2017年7月アーカイブ

 

おはようございます。関東もついに梅雨明け、いよいよ夏本番の季節です。ここ都心も相変わらず暑い日が続きます。エアコンの心地よさが身に染みる思いですが、できれば自然の風で涼みたいところです。子供のころ過ごした時の佐久の山野の風が懐かしく思えます。

 

さて、本日のテーマは「更衣(ころもがえ)」です。「更衣」は「こうい」とも読み、天皇の衣更えに奉仕する女官のことも差します。「ころもがえ」は、今では「衣更え」と書き、冬服から夏服への衣更えは6月1日、夏服から冬服への衣替えは10月1日というのが一般的ですが、昔は旧暦4月1日が冬服から夏服への更衣だったようです。とはいえ、最近では5月にはクールビズにするところも少なくないので、時期的には今とあまり変わらなかったのかもしれません。

 

この更衣ですが、昔の中国の宮廷では、旧暦4月1日と10月1日に夏服と冬服を入れ替える習慣がありました。これが平安時代に日本に伝わりました。当時の日本では、まだ季節ごとに衣服を着分ける風習がなかったので、春の温かさを感じる旧暦4月1日になると、「綿貫(わたぬき)」といって、衣服から綿を抜いて、風の冷たさを感じる旧暦10月1日には再び綿を入れて着ていました。日本では、「四月一日」と書いて「わたぬき」と読む姓をもつ人がいるそうですが、その由来はここにあります。

 

これが室町時代から江戸時代にかけて、四季に合わせて衣服を着替える習慣が定着しました。当初は貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に着替えるだけでしたが、江戸時代になると、武家社会では年4回、それぞれ季節に合わせて着るものが下記の通り制度化されました。

 

旧暦4月1日~5月4日:「袷(あわせ)」という裏地が付いた着物

旧暦5月5日~8月末日:「帷子(かたびら」という裏地無しの単衣仕立ての着物

旧暦9月1日~9月8日:「袷」を再度着用

旧暦9月9日~3月末日:「綿入れ」という表布と裏布の間に綿を入れた着物

 

江戸時代前期の俳諧師・宝井其角(たからいきかく)〔寛文元年(1661年)~宝永4年(1707年)〕の句に、「越後屋に衣(きぬ)さく音や更衣」というのがあります。この句の意味は、「越後屋(今の三越の前身)から絹を裂く音が絶え間なく聞こえてくる、更衣の季節になった」というものですが、庶民の間でも更衣が普通に行われていたようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は比較的涼しさを感じました。とはいえ、もうすぐ梅雨明けになるとの話で、これから暑さが本番になることでしょう。束の間の涼しさなのかもしれません。今の地球は何が起きても不思議ではありません。常に平常心を保ちつつ、適切に対応していくことが大事です。過去の経験から学ぶことは少なくありません。

 

さて、本日は「清明(せいめい)」について紹介していきたいと思います。清明は以前にも説明しましたが、「二十四節気」の一つ、三月の節気で、新暦でいえば4月5日頃(定気法)です。定気法では、太陽黄経が15度の時で、暦ではそれが起こる瞬間を含む日ですが、天文学的にはそれが起こる瞬間を指します。期間としては、次の3月の中気である「穀雨」までを指すこともあります。

 

気候が穏やかで、空気が清々しく感じられる時なので、清明というのだそうですが、江戸時代に書かれた『暦便覧』に、「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也(空気は澄み、陽光は明るく万物を照らし、全てがはっきり鮮やかに見える頃)」とあり、この「清浄明潔」を略したものと言われています。

 

中国では、この日を「清明節」と呼び、祝日として休みになっていて、先祖の墓参りかたがた郊外に出て、野山で宴を張る風習があります。古代中国では、冬至後の105日目の前後2~3日間は火の使用を禁じ、あらかじめ料理しておいた冷たいものを食べる風習がありました。この日を「寒食節(かんしょくせつ)」と言い、清明節はちょうどこの寒食節明けにあたるので、清明節の早朝にニレやヤナギの枝を燃やし、新しい火を起こしていたそうです。

 

沖縄では、今でも「清明祭(ウシーミー)」と呼ばれる墓参の行事が行われていますが、これもまた中国の清明節が伝わって定着したものです。

 

