2016年12月アーカイブ

 

おはようございます。今年も残すところあとわずか、新年を迎える準備は如何でしょうか? 私はと言えば、仕事に追われ年末年始を迎える気分にもなれません。まだ年賀状も書ける状況ではなく、年初締め切りの原稿を抱え机の上は大混乱状態です。おまけに1月3日からマイナス30℃の極寒の地、ハルビンに出張で、帰国は1月8日に大連から戻ってきます。

 

さて、今回は前回の「二十四節気」に続き、「七十二候」についてご紹介したいと思います。この七十二候は二十四節気を三等分にしたものです。二十四節気が半月ごとに分かれているので、七十二候は約5日ごとに変わることになります。たとえば、正月節(立春)を初候、次候、末候と分けて、それぞれ「東風解凍(とうふうにこおりをとく)」、「蟄虫始振(ちゅっちゅうはじめてふるう)」、「魚上氷(うおこおりをのぼる)」といったように、自然現象や動植物の動きなど季節の変化を知らせる短文になっています。俳句の季語にも、この七十二候によるものが一部残っています。

 

元は中国で考案されたものですから、当然日本では中国の中原地方とは異なった季節感になりますから、江戸時代に渋川春海が中国の七十二候に修正を加えて「本朝七十二候」を作成しました。ただ、そのネーミングは漢語を使ったために江戸の人たちには馴染難く、実用化されることはありませんでした。現在では明治7年(1874年)の「略本暦」に掲載された七十二候が使われています。

 

この七十二候は季節を知る上では大変便利なのですが、確かに約5日ごとに変わるというのは覚えるのも面倒になります。前回の二十四節気を本メルマガで書き出すのも大変だったので、ここで七十二候をいちいち書き出すことはしません。

ですから、七十二候が日本の暦として定着するとは考えられませんが、それでも二十四節気ぐらいは日本人として頭の片隅にでも置いておかれては如何でしょう。特に、これから農作業をするようなことになると、二十四節気どころか、七十二候も大切な暦となるでしょう。最近出版された五井野正博士の『一念三千論で解く宇宙生命の秘密』にもあるように、近々そんな日が来るかもしれません。

 

本日は今年最後の瓦版、来年は1月10日以降より瓦版を開始したいと思います。

皆さん、良いお年をお迎えください。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日から大分暖かさを感じる東京です。これも地球温暖化の影響でしょうか? といっても、二酸化炭素の排出が原因だと言う政府筋の話は信じられませんが...

 

さて、昨日は二十四節気のうちの一つ「冬至」で、1年間で太陽が出ている時間が最も短くなる日でした。本日は、この二十四節気についてご紹介してみたいと思います。

 

前回は太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦の3つの暦法についてお話ししました。現在使われているグレゴリオ暦は太陽暦であることも前回ご紹介した通りですが、原則4年に1度の閏年は1年の日数が1日増える(「閏日」)だけなので、季節感など生活に与える影響はほとんどありません。ところが江戸時代以前に使われていた太陰太陽暦では「閏月」が挿入されるため、暦の日付と季節とのずれが大きく生じることになります。

そこで暦とは別に考案されたのが「二十四節気」だったのです。この二十四節気は、紀元前4世紀頃の中国、戦国時代に形作られたと言われていますが、それ以前の殷(商)の頃にはその原型がすでにあったようで、天文学的あるいは気象学的には昔からかなり高度に発達していたのではないかと思います。

 

二十四節気は、天球を一周する太陽の黄道を、冬至を起点として24等分するもので、それぞれの時点にはそれぞれ季節感を表す名称が付けられています。つまり、これは月齢によって決まる暦とは関係なく、太陽観測によって導き出される季節そのものであり、ある意味太陽暦ともいえるかもしれません。

 

太陰太陽暦における暦月(朔日から晦日)の名称は二十四節気を基準に定められます。暦では正月から3月までを春、4月から6月までを夏、7月から9月までを秋、10月から12月までを冬としています。この暦月による1カ月の区切りを「月切り」と言います。

 

一方、黄道を24等分する節気は、それぞれの時点は15度の間隔が空いていることになります。これが「太陽黄経」です。この太陽黄経が30の倍数であるものを「中(または「中気」)、それ以外のものを「節(または「正節」、「節気」)」と言います。節気から次の節気の前日までの間を1カ月とするのが「節切り」、その月を「節月」と言います。節月では、正月節から2月節までが正月、2月節から3月節までが2月、3月節から4月節までが3月というようになり、正月節から4月節までが春、4月節から7月節までが夏、7月節から10月節までが秋、10月節から正月節までが冬というように定められました。正月節は立春、4月節は立夏、7月節は立秋、10月節が立冬となります。

