東藝術倶楽部瓦版 20161205 :九里よりうまい十三里

 

おはようございます。先週金曜日は突然の朝食懇談会出席のため、瓦版をお休みさせていただきました。朝からよく晴れ、ホテルニューオータニのメイン16階からは富士山が良く見えました。江戸時代はさぞかし大きく見えたのではないかと想像しました。

 

さて、冬の風物詩として、女性に人気にがあるのが「焼き芋」ではないでしょうか。中国でも「烤白藷(Kao Baishu)」や「烤黄藷(Kao Huangshu)」などと呼ばれ、ドラム缶に石炭を入れ、その中に敷いた石の上で焼いた焼き芋を売っている光景をよく目にしました。美味しいものは国を越えて広がるものです。

 

焼き芋として食されるサツマイモですが、原産地は南米ペルーといわれています。これが中国を経て日本に伝わってきたのは安土桃山時代末期頃で、サツマイモといわれるくらいですから、先ずは沖縄から九州にかけて栽培され、それが西日本一帯へと広まりました。

 

元禄年間(16881704年)に書かれた農業指南『農業全書』には栽培方法や品種が書かれていて、かなり普及していたことが分かります。また、その頃の『心中大鑑(しんじゅうおおかがみ)』には「八里半という芋、栗に似たる風味とて四国ありとかや」と、四国に「八里半」と呼ばれる美味しい芋があると書かれています。

 

このサツマイモの栽培が江戸で広まったのは江戸時代中期です。享保19年に、「甘藷先生」といわれた儒学者・蘭学者の青木昆陽(あおきこんよう)が小石川養生所でサツマイモの試作を始め、翌享保20年(1735年)、8代将軍徳川吉宗に旱魃時の作物として甘藷(サツマイモ)の栽培を提案し、これを吉宗が奨励したことから全国に広まりました。

 

当初は旱魃時の非常食だったサツマイモですが、江戸の人たちには人気だったようで、瞬く間に普通の食べ物として普及していきます。最初は「蒸かし芋」として売られていましたが、寛政5年(1793年)に神田甚兵衛橋の際にある橋番人が「焼き芋」を売り出したところ評判になり、それ以来各所で売られるようになったというのです。

 

当時の焼き芋は「石焼き」ではなく「鍋焼き」だったようです。竃に素焼きの焙烙(ほうろく)か鋳物の浅い平鍋をかけて、その上に芋を並べ、分厚い木の蓋をして蒸し焼きにしました。小さい芋はそのまま丸ごと焼くことから「丸焼き」と呼ばれ、大きい芋はいくつかに切って焼いたので「切り焼き」と呼ばれました。丸焼きの方が食べやすく、味も良かったことから、客寄せの看板には「○焼き」と書かれていたそうです。

 

今では軽トラックの荷台に釜を乗せて売り歩く「石焼き芋屋」ですが、江戸時代は「橋番人」や「木戸番人」が副業として行っていました。橋番や木戸番は近隣の町内から出る賃金で暮らしを立てるのですが、賃金が安いために番屋で駄菓子屋、草鞋、草履、鼻紙などの雑貨を売り、生計の足しにしていたのです。その駄菓子の延長として冬に焼き芋売りを始めたというわけです。

 

江戸時代中期に、「栗(九里)」には及ばない「八里半」といわれたサツマイモも、江戸後期には、「栗(九里)」よりうまい「十三里」と大きく昇格します。江戸でのその人気の高さが伺えます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年12月 5日 09:22に書いたブログ記事です。

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