東藝術倶楽部瓦版 20170623 :衣裳着と木目込みー江戸時代に進化した雛人形

 

おはようございます。今朝の東京も昨日に続いて日差しが眩しく、暑くなりそうです。こまめに水分補給をして、熱中症対策に気を配ってください。

 

さて、本日は前回お話しした「雛人形」の続きです。前回、雛人形について飾り付けの特徴からそれぞれ種類があることを紹介させていただきましたが、実は人形そのものの作り方にも二つの種類があります。その一つが「衣裳着人形(いしょうぎにんぎょう)」で、もう一つが「木目込人形(きめこみにんぎょう)」です。我々が普段目にするものは衣裳着人形が多く、市販されているものの7割が衣裳着人形だと言われています。

 

衣裳着人形は、人形の胴体と衣装は別々に製作し、人形とは別に仕立てた衣装を人間が着るように、実際に人形の胴体に着付けして作り上げるものです。また、手足や頭も胴体とは別に製作され、顔の目の部分にはガラスが入れられています。

この衣裳着の雛人形の形が完成したのは、江戸時代だと言われています。明和から寛政年間(17641801年)頃、江戸の人形師である原舟月が京で作られていた雛人形(古代雛)を参考にして考案したもので、従来は筆で描かれていた目に、初めてガラスや水晶を入れ込み、衣装にも金糸や色糸で刺繍を施すなど豪華に仕上げたものとなりました。これが前回紹介した「古今雛」で、現代の衣裳着人形の原型とされています。

 

これに対して、木目込人形は、人形の胴体に溝を彫り込んで、その溝に布地の端を埋め込む技法、すなわち「木目込む」ことによって製作するものです。実はこの木目込みの技法の発祥もまた江戸時代の中期頃だと言われています。元々は京の上賀茂神社の雑掌(ざっしょう)が木に布を木目込んで作ったのが始まりで、それが江戸に伝わり江戸木目込み人形と呼ばれるようになったとのことです。

 

当初は子供の人形遊びの道具であった人形が、上巳の節句の飾り物として定着するのが室町時代とされ、「室町雛」として今の「内裏雛」の原型が出来上がったとされています。ただこの室町雛も室町時代のものであったかどうかは定かではないよです。とはいえ、江戸時代に入り、「寛永雛(かんえいびな)」、「享保雛(きょうひびな」、「次郎左衛門雛」、「有職雛」、「古今雛」へと次第に進化を遂げて行きます。平和な江戸時代であったからこそ、こうした高い文化が生まれ育つことが可能となったのでしょう。果たして現代はどうでしょうか?

 

高見澤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一口に雛人形といっても色々な種類があります。昔からあるものとしては、公家装束の有職故実に従って平飾りされた「有職雛(ゆうそくひな)」、古風かつ宮中の華やいだ雅の世界の雛人形として有名な「内裏雛(だいりびな)」、京の人形司・雛屋次郎左衛門が考案し江戸の上流階級に好まれた「次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)」、ふっくらとした可愛い子供のような顔の「おぼこ雛(おぼこびな)」、内裏雛の一種で江戸享保年間から流行り出した豪華な「享保雛(きょうほびな)」、高貴な貴族が和歌を詠む姿を表現した「歌仙雛(かせんびな)」、有職雛の影響を受けて江戸明和年間頃に人形司の腹船月が町雛として考案した「古今雛(こきんびな)」、白髪の人形で江戸時代から健康と長寿を祝ってきた「百歳(ももとせびな)」、天皇皇后両陛下の大礼の姿を模した立ち姿の「大礼雛(たいれびな)」などが有名です。最近では、平安京の朱雀大路の大内裏の宮城跡にある工房で作られている「朱雀大路 大極殿雛(すざくおおじ だいごくでんびな)」というのもあるそうです。


高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年6月23日 09:13に書いたブログ記事です。

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