に扱い、夏場の将軍の膳はもちろんのこと、行事ごとに大名や幕臣にも振る舞われる膳にも当たり前のように出されていたとのことです。これが、江戸後期に普及した料理茶屋でも同じように会席料理の最後に出されるようになりました。

 

真桑瓜は果物の中でも特に水分が多いため、当時の人たちは水代わり食べていたようです。もちろん江戸時代にも同じように水分豊富なスイカはありましたが、日本に入ってきたのは江戸時代初めで、しかも切り口が人間の首の傷口のように見えたので、あまり好まれてはいなかったようです。桃や梨、葡萄なども江戸時代には既にありましたが、生産量は少なく、また生産地も遠かったことから輸送ができず、江戸ではあまり普及しませんでした。ということで、水分が多いことから真桑瓜、すなわちメロンを代表とする果物が「水菓子」と呼ばれる所以となったそうです。

 

高見澤

 

 

懐石料理の伝統として、食事の最後にフルーツが出されるようになったのは江戸時代に始まったとのことです。

 

 

おはようございます。今日は米国大統領選挙の結果が判明するとして、世界中が注目しているところですが、世界を動かしているごく一部の人たちからすれば、結果は既に分かっているといわれています。というか、世界がそのように誘導されているといってもいいかもしれません。気付きのある一部の人たちからすれば、とんだ茶番劇に付き合わされている思いかもしれませんが、この世界はそのようなものであり、この広い宇宙から見れば、極めて特殊な閉ざされた空間の中に存在させられているといえるでしょう。その中で、江戸の世界はこの地球において宇宙に通ずる唯一の時空間だと思います。なぜかって? だって江戸こそこの地球で最も理想的な社会を実現した世界であるからです。

 

さて、今日も江戸のお菓子について、引き続きご紹介していきたいと思います。

享保年間(17161736年)、江戸向島の長命寺で寺男をしていた(山本)新六という人がいました。新六の仕事は境内の掃除、当時の長命寺は境内が広く、大きな桜の木があったため、秋の落ち葉掃きは大変な重労働であったようでした。新六は毎日この落ち葉を見ながら、これが小判に化けないかなぁ、と狸のようなことを考えていました。そしてある日、この落ち葉になる前の新緑の美しいときに葉を摘み取って塩漬けにしておけば、1年中その葉が使え、菓子作りに仕えるのではないかと、思いつきました。享保2年(1717年)、新六は門前でその葉を使った菓子を売り出します。これが現代にも受け継がれている向島長命寺門前(現在は裏門)にある「山本や」の「桜餅」の由来です。

 

この桜餅ですが、今は小麦粉を溶いて薄くクレープ状に焼いた皮で漉し餡を巻き、それを塩漬けにした桜の葉を2~3枚で包んでいますが、当時は柏餅のような餅状だったようです。包む桜の葉はオオシマザクラの葉で、香がよいことで知られています。新六が餅を作り始めた頃にはまだソメイヨシノという品種はなく、江戸の桜といえはオオシマザクラでした。

 

ちょうどその頃、8代将軍徳川吉宗が向島の土手に桜並木を植えさせたことで、向島が一気に桜の名所となり、春には多くの花見客がやってくるようになっていました。それでこの桜餅が知られるようになったのですが、残念なことに花見シーズン以外には桜餅が売れません。そこで、更なる次の一手が生まれます。

 

文化2年(1805年)、同じ向島に「百花園」という庭園形式の植物園ができました。そこの主人であった佐原鞠塢(さはらきぐう)が「向島七福神めぐり」という観光ルートを開発します。多門寺、白髭神社、百花園、弘福寺、三囲神社、長命寺を結ぶルートです。しかも、正月明けの寒くて参拝客の来たがらない時期にあえて御開帳をしたため、向島は1年中行楽客の来る観光地となり、この「桜餅(長命寺餅)」が江戸有数の名物菓子となりました。

 

一方、関西以西では「道明寺粉」を用いた「道明寺」という桜餅があります。これは京との茶店や和菓子屋でみられる京風の桜餅です。道明寺粉は、蒸して干したもち米を粗めに挽いた保存性のある食品で、大阪府藤井寺市にこの道明寺粉の由来となった「道明寺」という名の寺があります。道明寺粉は千年以上も前にこの寺が考案した「道明寺糒(ほしい)」が元になっており、桜餅の「道明寺」はこの寺の僧が保存食として作ったと言われています。

 

高見澤

 

東藝術倶楽部会員各位

 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、靖国神社近くのイチョウの木はまだ緑色なのに、風の冷たさは冬を思わせるほどです。ちなみに昨日は二十四節気のうちの立冬、暦の上では冬です。いずれまた、江戸の季節や時間についてもご紹介していきたい分野です。