 

暦月の月名は、その月が含む中気によって決められます。太陰太陽暦と二十四節気の間には、1年間で11日のズレが生じるので、概ね3年に1ど、中気が本来割り当てられるはずの暦月に含まれない月が生じます。これが「閏月」として1年に挿入され、13カ月となる1年が生じることになります。

また、正月中気である「雨水」が正月15日以前にきたとき、立春はその15日前であることから、立春が前年になることがあります。これを「年内立春」と言います。

 

暦と季節が一体となっている現在のグレゴリオ暦と比べると不便さを感じますが、江戸時代以前の人たちからすれば、暦と季節が合致していないが当たり前のことだったので、それはそれとして不便を感じてはいなかったようです。ということは、逆に現代人の頭が便利になることによって退化したのではないかとも思えるのですが...やはり、便利さにばかり目を向ける現代人の思考にも問題があるように思います。

 

冬至:11月中気(太陽黄経270度)

小寒:12月節気(285度)

大寒:12月中気(300度)

立春:正月節気(315度)

雨水:正月中気(330度)

啓蟄:2月節気(345度)

春分:2月中気(0度、360度)

清明:3月節気(15度)

穀雨:3月中気(30度)

立夏:4月節気(45度)

小満:4月中気(60度)

芒種:5月節気(75度)

夏至:5月中気(90度)

小暑:6月節気(105度)

大暑:6月中気(120度)

立秋:7月節気(135度)

処暑:7月中気(150度)

白露:8月節気(165度)

秋分:8月中気(180度)

寒露:9月節気(195度)

霜降:9月中気(210度)

立冬:10月節気(225度)

小雪:10月中気(240度)

大雪:11月節気(255度)

 

上に記載した二十四節気は、これを考案した中国の中原地域の季節が基になっています。ですから、立春といっても日本では春にはまだ程遠い感じがあります。よく「暦の上での春」などと言いますが、実際には「言葉の上での春」と言うのが正しい表現ではないでしょうか。

 

高見澤

 

 

 

 

 

おはようございます。師走も既に下旬に入り、今年も残すところあと10日となりました。4月に中国北京から帰任して8カ月が過ぎましたが、そんな時間の経過も実感できていません。改めて時間の流れというものの不可思議さを感じているところです。

 

さて、本日の瓦版のテーマは、先日に続いて「江戸の暦革命」です。しばらくこのテーマでお伝えしていきたいと思いますので、ご質問やコメントなどありましたら、遠慮なくご連絡ください。

 

本日は、先日の続きで「太陰暦」、「太陽暦」、「太陰太陽暦」についてご説明したいと思います。

 

先ずは「太陰暦」です。これは「陰暦」とも呼ばれ、月の満ち欠けの周期(月が地球を公転する平均周期)、いわゆる「朔望月(さくぼうげつ)」を基本単位として1年を組み立てる暦法です。月齢がカレンダーとなる最も簡便な暦です。1朔望月は約29.530589日で、1年を12カ月とすると1年は354.367068日という計算になるので、毎年季節と11日余りずれていきます。この暦法の典型例がイスラム暦(ビジュラ暦)で、1カ月が29日の小の月と30日の大の月を概ね繰り返して1年を354日としています。1年の推移が季節とずれていきますので、農耕には不向きな暦です。

 

次は「太陽暦」です。これは太陽に対する地球の公転周期に基づく暦法で、四季の循環と暦の1年を合致させた暦です。現在、世界共通で使われているグレゴリオ暦はこの太陽暦の一つです。地球の太陽に対する公転軌道は円軌道ではなく、太陽を焦点の一つとする楕円軌道であることから、1年の起点をどこに置くかによって1年の日数に若干のずれがあります。

例えば、地球が太陽に最も近づく近日点を基準とする近点年では365.2596日、春分点を通過した太陽が再び春分点に戻るまでの時間である太陽年(回帰年)では365.2422日、宇宙のかなたにある恒星を基準とした恒星年では365.2564日となります。グレゴリオ暦の1年は365.2425日で太陽年(回帰年)に基づいて計算されていることが分かります。ですから4年に1度、閏日が入れられるわけです。

この太陽暦が成立したのはエジプトです。エジプトでは、ナイル川の増水の頃に決まって太陽とおおいぬ座のシリウスが同日に昇るという現象が見られ、それが1年の起点になることが分かっていたからだと言われています。