中国北京にある故宮博物院には、北宋時代の都・開封(河南省)の清明節頃の都城内外の賑わった様子を描いた「清明上河図(せいめいじょうがず)」という絵巻が所蔵されています。当時の開封府の内外の人々が行き来して、都が繁栄し活気に満ちている姿を描いたものです。春たけなわの季節に、芸術的には精細な描写としての価値があり、当時の市街の様子や風俗を描いたものとして、資料的にも価値が高いとされています。2011年に上海で開催された上海万博の中国館では、この「清明上河図」のマルチメディアを駆使した電子版が展示されており、中に描かれている人や動物が絵の中を動き回る姿が映し出されていました。古きものと現代の科学技術の融合の成果の一つとして注目すべきものの一つです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は薄曇り、朝から蒸し暑く、今日も1日気温が高くなる気配です。それでなくとも、放射能の影響で日本人の抵抗力は極端に低下しているので、熱中症には要注意です。

 

さて、前回お話しした「花見」にちなんで、本日は「桜」について少し紹介しておきたいと思います。

 

桜は、バラ科サクラ亜科サクラ属に属する落葉広葉樹です。サクラ属には、サクラ、ウワミズザクラ、スモモ、モモ、ウメ、ニワウメの6種類の亜属があります。世界では300種類以上、日本でも100種以上が自生されており、その種類は豊富です。人為的に品種改良される場合もありますが、サクラ自身突然変異しやすく、突然変異を固定化してしまうこともあるからです。

 

日本の本土には野生基本種として、以下の9種が知られています。

山桜(ヤマザクラ)

大山桜(オオヤマザクラ)

霞桜(カスミザクラ)

大島桜(オオシマザクラ)→葉は桜餅に使われる。

江戸彼岸(エドヒガン)→枝垂桜(シダレザクラ)

丁字桜(チョウジザクラ)

豆桜(マメザクラ)

高嶺桜(タカネザクラ)

深山桜(ミヤマザクラ)

この他に、沖縄の「寒緋桜(カンヒザクラ)」が加わり、10種となります。

 

日本の野生の桜として有名な「吉野の桜」は山桜です。また、皆さんお馴染みの「染井吉野(ソメイヨシノ)」は、江戸彼岸と大島桜をかけ合わせたもので、野生基本種ではありません。染井吉野が誕生したのは江戸時代後期、それが日本全国に広まったのは明治時代です。日本に見られる桜の7~8割が染井吉野だと言われています。江戸時代には、多様な品種の桜が植えられ、品種ごとに咲く時期が異なるため、時期をずらしながら咲く様々な桜を楽しむことができたそうです。さらに、大島桜を基本に、山桜、江戸彼岸、霞桜、豆桜をかけ合わせた「里桜(サトザクラ)」があります。里桜はいずれも交配種で、園芸用として楽しまれています。

 

尚、よく言われる「八重桜(ヤエザクラ)」というのは、八重咲きになる桜の総称で、桜の種類ではありません。里桜群の「関山(カンザン)」、「一葉(イチヨウ)」、「普賢象(フゲンゾウ)」や「枝垂桜(シダレザクラ)」の「八重紅枝垂れ(ヤエベニシダレ)」などがあります。

 

咲く時期もそれぞれ異なり、また地域によっても異なります。寒緋桜が最も早く旧暦正月頃、すなわち1月中旬から2月中旬頃です。「寒桜(カンザクラ)」と呼ばれる桜は寒緋桜と大島桜の交配種で1月中旬から2月下旬。寒緋桜と豆桜を交配してつくられた「オカメザクラ」は2月下旬から3月上旬。江戸彼岸も比較的早咲きの部類に属し3月20日頃から4月上旬。高嶺桜は山地で5月下旬から6月上旬と比較的遅咲きの部類に属します。関山は4月中旬、普賢象は4月下旬と八重桜は比較的遅咲きです。

 

面白いところでは、山桜と豆桜を交配してつくられた「冬桜(フユザクラ)」は、開花期が2回あり、1回目は10~1月頃、2回目は3~4月頃です。2回目の時には葉をつけているのが特徴です。

 

本日の桜の紹介は、実は今年4月の大岡川の花見勉強会のために準備していたもので、時間的に資料作成が間に合わず、当日時間があれば口頭で説明しようと思っていたものです。ただ、船上での花見では説明するタイミングがありませんでしたね。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も暑さが続きます。そろそろ梅雨明けかと思う日が続いていますが、まだ梅雨前線が北にあるようで、梅雨明け宣言にはもう暫くかかるようです。

 