 

さて、本日はお菓子の中でも定番の「煎餅(せんべい)」についてご紹介しましょう。

一般的に煎餅といえば、我々は米を原料に醤油や塩で味付けして焼いたお菓子をイメージしますが、中国で「煎餅(JianBing)」といえば、小麦粉を水や卵で溶いて油を引いた鉄板の上に薄く広げて焼き、その上にネギやパクチー(香菜)等の野菜を載せて、味噌だれなどで味付けした後に、丸めて食べる軽食のことで、お好み焼きに近いものです。実は、日本の関西でも煎餅は小麦粉を使って薄く焼いた甘いお菓子を指すそうで、我々のいう煎餅に相当するものは「おかき」、その小粒のものは「あられ」と呼び、関東とは認識が大分異なっているようです。

 

そもそも江戸の食べ物の多くは、京・大坂からの「下りもの」であったり、あるいはその製法を知る職人たちが江戸に移り住んで作り始めたものがほとんどでした。お菓子も京から多くの職人が来ており、その中にも「煎餅職人」がいたことは間違いありません。江戸時代当時の煎餅作りの基本は、小麦粉を糖蜜でこねた後、一度蒸篭で蒸し、薄く延ばして型で抜き、それを天日干しにして、一枚ずつ鉄の焼き型に入れて焼くという、手間のかかるものでした。中には焼き型に入れずに鉄箸で挟んで焼くことで煎餅を膨らませたり、熱いうちに端を丸めて成形したり、型に模様を彫り込んだりと、いろいろなバリエーションがあったようです。

 

江戸にこうした製法が伝わると、煎餅の名店が登場します。有名処では、元禄(16881704年)時代に北八丁堀の藤屋清左衛門の名物「朝顔煎餅」がありました。これらは「塩煎餅」といわれていましたが、あくまでも小麦粉の塩煎餅で、岩手名物の「南部煎餅」のようなものです。

 

今の形の煎餅ですが、日光街道の2番目の宿場町であった草加宿(埼玉県草加市)で団小屋を営んでいた「おせん」という老婆が、ある侍に団子を平らにして焼いたらどうかといわれたのが始まりという説があります。当時、草加宿一帯の農家では、蒸した米をつぶして丸め、干したもの(堅餅)に塩をまぶして焼いて、おやつとして食べていたようです。これが旅人向けの商品として売り出され、各地に広まり、その後利根川沿岸で生産された醤油で味付けされるようになったのが、草加煎餅の原型といわれています。また、日光街道草加松原の茶屋で売られていた団子を焼き餅にして売ったのが名物になったという説もあります。

餅を使った「かき餅」とも違いますし、今の煎餅が生まれたそのルーツは分かっていないのが本当のところです。

 

高見澤

 

おはようございます。寒さが増す中、今週土曜日は東藝術倶楽部江戸勉強会「江戸日本橋編」です。冷え込むことが予想されますので、少し厚手の上着などご準備されるのがよいかと思います。また、資料がどっさりありますので、鞄などご用意頂けると便利かと。

 

さて、本日も引き続き江戸のお菓子についてご紹介致しましょう。

お菓子といっても色々な種類があります。中でも格式が一番高いのは「御用菓子」、すなわち「幕府御用達」で、それを作って幕府に納めるのが「御用菓子屋」です。以前、高輪泉岳寺勉強会で宮内庁御用達の松嶋屋の「豆大福」を堪能して頂いたことがありますが、そうしたお菓子は当然美味しいわけで、人気も高くお昼前には売り切れてしまうことが当たり前なほどで、普通は予約しておかないと買うことができません。

 

江戸時代、幕府草創期から幕末まで、この御用菓子屋の中でも最も格式が高かったのは「大久保主水(おおくぼもんと)」という店でした。菓子屋なのに屋号を名乗らないのは、この店が幕臣の流れを汲む家柄だったからだといわれています。

初代の大久保藤五郎(忠行)は家康の家臣で、江戸の神田上水の原型を設計した人です。そのため、家康から「水の主」ということで、「主水(もんと)」という名前をもらいました。「主水」は一般に「もんど」と濁って発音しますが、水が濁るのはよくないということで、大久保主水だけは「もんと」と名乗ることにしたそうです。

 

この大久保家は家康が浜松にいた頃から、折にふれて家康に菓子を献上し、初代主水が亡くなった後も妻が、そして子孫も菓子を作り続け、幕臣でありながら、本業が菓子屋になっていったというわけです。初代主水が作った餅は「駿河餅」、「三河餅」と呼ばれ、この餅を含めた菓子は家康の嗜好に合っていたようです。また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される菓子を口にしなったようですが、初代主水の献上するものは食べたといわれています。大久保家は菓子作り以外にも幕府が扱う砂糖の管理も委託されており、そこから上がる利益が膨大であったともいわれています。