 

そして最後が「太陰太陽暦」です。グレゴリオ暦が採用されるまで、中国では3000年以上、日本でも1000年以上も使われていた暦法です。この暦法は1年の長さにはあまりこだわらず、太陰暦を季節推移に合わせようとした暦であると言えます。季節の推移は農耕にとってとても重要なので、中国では「農暦(nongli)」とも呼ばれます。

この太陰太陽暦の基本は太陰暦ですから、新月の日は1日、満月の日は15日となるように調整されます。これを季節推移によって繰り返される1年は朔望月の整数倍にはなっていないので、閏月を挿入して年月日を無理やり合わせます。このため、この暦法は極めて複雑なものになっています。調整すべき条件は、中国と日本とでは異なりますので、中国の暦では日本に適合しないことも生じることが出てきます。だからこそ、江戸時代に日本独自の「大和暦」が生まれたのです。

これについては、また改めてご紹介していきましょう。

 

高見澤

 

 

 

 

おはようございます。今年も残すところあと10日余りとなりました。

今年は特に忙しく、いまだに年賀状を書く時間もありません。この土日も、結局パソコンの前で原稿書きや資料作成に追われ、満足に外へも出られませんでした。このままだと、年末の大掃除もどうなることやら...

 

さて、皆さんは「天地明察」という映画をご覧になったことはありますか? 元は冲方丁(うぶかたとう)の時代小説を映画化したものですが、主演はV6の岡田准一、監督は滝田洋二郎で、江戸時代の天文暦学者・渋川春海の生涯を描いたものです。

この渋川春海は、それまで使われていた中国の「宣明暦(せんみょうれき)」に変えて、新たな日本独自の最初の暦(大和暦)である「貞享暦(じょうきょうれき)」を考案した人として知られています。

 

ここでもお分かりのように、江戸時代には新たな暦が生まれ、またそれが発展するという偉大な変革が起きたのです。まさに「江戸の暦革命」とも言える大事件です。本日からまたしばらくの間は、「江戸の暦」をテーマに色々とご紹介していきたいと思います。

 

そこで、先ずは江戸の暦革命に入る前に、少し「暦」について基礎知識を学んでおきましょう。

現在世界中で使われている暦は新暦と言われる「グレゴリオ暦」です。このグレゴリオ暦は欧州において西暦1582年に採用された暦で、改暦を断行したローマ法王グレゴリウス13世にちなんで名づけられました。それ以前は1600年もの長きにわたり、ユリウス暦が使われていました。

日本において、このグレゴリオ暦が採用されたのは明治6年(1873年)のことです。明治5年12月3日を明治6年1月1日として、それまでの「天保暦」(旧暦)からグレゴリオ暦(新暦)への切り替えが行われました。

 

このグレゴリオ暦と天保暦の一番の大きな違いはというと、グレゴリオ暦が「太陽暦」であるのに対し、天保暦をはじめとするそれまでの日本の暦は「太陰太陽暦」であるということです。

さて、この太陽暦、太陰太陽暦とはいったいどのようなものなのでしょうか。実は、このほかにも「太陰暦」という暦法もあります。これらについては、次回の瓦版でご紹介したいと思います。

 

高見澤

 

 

東藝術倶楽部会員各位

 

本日の瓦版号外その2です!

ドイツの高岡さんからの情報です!

高岡さん、貴重な情報をありがとうございました!!

 

高見澤


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東藝術倶楽部会員各位

こんばんは!

 

今日の瓦版は号外の形で遅らせていただきます。

ドイツの高岡さんから下記の情報が寄せられましたので、会員の皆さんに送付させていただきます。

ぜひご一読ください。

 

高見澤

 

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おはようございます。

先週より暫くの間、朝から仕事が立て込んでいて瓦版の発信ができず失礼しました。年末も押し迫り、ルーティンの仕事のほか、来年度に向けた事業計画策定、年始締め切りの原稿を2本抱え、更には来年早々1月3日から黒龍江省ハルビンで開催される「氷祭り(氷雪節)」の開会式に合わせて行われる「寒冷地フォーラム」でハルビン市政府から頼まれた講演など、忙しさが極致に達しています。来週も、どれだけ瓦版が発信できるか不透明なこと、ご理解頂ければと思います。

 

さて、今回は「江戸の料理革命」最後の話題として、「おでん」についてご紹介したいと思います。

これまでは冬の定番だと思っていましたが、今ではコンビニで季節を問わずおでんが売られています。このおでんですが、実は中国人にも大人気で、北京ではセブンイレブンなど日系のコンビニで日本と同じようなおでんが売られているのです。

