東藝術倶楽部瓦版 20170131 :「寛政暦」と日本最後の太陰太陽暦「天保暦」

 

おはようございます。年も改まったかと思えばもう1月も最後の日。月日の経つのが早く感じるところですが、人の一生が100年にも満たないという現世は如何にも儚い夢のまた夢といったところでしょうか。

 

さて、本日も暦の続きです。前回は貞享暦より劣った宝暦暦への改暦のお話をしましたが、その宝暦暦から次の「寛政暦」への改暦が行われたのが寛政10年(1798年)のことでした。宝暦暦の誤りに頭を悩ましていた徳川幕府は、民間の天文学者であった高橋至時を幕府天文方に登用し、同じ麻田剛立門下の間重富や先任の天文方であった山路徳風らと協力しながら改暦を進め、その結果出来上がったのがこの寛政暦でした。

 

寛政暦は中国・清の「時憲暦(じけんれき)」を参考に、中国と日本の里差を加え、さらに高橋至時・間重富の師である麻田剛立の暦算を導入したものでした。時憲暦はドイツ出身のイエズス会宣教師であるアダム・シャールによって編纂されたもので、明の時代に使われていた「大統暦」に改良を加えた「崇禎暦(すうていれき)」のことで、明滅亡後に清によって公布された中国最後の太陰太陽暦です。ですから、時憲暦には当然のことながら西洋天文学の考え方が導入されており、寛政暦にも間接的ですが西洋天文学の成果が反映されていることになります。

 

こうして完成した寛政暦ですが、これも運用されてから40年も経つと天体の運行との差が無視できなくなります。そこで高橋至時の次男で天文方の渋川正陽の養子となった渋川影佑を中心に再び改暦が行われます。これが日本最後の太陰太陽暦となる「天保暦〔天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)〕」です。この改暦は天保15年(1844年)に行われ、明治5年(1872年)までの約29年間使われました。現在、日本で使われている旧暦は、この天保暦の置閏法に基づいて計算されています。

 

ところで、これまで何かと東洋科学が西洋科学よりも先進的であったことを、数々の事例を交えて紹介してきていました。しかし、こと天文学に関しては、西洋の方が東洋よりも正確である言えるかもしれません。その証拠に暦と季節が一体化した太陽暦(グレゴリオ暦)が現在世界的な標準の暦として採用されています。実はこれにも理由があり、その大元は古代エジプト暦にそのルーツがあります。これについては、また機会を設けてご紹介できればと思います。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年1月31日 22:54に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20170130 :貞享暦より劣った宝暦暦への改暦」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20170201 :今何時でい?ー「時そば」を生んだ十二辰刻」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