 

元禄年間(16881704年)以降、江戸城の菓子に対する需要が増え、他の菓子やも御用に参加することとなり、大久保家の独占が崩れます。江戸時代の御用菓子屋といえば、「虎屋三左衛門」、「桔梗屋河内」、「鯉屋山城」、「宇津宮内匠」、「金澤丹後」などがあります。もちろん、これらの店は一般にも売っていましたので、将軍家御用達の菓子ということで人気も高く、主に格式の高い贈答用に、時に賄賂としても使われていました。

最も値段が高かったのは、「鈴木越後」という菓子屋で、この店は京の朝廷から使者が江戸に来たときに、接待として使われる菓子を納める京菓子屋でした。羊羹一竿(折)が何と一両(10万円)もしたというのですから驚きです。

 

これらの菓子屋も徳川幕府解体以後はお得意様を次々に失うこととなり、いずれも閉店に追い込まれ、現代には続いていません。ちなみに現在ある「虎屋」は明治に入ってから京都から移ってきた店(創業は室町時代)で、幕府御用達の虎屋三左衛門とは関係ありません。

 

ところで、中国でも数年前に1万元(15万円)を超える「月餅」が出回って、役人への賄賂に使われたこともありました。ここ最近は習近平国家主席の方針の下、「八項規定」と呼ばれる贅沢禁止令が出されて以降、そうした過度の贈答行為は徹底的に摘発されてほとんどなくなりましたが、こうした習慣は時・処変わらずなのでしょうか。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も少し冷えましたが、北海道では既に雪が積もっているところもあるとのこと。季節外れというよりも、異常気象は一方で温暖化する一方、寒冷化する部分もあるようにも思えます。単なる温暖化効果ガスによるものと断定せず、もっと本当の意味での科学的見地からの検証が必要ではないでしょうか。そうしないと、頓珍漢な対策で効果がないどころか、逆の作用を起こさせてしまう可能性もあるからです。

 

さて、今日も江戸の「お菓子」について続きをご紹介しましょう。前回は菓子作りに欠かせない砂糖でしたが、江戸ではこの砂糖の普及によって爆発的にお菓子作りが盛んになります。とはいえ、江戸独自のお菓子が江戸時代後期になっても広まっていなかったという事実があります。

 

文政7年(1824年)に出版された『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』という今でいうガイドブックがありますが、それには70項目近い業種のグルメ、お土産情報が掲載されており、もちろんお土産の定番であるお菓子も120軒の店が紹介されています。この120軒のうち、2割近くが京菓子を謳い、同じく2割が御所や寺社の御用を表示して京菓子を連想させています。

 

また、幕末に紀州(和歌山県)から江戸に出てきた医師の原田何某(名前不明)が書いた『江戸自慢』という見聞録によると、「菓子は上方には及ばない、看板、暖簾などに、京菓子と書いているのを見ても推測できる」と批評しています。さらに、「饅頭はことのほか下手で、皮の厚いこと娼婦の下腹、芸妓の頬のようだ」ともいっています。何となく説得感のある表現で笑ってしまうのですが、そんなに酷かったのでしょうか? しかし、その一方で、「餅は高級品ではなくともおいしいし、おてつ牡丹餅、永代団子、いま坂餅などはきれいで風流だ」とほめているものもあります。

 

「おてつ牡丹餅」は、麹町(千代田区)にあった店の商品で、胡麻、餡、黄粉の三色の餅があり、「おてつ」という美人の看板娘がいたことから、とても繁盛したといわれており、「助惣とおてつ、近所でうまい仲」という川柳まで残っています。「永代団子」は隅田川に架かる永代橋の西詰(日本橋側)にあった「佐原屋」という店の商品で、「いま坂餅」は鶏卵をつぶしたような楕円形の餅で、白餡の赤餅と漉し餡の白餅があり、特に色のきれいな赤餅が子供に大変人気があったようです。

今でもあれば食べてみたいところですが、ネットで検索してみてもこれらのお菓子そのものは存在していないようです。「いま坂餅入りどら焼き」というお菓子がヒットしましたが、はてさて「いま坂餅」と関係あるのでしょうか?