 

今、我々が食べているおでんは、醤油ベースの煮汁の中に練り物や大根、こんにゃく、ゆで卵などの具を入れて煮ながら食べる料理を指します。しかし、このようなスタイルが生まれたのは比較的新しく江戸時代後期、それも幕末に近い頃でした。実は、それ以前のおでんというのは、「田楽」のことを指していました。

田楽と言えば、こんにゃくに味噌をつけて食べる料理を思い浮かべる人が多いかと思いますが、元々は豆腐が使われていました。豆腐を拍子木の形に切り、それに竹串を刺して焼いたものに味噌をぬって食べていましたが、その形が豊穣祈願の楽舞「田楽舞」に似ていることから、これが「豆腐田楽」と呼ばれるようになりました。この「田楽」の「田(でん)」に女房言葉の「お」をついて「おでん」と呼ばれるようになったとのことです。この田楽ですが、豆腐やこんにゃくばかりではなく、地域によっては里芋やジャガイモを田楽にして食べるところもあるようです。

 

この豆腐田楽の記録は、平安末期に奈良の春日大社の寿永2年(1183年)の社務所日記に「唐符(とうふ)」という文字があるようですが、これがどうやら「豆腐」を指しているとのことです。この時代には塩をふって食べていたようです。これが室町時代になると味噌をつけて食べるようになります。これが「豆腐田楽」です。串に刺した豆腐の形が、田楽踊りを踊るときに高足(こうそく)という一本竿の高い竹馬にのっている姿が似ていたので、こう呼ばれるようになったと言われています。

 

江戸時代に入ると社会が安定し、外食産業が発展してきたことは、これまでご紹介してきた通りです。当時、上方(京、大坂)では、こんにゃくを昆布出汁の中で温め、甘味噌をつけて食べるようになります。これが「煮込み田楽」で、焼かない田楽が登場してきます。これが今の汁で煮込む今のおでんの原型だと思われますが、汁には味がついていませんでした。

 

もちろん江戸でも豆腐田楽が売られるようになります。焼き焜炉さえあればどこでも商売ができるので、比較的早くから普及していたようです。

江戸中期になると、庶民の生活も大分安定し、各地への行楽が行われるようになります。そんなとき、最も手軽な茶店料理がこの豆腐田楽でした。各地の行楽地には田楽茶屋の名店があり、焼いた味噌の上に木の芽をのせた「木の芽田楽」、ウニを酒で溶いて塗った「ウニ田楽」、卵・油・酒・酢を混ぜたもの(マヨネーズに似たもの)を塗った「鶏卵田楽」などの名物田楽が評判を呼んでいたとのことです。

また、豆腐が基本であった田楽の種類もナス、里芋、コンニャク、魚、更には鹿や猪の肉なども田楽にしていたようです。魚を焼いて味噌をつけたものは「魚田」と言っていました。この中で特に人気があったのはコンニャクでした。串に刺したコンニャクはお湯で温めるだけで、食べる直前に砂糖を入れた甘味噌で食べるというもので、焼く手間もなく棒手振りの行商にとっては手軽だったようです。棒手振りおでん屋の場合、一串4文だったため、別名「四文屋」と呼ばれることもありました。

 

ちょうどこの頃、江戸では地回り醤油が普及して醤油料理が定番になっていきます。串刺しのコンニャクも醤油の煮汁に漬けられ売られるようになります。上方の「煮込み田楽」の応用だったのかもしれません。やがて里芋、大根なども入れるようになりました。これを売る店が「燗酒とおでん」という意味で「上燗おでん」と看板を出したため、これ以降「おでん」と言えばこの「煮込み式」のおでんになりました。

 

一方関西では、この煮込み式が逆に関東から入り込んだことから「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれています。

 

これまで長きにわたり江戸の料理革命についてご紹介してきました。現在、我々が普通に食べている日本食の多くが江戸時代に登場し、融合し、発展してきた文化であることが分かります。このような文化が庶民の間に広まるということは、それだけ庶民の基本的な生活が豊かであり、保証されていたからだと言えます。

翻って現代をみてみると、農薬や添加物など食べ物には様々な有害物質が故意に入れられていて、食という基本生活自体に根本的な問題があると言わざるを得ません。この問題を解決するには、すべて自分で作物を栽培することから始める以外にありません。

五井野正博士が始められた「ふるさと村」作りは、先ず江戸時代の精神に戻ることが大事ではないかと、改めて思う次第です。

 

次回からは、また別のテーマで瓦版をお送りしますので、お楽しみに!

