東藝術倶楽部瓦版 20170112 :和暦の誕生ー宣明暦から貞享暦へ

 

おはようございます。私は現在、行き帰りの電車の中で五井野博士が書かれた『一念三千論で解く宇宙生命の秘密』を読み返しています。先週の中国出張の時に飛行機の中で一度読み終えたのですが、なかなか難しいところもあり再度読み返しているのですが、さすがに二回目となると前回理解できなかったところが少しずつですが、何となく分かるような気がします。頭で理解するというよりも、身体で感じると言った方が正しいのかもしれません。何度でも読み返してみることをお勧めします。

 

さて、本日からは江戸の暦革命についてお話ししていきたいと思います。

律令時代の暦の編纂は陰陽寮の暦博士や天文博士、更にはそれらを統括する陰陽頭の仕事でした。暦算は高度な専門知識と熟練した技術を必要とするので、そのような特別な訓練を受けた人でないと務まらなかったわけです。

平安時代中期に、陰陽道の大家で唐から大衍暦を持ち帰った吉備真備の子孫であるとされる賀茂忠行の子で賀茂保憲という陰陽頭がいました。保憲は自分の子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明(のちに天下に並ぶ者なき陰陽家として名声をはせた人物)には天文道を伝え、以降暦道と天文道は賀茂家と安倍家の家学として世襲化されることになりました。賀茂家の正系は16世紀に途絶え、これを安倍家が代行し、また賀茂家は安倍一族の幸徳井家が継いだために、日本の暦道と天文道は安倍家、のちの土御門家とその一族が深くかかわることになります。このため、安倍家一族以外の多くの陰陽師は生活難に陥り、諸国に分散することになったと言われています。

 

江戸時代に入ると、800年に渡って使われてきた宣明暦の狂いが指摘されるようになります。江戸幕府としても放置するわけにはいきませんでしたが、当時暦道は京の土御門家が隠然たる支配力をもっていたので、そう簡単に改暦するわけにもいきません。そこで幕府は渋川春海を土御門家に弟子入りさせるなど、万全の根回しを行った上で、ようやく貞享2年(1685年)に「貞享暦」への改暦を行うことに成功しました。この貞享暦は日本独自の暦法で、初めて日本人の手によって編纂された「和暦」です。

 

この改暦の功により渋川春海は幕府が新たな職制として設けた「天文方」に任命され、その後幕末まで渋川家が天文方を世襲することになります。ただ、天文方は渋川家の独占ではなく、猪飼家、西川家など数家が併存していました。

幕府が天文方を設置した目的には、土御門家から頒暦の主導権を奪うことがあったようで、貞享暦の改暦以降、土御門家は暦注部分のみを担当するようになり、科学的な編暦については天文方の所管となりました。

 

貞享暦については、また日を改めて紹介していきたいと思います。

 

高見澤

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://azuma-geijutsu.com/mt/mt-tb.cgi/321

コメントする

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年1月12日 20:45に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20170111 :日本における暦法の変遷」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20160113 :暦の出版・販売を任されていた大経師」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