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、大分肌寒くなってきました。季節の変わり目、体調の管理にはご注意ください。

 

さて、今日からしばらくは江戸のお菓子についてご紹介したいと思います。今月の勉強会でもお菓子の話題が出ますので、少し予習を兼ねてお話しさせて頂きます。

 

先ずお菓子を作るにあたって欠かせないのが砂糖です。調味料として、江戸時代に爆発的に広がったことは、以前ご紹介した通りです。

日本ではすでに奈良時代に現在のお菓子の原型があったとされており、これらは中国の唐菓子を真似たものであったようです。その甘味として主に使われていたのが「甘葛煎(あまづらせん)」です。これは、冬に葉を落としたツタの蔓を切り、その切り口から出た樹液を煮詰めた糖度70%程度のシロップのことです。他にも蜂蜜や麦芽から作った飴もありましたが、こうした甘味料は採取や製造過程が面倒なのでそう多くは作られず、貴重なものでした。その中でも甘葛煎が最も一般的な甘味料であったことは間違いなく、税としての対象ともなっていました。とはいえ、食べられたのは一部の上層階級だけで、庶民はもっぱら果物から糖分を補給していました。

 

戦国時代末期、南蛮貿易で東南アジアで製造した砂糖が日本にもたらされると状況は一変します。当初はポルトガル商人でしたが、江戸時代には中国、台湾から大量の砂糖が輸入されることになりました。当時、砂糖が最大の輸入品目だったとも言われています。この支払に使われていたのが金や銀だったのですが、当時の日本ではそれに見合うだけの金銀が産出されていました。

 

それまで貿易にあまり干渉していなかった幕府も事態の急変に驚き、寛文12年(1672年)から貿易品のすべてを統制化して値段や数量を幕府が決めることにしました。江戸中期には300万斤(1,800トン)の砂糖が輸入されていました。

砂糖需要の増加に、日本でもサトウキビの栽培が始まり、享保11年(1726年)に白砂糖の製法を中国から教えてもらうことができました。これにより、8代将軍徳川吉宗が大号令をかけて、西日本を中心に砂糖の生産が始まります。

 

天保8年(1837)年、国内での砂糖の生産の増加が原因で輸入する砂糖の値段が大暴落しました。砂糖輸入を統制することで利益を得ていた幕府にとっては大変なことになり、国内生産を1,197斤(7,182トン)に制限しました。これにより、国産と輸入を合わせた日本人一人当たりの砂糖の消費量は年間500グラムまで増え、国内生産前の10倍以上になりました。

 

当初は薬屋で売られていた砂糖も調味料として独立し、砂糖販売専門の店も登場するようになります。こうして菓子作りに必要な砂糖が江戸時代後期には自由に使えるようになり、甘いお菓子が庶民の欠かせない文化となり、江戸各地で名物菓子が続々と誕生することになります。まさに江戸のお菓子革命が起きたのです。

 

高見澤

 

おはようございます。今日から11月、今朝の東京は雨が降っています。

 

昨日の肉食に関連し、今日は「牛乳」についてお話ししたいと思います。

日本では、『日本書紀』に「牛酒」という記述があるなど、奈良時代には一部の階層で乳製品が食べられていたようです。しかし、天武天皇4年(675年)以降、度重なる肉食禁止令(屠殺禁止令)が出され、仏教の普及とともに次第に乳製品を食べる習慣は薄れていきました。牛乳を飲むと牛になるという迷信を聞きつけた少年時代の織田信長が、実際に牛になるかどうかを試すために牛乳を飲んだという逸話もあるくらい、一般的には飲まれていなかったようです。

 

それが、江戸時代中期、8代将軍吉宗の時代に牛乳の生産が復活します。吉宗は軍事力強化のために西洋品種の馬を輸入しました。当時の日本の馬が小型で足が遅かったのに対し、サラブレッドやアラブ種は大型で足が速かったからです。その馬の治療に必要だったのが牛乳やバターでした。そこで吉宗は享保12年(1727年)にオランダに依頼してインド産の乳牛を3頭輸入しました。その牛は安房国(千葉県)にある幕府の御用牧場である嶺岡牧場で飼育されることになりました。

 

寛政4年(1792年)には70頭まで増えたため、11代将軍家斉はこれらの牛から搾った牛乳を利用するため、医師の桃井桃庵(ももいとうあん)に『白牛酪考(はくぎゅうらくこう)』という本を書かせ、そこに牛乳を煮詰めてつくる「白牛酪」の効能を記しました。それによると、腎虚(じんきょ)、労咳(ろうがい)、産後の虚弱、大便の閉塞、老衰などからくるさまざまな症状に効果があるとのことです。

そのためかどうかは分かりませんが、家斉は将軍在職51年、側室40人、生まれた子供55人という記録を残しています。

 

とはいえ、一般には普及しておらず、江戸開港後に来日(安政3年:1856年)した米国領事のタウンゼント・ハリスが牛乳を手に入れようとしましたが、その値段が1升(1.8リットル)1両3分8文(約14万円)もしたというのですから、高価な薬といった感じだったのでしょうか。それが文久3年(1863年)には横浜で本格的な牛乳販売が始まり、他の乳製品も作られるようになりました。

 

高見澤

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