さて、卯月、4月の行事と言って最初に思い浮かぶのは、やはり「花見」ではないでしょうか。東藝術倶楽部でも今年4月に横浜大岡川の花見勉強会を開催したところです(東藝術倶楽部ホームページ会員専用ページ参照)。お弁当やお酒を持参し、山野へ出かけ桜の花を観賞する習慣は、今でも変わらず日本各地で見ることができます。

 

しかし、今は行楽の一環として定着している花見ですが、もともとは桜の花の観賞などという風流なものではなく、3月3日の「上巳の節句」と同様に、祓のために山野に出かける宗教的儀式であったようです。日にちも3月3日なしは4日と決まっており、千葉県の一部では3月3日に「花見の勧進」という行事が行われていますが、ただ4月8日を「花見の日」として、祭礼の日の行事を行う寺院が多いようです。

 

「百敷(ももしき)の大宮人(おおみやびと)は暇(いとま)あれや、桜かざして今日も暮らしつ」と、奈良時代の歌人・山部赤人(やまべのあかひと)の歌にもあるように(『新古今和歌集』)、奈良・平安時代にはすでに花を見て楽しむ習慣があったようです。当時の歌にも花を詠んだものが多く、宮中では連日、花の宴がもようされ、花の木陰で詩歌を詠み、杯を酌み交わしていたということです。

 

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が京都醍醐寺の三宝院で行った花見は、いろいろと工夫を凝らした華やかで大々的なものであったことで知られています。とはいえ、花見もこの頃まではまだまだ庶民が楽しむようなものではなかったのかもしれません。

 

花見が庶民のものとして定着するのは、これもまた江戸時代に入ってからです。元禄時代(16881704年)には盛んに花見が行われ、かくして江戸は「花のお江戸」になっていきます。浮世絵にも花見を楽しむ庶民の姿が多く描かれています。

 

桜の品種改良も盛んに行われたのも江戸時代で、また、今でも桜の名所と呼ばれる多くのところに桜の木が植えられたのも江戸時代でした。当時、花見の名所として名高かった「忍岡(しのぶがおか)」、すなわち今の上野恩賜公園(台東区)の桜は天海大僧正(15361643年)によって植えられ、享保5年(1720年)には徳川吉宗によって浅草・隅田川堤(墨田区)や飛鳥山(北区)にも桜が植えられ、庶民の行楽行事として花見が奨励されたとのことです。このほかにも、江戸城下・近郊の花見の名所としては御殿山(品川区)、愛宕山(港区)、玉川上水(羽村市)などが有名です。

 

高見澤

 

おはようございます。東京は今日も朝から汗がにじみ出るような暑さを感じています。日本各地では豪雨による被害も続出、東京も他人ごとではありません。一般的な日本の都市での雨の吸収能力は1時間に50ミリと言われていますが、この程度の雨は毎年何回も経験しています。早急なる対策が必要ですね。

 

さて、本日からは「卯月」の年中行事に移りたいと思います。卯月とは旧暦4月のことを指し、新暦4月は春真っ盛りですが、旧暦4月は既に夏に入る季節となります。古来、宮中では4月1日が「更衣の日(ころもがえのひ)」としていたようです。

 

平安時代の歌学書である『奥義抄』に、「うの花さかりにひらくゆゑに、うの花づきといふをあやまれり」という箇所があり、また『万葉集』にも、大伴家持が天平20年(748年)4月1日に詠んだとされる「卯の花の咲く月立ちぬほととぎす、来鳴き響(とよ)めよ含(ふふ)みたりとも」という歌が掲載されています。こうしたことから、「卯の花月」が略されて「卯月」となったというのが、卯月の由来の定説になっています。

 

「卯の花」とは、ユキノシタ科の落葉低木である「空木(うつぎ)」の花のことで、季節としては旧暦5~6月頃に白い小さな花を咲かせます。先の歌をみれば、一面の緑に白く咲く卯の花の姿は初夏の花として相応しいようにも思えます。

 

しかし、同じ『万葉集』に「五月山(さつきやま)卯の花月夜(つくよ)ほととぎす、聞けども飽かずまた鳴かぬかも」、「時じくの玉をそ貫ける卯の花の五月を待たば久しかるべみ」といった歌も見え、旧暦4月の花とするには無理があるようにも思えます。このため、新井白石などは、定説とは逆に旧暦4月頃に咲く花だから「卯の花」というのであって、卯の花が咲くから「卯月」とするのではないと主張しています(『東雅』)。

