東藝術倶楽部瓦版 20170622 :江戸時代に華美になった雛人形

 

おはようございます。今朝の東京は昨日とうって変わって日差し眩しく、朝の出勤時にでさえ汗ばむ陽気でした。これからますます暑くなっていくことでしょう。そういえば昨日6月21日は夏至でしたね。

 

さて、本日は前回説明した「上巳」に関連して、「雛人形」について少し補足的に解説しておきたいと思います。上巳の日に、「人形(ひとがた)」とよばれる「撫でもの」に自分の厄を写し、水に流して祓いを行う「流し雛」のことは前回説明した通りです。この撫でものは、草木や紙で人の形を作り、それで身体を撫でて厄を移すところから、撫でものと呼ばれるようになりました。この人形が雛人形の始まりだとされています。

 

平安時代、紙などで作った小さな人形は「ひいな」と呼ばれ、これが前述した人形の風習と融合して「雛人形」が生まれ、家の中に飾り付けられて祀るようになったということです。特に太平の世となっていた江戸時代には、雛人形ばかりでなく雛道具もともに豪華になり、雛飾りは女の子のあこがれの縮図として、「雛祭り」へと発展していったのです。雛人形の華美の度が過ぎるとして、徳川幕府が雛や調度に金銀箔を用いないよう御触れを出して戒めたこともあったようです。

 

一口に雛人形といっても色々な種類があります。昔からあるものとしては、公家装束の有職故実に従って平飾りされた「有職雛(ゆうそくひな)」、古風かつ宮中の華やいだ雅の世界の雛人形として有名な「内裏雛(だいりびな)」、京の人形司・雛屋次郎左衛門が考案し江戸の上流階級に好まれた「次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)」、ふっくらとした可愛い子供のような顔の「おぼこ雛(おぼこびな)」、内裏雛の一種で江戸享保年間から流行り出した豪華な「享保雛(きょうほびな)」、高貴な貴族が和歌を詠む姿を表現した「歌仙雛(かせんびな)」、有職雛の影響を受けて江戸明和年間頃に人形司の腹船月が町雛として考案した「古今雛(こきんびな)」、白髪の人形で江戸時代から健康と長寿を祝ってきた「百歳(ももとせびな)」、天皇皇后両陛下の大礼の姿を模した立ち姿の「大礼雛(たいれびな)」などが有名です。最近では、平安京の朱雀大路の大内裏の宮城跡にある工房で作られている「朱雀大路 大極殿雛(すざくおおじ だいごくでんびな)」というのもあるそうです。

 

一般に京都で作られる雛人形を「京雛」、関東で作られる雛人形を「関東雛」と呼んでいます。京雛は目やや細めで、京頭といわれる独特のおっとりとした顔立ちであるのに対し、関東雛ははっきりした目鼻立ちをしています。また、飾り付けるときに、京雛では向かって右側が男雛であるのに対し、関東雛では向かって左側が男雛になります。

 

雛人形については、まだまだ語り尽くせぬところなので、次回もこの続きをお送りしたいと思います。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年6月23日 09:12に書いたブログ記事です。

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