東藝術倶楽部瓦版 20170406 :江戸庶民の時計ー日時計

 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、日の出も大分早くなり、靖国通りの桜並木の道を歩くのが心地よく感じる季節です。先週の大岡川の桜はまだ開く前の英気を養っている段階でしたが(キリロラさん談)、今はその英気を目一杯表に出している時期なのでしょうか。いずれにせよ、春が来たな!という思いを感じています。

 

さて、本日は「江戸の時計」についてお話をしてみたいと思います。今では腕時計やスマホなどで、時間を知るのに何の不自由も感じていませんが、こうした時計が一般的でなかった江戸時代の庶民はどのように時間を把握して生活していたのでしょうか。

以前、このメルマガでもご紹介した通り、江戸の時間は「不定時法」でしたので、現代のような時計があっても、季節によっては生活にかなり支障をきたすことになります。ですから、不定時法に合わせた時計が必要になってくるわけです。

 

江戸時代にも機械仕掛けの時計はありましたが、大名や豪商など一部の特権階級だけの贅沢品で、とてもではないけど庶民が持てるものではありませんでした。このため、庶民が時間を知る手段の整備が必要になります。例えば江戸などでは、市中に何カ所か設置された「鐘」を鳴らすことで庶民に時刻を知らせていました。このことも以前本メルマガでご紹介したことがあるかと思いますが、埼玉県川越市にある「時の鐘」という鐘楼は、元々は江戸時代に創建されたものです。

 

この時の鐘のほかに、庶民が時を知る手段として利用されていたのが「日時計」です。特に紙製の日時計は、時の鐘が聞こえない場所でも手軽に時間を知ることができるので、旅に出る際にも携帯することができました。日時計を水平にして、月ごとに区切られた短冊を垂直に立て、太陽に向けた時にできる影の長さで時間を読み取ることができます。また、日時計と一緒に装備されている磁石を利用して、日時計部分を北に向け、半球部分に映る影の位置で時刻を読み取るコンパクトな日時計もありました。こうした時計は東京都墨田区東向島にある「セイコーミュージアム(セイコー時計資料館)」に所蔵されています。

 

では、江戸時代に不定時法に対応する機械式の時計は存在していたのでしょうか? そう、実はそれが存在していたのです。それを「和時計」と呼びます。この和時計は欧州から伝来した機械式時計を模倣し、当時の不定時法に合わせて工夫・製作された独特の時計でした。

 

日本に欧州から最初に機械式時計がもたらされたのは天文20年(1551年)のことです。持ち込んだのは宣教師フランシスコ・ザビエルでした。当時、中国地方を治めていた戦国大名の大内義隆にキリスト教の布教を願い出た際の献上品の中に機械式時計があったと言われていますが、現存はしていません。現存する日本最古の機械式時計は、慶長17年(1612年)に当時のスペイン国王から徳川家康に贈られたゼンマイ式の置時計です。現在、久能山東照宮に大切に保存されているということです。こうした精巧な機械仕掛けの時計は、当時の大名たちの間でもてはやされましたが、西洋の定時法で時間を表示する時計は実用には使えません。ですからあくまでも観賞用として用いられていました。

 

この機械式の西洋時計を日本の不定時法に合うように改良して生み出されたのが「和時計」です。最初に和時計を製作したのは「日本時計師の祖」といわれる津田助左衛門(つだすけざえもん)で、記録によれば徳川家康所有の時計を修理した際に、それを真似て新たに時計を作って家康に献上したとのことです。しかし、高価であることに加え、メンテナンスも大変だったようで、専ら美術工芸品として扱われ、大名などの富裕層が所有していたようです。

 

次回は、どのような和時計があったのかをご紹介したいと思います。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年4月 6日 09:47に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20170405 :月の大小を謎解く-江戸の絵暦」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20170407 :江戸の粋ともの作りの賜物ー和時計」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