東藝術倶楽部瓦版 20161216 :豆腐田楽とおでん

 

おはようございます。

先週より暫くの間、朝から仕事が立て込んでいて瓦版の発信ができず失礼しました。年末も押し迫り、ルーティンの仕事のほか、来年度に向けた事業計画策定、年始締め切りの原稿を2本抱え、更には来年早々1月3日から黒龍江省ハルビンで開催される「氷祭り(氷雪節)」の開会式に合わせて行われる「寒冷地フォーラム」でハルビン市政府から頼まれた講演など、忙しさが極致に達しています。来週も、どれだけ瓦版が発信できるか不透明なこと、ご理解頂ければと思います。

 

さて、今回は「江戸の料理革命」最後の話題として、「おでん」についてご紹介したいと思います。

これまでは冬の定番だと思っていましたが、今ではコンビニで季節を問わずおでんが売られています。このおでんですが、実は中国人にも大人気で、北京ではセブンイレブンなど日系のコンビニで日本と同じようなおでんが売られているのです。

 

今、我々が食べているおでんは、醤油ベースの煮汁の中に練り物や大根、こんにゃく、ゆで卵などの具を入れて煮ながら食べる料理を指します。しかし、このようなスタイルが生まれたのは比較的新しく江戸時代後期、それも幕末に近い頃でした。実は、それ以前のおでんというのは、「田楽」のことを指していました。

田楽と言えば、こんにゃくに味噌をつけて食べる料理を思い浮かべる人が多いかと思いますが、元々は豆腐が使われていました。豆腐を拍子木の形に切り、それに竹串を刺して焼いたものに味噌をぬって食べていましたが、その形が豊穣祈願の楽舞「田楽舞」に似ていることから、これが「豆腐田楽」と呼ばれるようになりました。この「田楽」の「田(でん)」に女房言葉の「お」をついて「おでん」と呼ばれるようになったとのことです。この田楽ですが、豆腐やこんにゃくばかりではなく、地域によっては里芋やジャガイモを田楽にして食べるところもあるようです。

 

この豆腐田楽の記録は、平安末期に奈良の春日大社の寿永2年(1183年)の社務所日記に「唐符(とうふ)」という文字があるようですが、これがどうやら「豆腐」を指しているとのことです。この時代には塩をふって食べていたようです。これが室町時代になると味噌をつけて食べるようになります。これが「豆腐田楽」です。串に刺した豆腐の形が、田楽踊りを踊るときに高足(こうそく)という一本竿の高い竹馬にのっている姿が似ていたので、こう呼ばれるようになったと言われています。

 

江戸時代に入ると社会が安定し、外食産業が発展してきたことは、これまでご紹介してきた通りです。当時、上方(京、大坂)では、こんにゃくを昆布出汁の中で温め、甘味噌をつけて食べるようになります。これが「煮込み田楽」で、焼かない田楽が登場してきます。これが今の汁で煮込む今のおでんの原型だと思われますが、汁には味がついていませんでした。

 

もちろん江戸でも豆腐田楽が売られるようになります。焼き焜炉さえあればどこでも商売ができるので、比較的早くから普及していたようです。

江戸中期になると、庶民の生活も大分安定し、各地への行楽が行われるようになります。そんなとき、最も手軽な茶店料理がこの豆腐田楽でした。各地の行楽地には田楽茶屋の名店があり、焼いた味噌の上に木の芽をのせた「木の芽田楽」、ウニを酒で溶いて塗った「ウニ田楽」、卵・油・酒・酢を混ぜたもの(マヨネーズに似たもの)を塗った「鶏卵田楽」などの名物田楽が評判を呼んでいたとのことです。

また、豆腐が基本であった田楽の種類もナス、里芋、コンニャク、魚、更には鹿や猪の肉なども田楽にしていたようです。魚を焼いて味噌をつけたものは「魚田」と言っていました。この中で特に人気があったのはコンニャクでした。串に刺したコンニャクはお湯で温めるだけで、食べる直前に砂糖を入れた甘味噌で食べるというもので、焼く手間もなく棒手振りの行商にとっては手軽だったようです。棒手振りおでん屋の場合、一串4文だったため、別名「四文屋」と呼ばれることもありました。

 

ちょうどこの頃、江戸では地回り醤油が普及して醤油料理が定番になっていきます。串刺しのコンニャクも醤油の煮汁に漬けられ売られるようになります。上方の「煮込み田楽」の応用だったのかもしれません。やがて里芋、大根なども入れるようになりました。これを売る店が「燗酒とおでん」という意味で「上燗おでん」と看板を出したため、これ以降「おでん」と言えばこの「煮込み式」のおでんになりました。

 

一方関西では、この煮込み式が逆に関東から入り込んだことから「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれています。

 

これまで長きにわたり江戸の料理革命についてご紹介してきました。現在、我々が普通に食べている日本食の多くが江戸時代に登場し、融合し、発展してきた文化であることが分かります。このような文化が庶民の間に広まるということは、それだけ庶民の基本的な生活が豊かであり、保証されていたからだと言えます。

翻って現代をみてみると、農薬や添加物など食べ物には様々な有害物質が故意に入れられていて、食という基本生活自体に根本的な問題があると言わざるを得ません。この問題を解決するには、すべて自分で作物を栽培することから始める以外にありません。

五井野正博士が始められた「ふるさと村」作りは、先ず江戸時代の精神に戻ることが大事ではないかと、改めて思う次第です。

 

次回からは、また別のテーマで瓦版をお送りしますので、お楽しみに!

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年12月16日 10:39に書いたブログ記事です。

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