 

高見澤

 

 

おはようございます。昨日から今日にかけて、ここ東京は暖かい日が続いています。今年もあと1カ月を切り、クリスマスや正月を迎えようという時期ですが、年末という雰囲気になるのももう暫くかかりそうです。

 

さて、冬の風物詩として、コタツで「ミカン(蜜柑)」というのもその一つに挙げられるかと思います。一般的に日本で栽培されているミカンは「温州ミカン」です。「温州」というのは、中国の浙江省にある地名で、今でもミカンの生産地として有名です。柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方付近が発祥の地とされており、それが様々な種に分化しながら中国や東南アジア等へ広まったとされています。柑橘が日本に伝わったのも、どうやら中国からのようで、『日本書記』に「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守(たじまもり)が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った」、「非時香菓とは今の橘である」との記述があります。この「橘」がどのような柑橘だったのかは定かではありませんが、ミカンの一種であったことは間違いありません。

 

日本でミカンとして最初に広まったのは、「温州ミカン」ではなく、「紀州ミカン」または「小ミカン」という直径5センチほどの小さなミカンです。北京駐在中もよく買って食べましたが、種がやたらと多く食べにくかったのですが、味は甘く美味しかったです。この紀州ミカンは中国浙江省から肥後国八代(熊本県八代市)に伝来し、「高田(こうだ)ミカン」として朝廷にも献上されていました。それが1516世紀に紀州有田(和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられました。

 

一方、「温州ミカン」ですが、実際の原産地は中国ではなくて日本の不知火海岸(熊本県)であるとの説が有力です。他にも鹿児島県長島という説もありますが、いずれにせよ中国から伝わった柑橘が突然変異で生まれたということで、その親はまだ分かってはいません。

 

元禄年間(16881704年)に活躍した豪商の紀伊国屋文左衛門が20代の頃、嵐が続いて紀州(和歌山県)から予定通りにミカンが運べななったときに、紀州では驚くほどミカンが大豊作だったことから余ったミカンを上方商人に買い叩かれ、ミカンの値段は大暴落しました。この時、文左衛門は借金をしてミカンを買いあさり、それを嵐の中無事に江戸に運んで大儲けしたというお話があります。当時江戸では、毎年旧暦の11月8日に鍛冶屋の神様を祝う「鞴(ふいご)祭り」が行われていました。「鞴」とは鍛冶屋や鋳物師が火を起こすときに使う道具で、職人たちが仕事場を清めた後に、鍛冶屋の屋根から表の道にミカンを撒くことが恒例行事だったのです。紀州からミカン船が来ないため、江戸ではミカンの価格が高騰し、紀州とは正反対の現象が起きていたのです。ここに目を付けたのが、文左衛門だったというのです。嵐の中ですから、船旅も命がけです。このときの様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国みかん船」とカッポレに歌われています。この時のミカンは紀州ミカンです。ただ、この話は文左衛門が生きていた時期の資料には見当たらず、幕末に刊行された小説『黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんはい)』に書かれていたもので、史実ではなかったようです。

 

とはいえ、実際に紀州ミカンが江戸に運ばれていたことは間違いなく、初めて江戸に出荷されたのは寛永11年(1634年)で、それまで江戸に入ってきていたのは駿河(静岡県)や肥後八代のものでした。紀州ミカンはそれに比べて美味しいということで人気が出ました。その後、出荷量も増えて庶民の口にも入るようになりました。紀州藩では「紀州ミカン」のブランドを守るために、取扱い商人を許可制にしました。もちろん、紀伊国屋文左衛門はこの取扱い商人に登録されていませんので、やはり先の話は作り話であったことが分かります。

 

ところでこの紀州から運ばれたミカンですが、江戸に着いた後は大型のミカン船から小船に積み替えらえて江戸橋の南岸、四日市の広小路に荷揚げされていました。先日の江戸日本橋の勉強会で見学したところの一つです。ここは別名「蜜柑河岸」と呼ばれていました。

 

冬に不足しがちなビタミンC、先日の五井野正博士の講演の中でもありましたように、サプリメントではなく、ミカンなど果物からしっかりと取りたいものです。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日は突然の朝食懇談会出席のため、瓦版をお休みさせていただきました。朝からよく晴れ、ホテルニューオータニのメイン16階からは富士山が良く見えました。江戸時代はさぞかし大きく見えたのではないかと想像しました。

 