 

この他にも、江戸時代の国学者・谷川士清(たにがわことすが)の「種月(うえづき)」とする説や高内真足(たかうちまたり)の「田植苗月(たうなえづき)」を語源とする説などもあります。

 

高見澤

 

おはようございます。今週日曜日9日から2泊3日で北京に出張してきました。北京では思ったより蒸し暑く、最高気温は34℃と東京よりも暑く感じました。以前として大気汚染は酷かったのですが、少しずつ改善されているようには感じられました。

 

さて、本日の話題は弥生にちなんで、春の女神とされる「佐保姫(さおひめ)」について紹介したいと思います。

 

古来、日本には季節を司る女神が存在するとされてきました。

春:佐保姫(さおひめ)

夏:筒姫(つつひめ)

秋:竜田姫(たつたひめ)

冬:宇津田姫(うつたひめ)

 

中国から伝来した「五行説」と絡めて、それぞれの季節にはそれぞれ方角が定められており、春は東に配当され、平城京の東にある佐保山を神格したものとされています。ちなみに、平城京の西には竜田山があります。佐保山とは、奈良盆地を流れる佐保川北方にある丘陵の総称です。

 

この春の女神「佐保姫」は、人には姿を見せず、天地万物の春色を織りなすと伝えられています。ウグイスの鳴き声が、佐保姫の笛にみたてられることもあります。

 

「佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をうすみ花の錦をたちやかさねむ(佐保姫の着る霞の衣は横糸が少ないので、花の錦を重ね着するのであろうか)」後鳥羽院『後鳥羽院御集』

 

「佐保姫の染めゆく野べはみどり子の袖もあらはに若菜つむらし(佐保姫が緑に染めていく野辺では、幼い娘たちが袖から腕もあらわにして若菜を摘んでいるらしい)」順徳院『順徳院集』

 

佐保姫の糸染め掛くる青柳を吹きな乱りそ春の山風(佐保姫が染めた糸を掛けた柳の枝を吹き乱さないでおくれ春の山風よ)」平兼盛『詞花集』

 

春の野山にかかる霞は、佐保姫の織りなす薄い布であると解され、その情景は上記のように多くの和歌や物語に描かれています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も晴れ、また一段と暑くなりそうです。昨晩の都心ではピンポイントでスコールのような雨が降ったようで、職場のある千代田区では雨が対して降らなかったものの、自宅のあるすぐ隣の港区では、一時的でしたがかなり強い雨が降ったということでした。九州北部を中心とした豪雨も心配です。

 

さて、本日の弥生の年中行事として、「修二会(しゅうにえ)」についてご紹介したいと思います。修二会とは、奈良東大寺の二月堂において、天平年間から続けられている伝統的な法会のことです。この始まりは天平勝宝4年(752年)で、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟であった実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって創始されたと言われています。

 

修二会は「修二月会(しゅうにがつえ)」とも呼ばれ、もともと旧暦2月1日から2週間にわたり行われており、2月に修する法会という意味で修二会という名称がつきました。「二月堂」の名前もこのことに由来しています。ところが、現在では3月1日から2週間にわたり営まれています。

 

修二会も佳境に入る3月13日午前1時半頃には、「若狭井(わかさい)」という井戸から観音菩薩にお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる「お水取り」の儀式が行われます。この儀式の行を勤める「練行衆(れんぎょうしゅう)」という僧の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)に火が灯されます。このため、修二会のことを「お水取り」、「お松明」とも呼ばれるようになりました。

 

修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言うそうです。「十一面」とは「十一面観音菩薩」のことで、「悔過(けか)」とは人々が生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊の前で発露懺悔(ほつろざんげ)することです。仏教の経典が中国に渡り中国語に訳されたとき、最初は「悔過」と訳されていましたが、後に「懺悔」という言葉が使われるようになりました。ですから、修二会の本来の意味は、我々が日常犯している様々な過ちを、二月堂の本尊である十一面観音菩薩の宝前で懺悔することだったのでしょう。

 

人々の過ちが天災や疫病、動乱などを招くものとして、いわゆる国家の病気として考えられ、そうした病気を取り除いて鎮護国家、天下安泰、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、国家万民のためになされる宗教行事として行われるようになったようです。

 

