東藝術倶楽部瓦版 20161117 :卵料理も江戸時代から!

 

おはようございます。今朝の東京は少し冷えましたが、天気は良好、比較的清々しい朝を迎えています。

 

さて、本日の話題は「卵」です。これもまた春の花見弁当に欠かせない食材で、今では手軽に口にできる食材ですが、日本では何時頃から鶏卵を食べるようになったのでしょうか?

 

調べてみると意外と面白く、これもまた江戸時代に入ってから多くの日本人が食べるようになったようです。もちろんそれまでにも食べる人はいましたが、鶏を飼う主な目的は闘鶏で、鶏肉や卵を食べるためではなかったようです。ですから、一般に市場には出回ることはなく、料理にもほとんど使われることはありませんでした。

 

一方、西洋では卵をふんだんに使ったカステラやボーロといったお菓子が食べられていました。それが戦国時代後期から、ポルトガル人をはじめとする西洋人よって日本に伝えられるようになり、日本人の間にも卵の美味しさが知られるようになります。それ以降、卵を生産する目的で鶏を飼う農家が増え、卵は普及していきます。

 

江戸初期の寛永20年(1643年)に刊行された日本初の一般向け料理書『料理物語』には、「卵酒(玉子酒)」についての記載があり、先ず器に卵を割り、冷酒を少しずつ入れてかき混ぜ、塩を少々加えて燗をするという方法が説明されています。

また、江戸中期の天明5年(1785年)に出版された『万宝料理秘密箱』には、通称「玉子は百珍」と呼ばれる「卵之部」があり、何と103種類もの卵の調理法が紹介されています。各種卵焼き、錦糸卵、卵豆腐といった今でも定番の卵料理から、卵蕎麦、冷し卵羊羹など変わったものまであります。

これまでにも何度か紹介した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』にも、江戸で人気の寿司ネタとして「玉子巻き」が紹介されています。屋台の寿司が1つ8文(160円)の中で、玉子巻きだけが倍の16文だったということですから、当時は卵が高級食材であったこと分かります。卵の黄身で溶いた衣で揚げた天ぷらは「金ぷら」と称されて、贅沢グルメとして持て囃されていたとのことです。また、親子丼や茶碗蒸しなど多様な卵料理が生まれたのもこの頃です。

 

幕末になると、「ゆで玉子」の行商が登場します。その値段は1個20文(400円)だったというのですから、庶民でも滋養をつけたい時には食べることができたようです。それから日本人が好きな「生卵かけ御飯」ですが、これは明治以降に食べるようになったとのことです。

 

高見澤

 

今回の江戸日本橋勉強会で紹介したかった名所の一つに親子丼発祥の地がありました。残念ながら今回は時間の関係で実際に味わうことはできませんでしたが、平日の昼時には長い行列ができるほどの人気店だとか。

 

【親子丼の「玉ひで」】

宝暦 10年(1760年)、初代山田鐡右衛門が妻のたまと一緒に御鷹匠仕事の店「玉鐡」を江戸日本橋和泉町(現在の人形町三丁目)に開店。その後、軍鶏料理専門店になる。

明治20年(1887年)頃、客が軍鶏鍋鳥鍋(鳥寿喜)の〆に卵でとじてご飯と一緒に食べる「親子煮」が食べられていたのを見て、明治24年(1891年)に5代目店主秀吉の妻山田とくが、食べやすいようにご飯にかけて「親子丼」を一品料理として提供するようになった。「玉鐡」が「玉ひで」となったのはこの頃。

当初「汁かけ飯」は店の格が落ちるとして、昭和54年(1979年)まで店内では提供せず、出前のみで対応していた。この親子丼は旧魚河岸の人たちには人気があったという。

現在の店主は8代目山田耕之亮。

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2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年11月17日 08:35に書いたブログ記事です。

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