さて、冬の風物詩として、女性に人気にがあるのが「焼き芋」ではないでしょうか。中国でも「烤白藷(Kao Baishu)」や「烤黄藷(Kao Huangshu)」などと呼ばれ、ドラム缶に石炭を入れ、その中に敷いた石の上で焼いた焼き芋を売っている光景をよく目にしました。美味しいものは国を越えて広がるものです。

 

焼き芋として食されるサツマイモですが、原産地は南米ペルーといわれています。これが中国を経て日本に伝わってきたのは安土桃山時代末期頃で、サツマイモといわれるくらいですから、先ずは沖縄から九州にかけて栽培され、それが西日本一帯へと広まりました。

 

元禄年間(16881704年)に書かれた農業指南『農業全書』には栽培方法や品種が書かれていて、かなり普及していたことが分かります。また、その頃の『心中大鑑(しんじゅうおおかがみ)』には「八里半という芋、栗に似たる風味とて四国ありとかや」と、四国に「八里半」と呼ばれる美味しい芋があると書かれています。

 

このサツマイモの栽培が江戸で広まったのは江戸時代中期です。享保19年に、「甘藷先生」といわれた儒学者・蘭学者の青木昆陽(あおきこんよう)が小石川養生所でサツマイモの試作を始め、翌享保20年(1735年)、8代将軍徳川吉宗に旱魃時の作物として甘藷(サツマイモ)の栽培を提案し、これを吉宗が奨励したことから全国に広まりました。

 

当初は旱魃時の非常食だったサツマイモですが、江戸の人たちには人気だったようで、瞬く間に普通の食べ物として普及していきます。最初は「蒸かし芋」として売られていましたが、寛政5年(1793年)に神田甚兵衛橋の際にある橋番人が「焼き芋」を売り出したところ評判になり、それ以来各所で売られるようになったというのです。

 

当時の焼き芋は「石焼き」ではなく「鍋焼き」だったようです。竃に素焼きの焙烙(ほうろく)か鋳物の浅い平鍋をかけて、その上に芋を並べ、分厚い木の蓋をして蒸し焼きにしました。小さい芋はそのまま丸ごと焼くことから「丸焼き」と呼ばれ、大きい芋はいくつかに切って焼いたので「切り焼き」と呼ばれました。丸焼きの方が食べやすく、味も良かったことから、客寄せの看板には「○焼き」と書かれていたそうです。

 

今では軽トラックの荷台に釜を乗せて売り歩く「石焼き芋屋」ですが、江戸時代は「橋番人」や「木戸番人」が副業として行っていました。橋番や木戸番は近隣の町内から出る賃金で暮らしを立てるのですが、賃金が安いために番屋で駄菓子屋、草鞋、草履、鼻紙などの雑貨を売り、生計の足しにしていたのです。その駄菓子の延長として冬に焼き芋売りを始めたというわけです。

 

江戸時代中期に、「栗(九里)」には及ばない「八里半」といわれたサツマイモも、江戸後期には、「栗(九里)」よりうまい「十三里」と大きく昇格します。江戸でのその人気の高さが伺えます。

 

高見澤

 

【人は何のために生きるのか...

 

「私は、2010年12月1日、41年間の自衛官としての使命を全うし、

じ後地球の進化向上そして人類の意識向上に最大限寄与した、

○○を達成した陸軍将軍として国内外の絶賛を浴びる人生を送った」

 

 

  6年前の本日、自衛官を退官し、再就職することなく

自称「真実の語り部」としての第2の人生を歩みはじめた。

 

 そして、現役時代に警察の要望でおこなわれた

北朝鮮問題現地研究会で知った原発の危険性、

つまり地震でメルトダウンが始まるという「真実」を伝える為に

「マインドコントロール2」(ビジネス社)を世に出した。

 

 不幸にも店頭にその本が並び始めて10日後に3.11フクシマが起こってしまっ

た。

 

さらに、そのフクシマの惨劇も含めて、

 次の浜岡等「第2のフクシマ」に対処することも含めて、

 原発そのものの「真実」を書いた「原発と陰謀」(講談社)で世の中に警鐘を鳴ら

した。

 

 冒頭の言葉は、20年近く、毎日一人で宣言している「アファメーション」であ

る。

もちろん、妻も子どもも知らない。

 

本日、初めて公開する。

  

そもそも、何故、真実の語り部をするようになったのか・・。

  

それは、オウム対処等を通じて、日本の「真実」を知ったとき、

 「日本人は知らないうちに病気にされ、お金を取られ、DNAが壊され3代で滅び

る」。

 

