東藝術倶楽部瓦版 20161107 :羊羹一竿なんと 10 万円!ー将軍家御用菓子

 

おはようございます。寒さが増す中、今週土曜日は東藝術倶楽部江戸勉強会「江戸日本橋編」です。冷え込むことが予想されますので、少し厚手の上着などご準備されるのがよいかと思います。また、資料がどっさりありますので、鞄などご用意頂けると便利かと。

 

さて、本日も引き続き江戸のお菓子についてご紹介致しましょう。

お菓子といっても色々な種類があります。中でも格式が一番高いのは「御用菓子」、すなわち「幕府御用達」で、それを作って幕府に納めるのが「御用菓子屋」です。以前、高輪泉岳寺勉強会で宮内庁御用達の松嶋屋の「豆大福」を堪能して頂いたことがありますが、そうしたお菓子は当然美味しいわけで、人気も高くお昼前には売り切れてしまうことが当たり前なほどで、普通は予約しておかないと買うことができません。

 

江戸時代、幕府草創期から幕末まで、この御用菓子屋の中でも最も格式が高かったのは「大久保主水(おおくぼもんと)」という店でした。菓子屋なのに屋号を名乗らないのは、この店が幕臣の流れを汲む家柄だったからだといわれています。

初代の大久保藤五郎(忠行)は家康の家臣で、江戸の神田上水の原型を設計した人です。そのため、家康から「水の主」ということで、「主水(もんと)」という名前をもらいました。「主水」は一般に「もんど」と濁って発音しますが、水が濁るのはよくないということで、大久保主水だけは「もんと」と名乗ることにしたそうです。

 

この大久保家は家康が浜松にいた頃から、折にふれて家康に菓子を献上し、初代主水が亡くなった後も妻が、そして子孫も菓子を作り続け、幕臣でありながら、本業が菓子屋になっていったというわけです。初代主水が作った餅は「駿河餅」、「三河餅」と呼ばれ、この餅を含めた菓子は家康の嗜好に合っていたようです。また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される菓子を口にしなったようですが、初代主水の献上するものは食べたといわれています。大久保家は菓子作り以外にも幕府が扱う砂糖の管理も委託されており、そこから上がる利益が膨大であったともいわれています。

 

元禄年間(16881704年)以降、江戸城の菓子に対する需要が増え、他の菓子やも御用に参加することとなり、大久保家の独占が崩れます。江戸時代の御用菓子屋といえば、「虎屋三左衛門」、「桔梗屋河内」、「鯉屋山城」、「宇津宮内匠」、「金澤丹後」などがあります。もちろん、これらの店は一般にも売っていましたので、将軍家御用達の菓子ということで人気も高く、主に格式の高い贈答用に、時に賄賂としても使われていました。

最も値段が高かったのは、「鈴木越後」という菓子屋で、この店は京の朝廷から使者が江戸に来たときに、接待として使われる菓子を納める京菓子屋でした。羊羹一竿(折)が何と一両(10万円)もしたというのですから驚きです。

 

これらの菓子屋も徳川幕府解体以後はお得意様を次々に失うこととなり、いずれも閉店に追い込まれ、現代には続いていません。ちなみに現在ある「虎屋」は明治に入ってから京都から移ってきた店(創業は室町時代)で、幕府御用達の虎屋三左衛門とは関係ありません。

 

ところで、中国でも数年前に1万元(15万円)を超える「月餅」が出回って、役人への賄賂に使われたこともありました。ここ最近は習近平国家主席の方針の下、「八項規定」と呼ばれる贅沢禁止令が出されて以降、そうした過度の贈答行為は徹底的に摘発されてほとんどなくなりましたが、こうした習慣は時・処変わらずなのでしょうか。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2016年11月 7日 10:50に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20161104 :助惣とおてつ、近所でうまい仲ーお菓子発展途上都市・江戸で評判のお菓子といえば」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20161108 :煎餅は煎餅にあらず !? ー誰か教えて !! 煎餅のルーツ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