おはようございます。今朝の東京は曇り、大分肌寒くなってきました。季節の変わり目、体調の管理にはご注意ください。
さて、今日からしばらくは江戸のお菓子についてご紹介したいと思います。今月の勉強会でもお菓子の話題が出ますので、少し予習を兼ねてお話しさせて頂きます。
先ずお菓子を作るにあたって欠かせないのが砂糖です。調味料として、江戸時代に爆発的に広がったことは、以前ご紹介した通りです。
日本ではすでに奈良時代に現在のお菓子の原型があったとされており、これらは中国の唐菓子を真似たものであったようです。その甘味として主に使われていたのが「甘葛煎(あまづらせん)」です。これは、冬に葉を落としたツタの蔓を切り、その切り口から出た樹液を煮詰めた糖度70%程度のシロップのことです。他にも蜂蜜や麦芽から作った飴もありましたが、こうした甘味料は採取や製造過程が面倒なのでそう多くは作られず、貴重なものでした。その中でも甘葛煎が最も一般的な甘味料であったことは間違いなく、税としての対象ともなっていました。とはいえ、食べられたのは一部の上層階級だけで、庶民はもっぱら果物から糖分を補給していました。
戦国時代末期、南蛮貿易で東南アジアで製造した砂糖が日本にもたらされると状況は一変します。当初はポルトガル商人でしたが、江戸時代には中国、台湾から大量の砂糖が輸入されることになりました。当時、砂糖が最大の輸入品目だったとも言われています。この支払に使われていたのが金や銀だったのですが、当時の日本ではそれに見合うだけの金銀が産出されていました。
それまで貿易にあまり干渉していなかった幕府も事態の急変に驚き、寛文12年(1672年)から貿易品のすべてを統制化して値段や数量を幕府が決めることにしました。江戸中期には300万斤(1,800トン)の砂糖が輸入されていました。
砂糖需要の増加に、日本でもサトウキビの栽培が始まり、享保11年(1726年)に白砂糖の製法を中国から教えてもらうことができました。これにより、8代将軍徳川吉宗が大号令をかけて、西日本を中心に砂糖の生産が始まります。
天保8年(1837)年、国内での砂糖の生産の増加が原因で輸入する砂糖の値段が大暴落しました。砂糖輸入を統制することで利益を得ていた幕府にとっては大変なことになり、国内生産を1,197斤(7,182トン)に制限しました。これにより、国産と輸入を合わせた日本人一人当たりの砂糖の消費量は年間500グラムまで増え、国内生産前の10倍以上になりました。
当初は薬屋で売られていた砂糖も調味料として独立し、砂糖販売専門の店も登場するようになります。こうして菓子作りに必要な砂糖が江戸時代後期には自由に使えるようになり、甘いお菓子が庶民の欠かせない文化となり、江戸各地で名物菓子が続々と誕生することになります。まさに江戸のお菓子革命が起きたのです。
高見澤