しかし、「お母さんが賢く口養生すれば、サバイバルできる」。

 

さらに、「大峠を上手く乗り切れば、健全な子孫は残り、

 日本ばかりかこの文明は進化して蘇る」

 

 その為には、まず草の根口コミで「真実」を急いで広めること。

  

その思いを込めて、

 20年間誰にも聞かせてないアファメーションの一部を引き続き公開しま

す・・・。

 

 

 「この生き方は、絶対宇宙神の絶対精神に基づく生き方そのものであって、

 200億年前絶対宇宙心に基づき宇宙が誕生し、

 48億年前地球が誕生成長発展して人類が生まれ進化向上、

やがて絶対宇宙神に合体するまでの、

 雄大な人類の進化の歩みそのものの体現であった。

 

 200億年の時間と空間を超えて、この絶対宇宙心を私の顕在意識がとらえ、

 宇宙エネルギー・生命エネルギーとして潜在意識に取り込み、

 普遍の種の潜在意識の働きにより、全ての出合う人とその回りの全ての人々に、

 波動エネルギーとして働いて、気付きと感動をもたらし、

 人として真の生き方、真の成功・富・豊かさを実現するために、

ハートフルな社会を作るために引き寄せ、実現させた。

 

 これは、48億年前、地球誕生時に

 その万有引力によって大流星群をひきいて地球の進化向上が始まったように、

 現在においては73億の人という大砂鉄の海の中で、

 私が絶対宇宙心に基づき確固たる信念に基づき強力な永久磁石となり、

その強力な永久磁力により全ての人々を惹き付けた。

  

  西宮においては、貴子、英人、聖人、悠人、真菜が私の影響を最も受け、

 素晴らしい人間に成長し、素晴らしい人間的な家庭を築くことにより、

 永久磁石の核心となり、西宮、兵庫、関西、

そして日本中の人々に心豊かな社会を実現させた。

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 その結果として、201○年、私は○○を達成した

 

そして、これらのことを全て達成させてくれた

 絶対宇宙神と種の潜在意識に心から感謝した」

 

 

  本当のことを知れば、生き方が変わる。

  ヤマトごころの共生社会復活を目指して...

 

【講演会等】

 

● 12月4日  「サラ・シャンティ健康道場シリーズ講演・5回目(最終回)」

    http://ikedaseiji.info/2016/12/post-462.html

   

● 12月16日 12月西宮勉強会(5回)

    http://ikedaseiji.info/2016/12/post-461.html

 

● 12月25日 こうすれば日本はきっとよくなる!in東京

    http://ikedaseiji.info/2016/12/post-471.html

 

●  1月8日  こうすれば日本はきっとよくなる!in大阪

   http://ikedaseiji.info/2017/01/post-472.html

 

 

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◆池田整治 

 公式HP: http://ikedaseiji.info/

 携帯 090-2653-1207

    seiji-heart.hul.21@docomo.ne.jp

◆東藝術倶楽部顧問

◆美し国 副代表 http://umashikuni.co.jp/index.html

◆『1000年先の地球のために』(ナチュラルスピリット)

◆『いま最先端にいるメジャーな10人からの重大メッセージ』(ヒカルランド)

◆『この国根幹の重大な真実』(ヒカルランド)

◆『日米関係のタブーと世界金融支配体制』(文芸社)

◆『サバイバル・インテリジェンス』(ヒカルランド)

◆『この国を操り奪う者たち』(ヒカルランド)

◆『離間工作の罠』(ビジネス社)

◆『沈むな!浮上せよ!この底なしの闇の国NIPPONで覚悟を磨いて生きなさい!

(ヒカルランド)

◆『日月神示「悪のご用」とマインドコントロール』(ヒカルランド)

◆『目覚めし「ヤマト魂」たちよ、地球「最後の戦い」が待ってるぞ!』(ヒカルラ

ンド)

◆『[親米派・親中派]の嘘』(ワニブックス)

◆『ヤマトごころ、復活!』(新日本文芸協会)

◆『今、「国を守る」ということ 日米安保条約のマインドコントロールから脱却せ

よ』(PHP)

◆『ついに来たプラズマ・アセンションの時』(ヒカルランド)

◆『脱・洗脳支配』(徳間書店)

◆『マインドコントロールX 国防の真実』(ビジネス社)

◆超マインドコントロール2 日本人だけが知らない! 日本と日本人の凄さ!

◆『超マインドコントロール』(マガジンハウス刊・アマゾン総合第2位を記録)

◆『原発と陰謀』(講談社)

◆『マインドコントロール』(ビジネス社)

◆『マインドコントロール2 ~今そこにある情報汚染~』(ビジネス社)

◆『転生会議』(ビジネス社)

◆『心の旅路』(新風舎)(新日本文芸社:改訂版)

◆『なかったことには出来ない話』(新日本文芸協会)

◆写真集『今を生きて~ガイアからのメッセージ』(新日本文芸協会)

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おはようございます。今朝の東京は雨、今日から12月ですが思ったほど気温は下がっていないようで、あまり寒さは感じられません。

 

さて、今日は少し江戸を離れて中国のお話をしたいと思います。昨日の瓦版で江戸の鍋料理のお話をしたので、中国の鍋料理についてもご紹介しておきたいと思った次第です。

 

中国には地方によって異なった様々な鍋料理があります。その中でも特に日本で有名なのが北方の「涮羊肉(Shuan Yangrou)」と「火鍋(Huoguo)」でしょう。

 

涮羊肉はいわゆる「シャブシャブ」です。銅製の先の尖がった鍋に、下から炭火で薬味(生姜、乾燥棗、ネギ、クコなど)を入れた湯を沸かし、薄く切ったラム肉やマトン、豆腐、野菜、キノコなどを軽く湯に通して食べるものです。昔から中国の北方や西北地域には放牧民族が多く羊が生活の重要な糧であり、回教徒が多いことから羊肉を食べる習慣が根付いていました。内モンゴル自治区はもちろんのこと、中国東北部や北京を中心とする華北地方では主に冬によく食べられていましたが、近年は一年中食べることができます。この涮羊肉はモンゴル周辺が発祥の地ではないかといわれ、唐の時代に普及し、元、明、清の時代には軍中の食事としても採用されていたようです。

 

もう一つ火鍋ですが、一般的には「鴛鴦火鍋(Yuanyang Huoguo)」と呼ばれる金属製の鍋を真ん中で二つに仕切り、片方には鶏ガラでとった「白湯(Baitang)」、もう片方には唐辛子と山椒が入った真赤々の「麻辣湯(Malatang)」を入れ、自分の好みによって具材をそれぞれのスープで熱を加えてから食べるものです。主に辛い料理で有名な四川省や重慶市など西南地方で食べられていた料理ですが、今では中国全土ばかりか日本でも食べることができます。こちらは四川省周辺が発祥の地だといわれますが、はっきりしたことは分かっていません。

 

この他にも地域によって特徴のある鍋料理があります。華北から東北地方にかけて食べられる「砂鍋豆腐(Shaguo Doufu)」は、土鍋に鶏ガラの白湯で豆腐、白菜、ネギ、春雨などを具材にして煮込んだものです。寒さの厳しい東北地方には酸っぱくなった白菜と薄く切った豚バラ肉を一緒に煮込んだ「酸菜白肉(Suancai Bairou)」は身体が温まります。中国西南に位置する貴州省には「酸湯魚(Suantangyu)」という多種類の香辛料が入った酸味のあるスープに淡水魚を煮込んだ鍋料理があります。

 

中国では、一昔前は涮羊肉にせよ火鍋にせよ皆で一つの鍋をつついて食べていましたが、最近では一人一人の小さな鍋に、個々人の好みに合わせて鍋の基礎となるスープを選べる店が増えてきました。基礎となるスープを「鍋底(Guodi)」といいます。食材を食べる際の漬け汁は、基本的には胡麻ダレですが、最近は魚醤などを使う人も増えてきました。胡麻ダレにネギやパクチー、ニンニクや胡麻油、肉みそ、発酵させた豆腐などを加えて好みの味付けにして、湯通しした食材を食べるのです。

 

これほど各地で大きな発展を遂げた鍋料理ですが、中国で鍋料理が何時頃から食べられるようになったのか、その起源ははっきりと分かってはいません。推測の域は出ませんが、恐らく3000年ほど前の「鼎」という食器の発明によって鍋料理が可能になったのではないかといわれています。これは鉄製の大鍋で、3本ないしは4本の足で支えられ、当時は祭祀の時に牛や羊、豚の肉をその中で煮て神に捧げた後、皆で分け合って食べていたものと思われます。これが鍋料理の原型ではなかったのかというわけです。その後、陶器や磁器による鍋が発明され、鍋料理のバリエーションが広がったいったのでしょう。

 

江戸を学ぶとともに、文化の師匠となった中国の歴史を学ぶのもまた一興です。

 

高見澤

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