この修二会は東大寺二月堂のものが有名ですが、他の寺院でも行われています。奈良の薬師寺では、旧暦の2月末に行われていた修二会が新暦の3月25日から3月31日に掛けて行われるようになり、十種類の造花が本尊の薬師如来に供えられることから「花会式」と呼ばれています。

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、本日も暑くなりそうですが、九州では台風3号が去った後でも豪雨が続き、大きな被害が出ているようです。最大限の警戒が必要とのことですが、どのような対策が打てるのか、国や地方自治体として責任を持って対応することが求められています。政治家がお互いに足の引っ張り合いをしている場合ではありません。

 

さて、本日のテーマですが、梅雨に入り大分時間が経ち、そろそろ梅雨明けも近いのではないかと思います。この梅雨の前に、「春の長雨」という時期があることは、民さんご存知のことと思いますが、この3月下旬から4月にかけてシトシト降る長雨のことを「春霖(しゅんりん)」と言い、これは年中行事というよりも、弥生の風物詩の一つでしょうね。ちょうど菜の花の咲く季節ということもあり、「菜種梅雨(なたねづゆ)」とも言われています。また、「催花雨(さいかう)」とも呼ばれ、花の開花を催す雨という意味合いもあり、更にはシトシト降る「春雨(はるさめ)」の姿から、緑豆で作る食べ物の春雨の語源にもなっています。

 

この季節は、移動性高気圧と低気圧が交互に日本列島にやってきます。高気圧に覆われると晴れになる、低気圧になると雨や曇りになることはご存知かと思います。高気圧が日本の北を通ると、高気圧の南や西の端では雲ができやすくなり、これがいわゆる「前線」となります。日本の北側に高気圧、南に低気圧が生じると、この前線が停滞し、雨や曇りの日が続きます。これが菜種梅雨、すなわち春霖が生じる原因です。

 

この冬から春への変わり目の長雨である菜種梅雨の他にも、春から夏への変わり目に生じる「梅雨」、夏から秋への変わり目に生じる「すすき梅雨」、秋から冬への変わり目に生じる「山茶花(さざんか)梅雨」なんていうのもありますので、酒の席での話の種になるかもしれません。

 

蕪村の句に「菜の花や月は東に日は西に」というのがあります。先ほどの菜種ですが、これはアブラナ(油菜)である菜の花から採れる植物油のことです。今では食用油として使われますが、江戸時代は灯火用の高級油としても使われていました。菜の花自体は主に関西で広く栽培されていましたが、現在、伊豆や房総半島で栽培されている野菜としての菜の花とは別の種類で、こちらは「ナバナ」と呼ばれるものです。

 

時にはうっとうしい雨ですが、季節を素直に感じられる雨であって欲しいものです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨夜は台風3号の影響もあり、東京でもかなり激しい雨に見舞われました。たまたま昨日は帰りが比較的早かったため、土砂降りの時間は回避できたのが幸いでした。

 

さて、本日は「雑節」にもある「社日(しゃにち)」について紹介したいと思います。社日の「社」とは、生まれた土地の守護神である「産土神(うぶすながみ)」のことを指します。社日とは、その産土神を祀る日のことです。

 

前回もお話ししましたが、雑節は農作業に基づいて設けられた日ということで、この社日は農作業が始まる節目である春と、収穫の節目である秋に設けられています。具体的には春分と秋分に最も近い「戊(つちのえ)」の日とされていますが、春分や秋分の日が「癸(みずのと)」の日になる場合は、戊の日同士の中間日になるので、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とするのが一般的です。春の社日を「春社(はるしゃ・しゅんしゃ)」、秋の社日を「秋社(あきしゃ・しゅうしゃ)」とも呼んでいます。ちなみに、今年(2017年)の春社は3月22日(水)、秋社は9月18日(月)となっています。

 

では、なぜ戊の日なのでしょうか? 十干のところでも解説しましたが、「戊」は「つちのえ」と読み、「土の兄」の意味があります。「兄(え)」とは陰陽五行説でいうところの「陽」、光の側を指します。つまり、「土」が「陽」の気を得れば作物が育つことになり、これが五穀豊穣につながると考えられたわけです。ですから、春社には豊作を祈り、秋には収穫に感謝するという習わしになったということでしょう。

 

尚、社日は古来中国から伝わったようで、唐の時代(618907年)には立春・立秋後の第5番目の戊の日とされ、村人たちは仕事を休んで叢林の中にある祠に集まり、酒や肉を供えた後、そのお供え物で飲み食いし、神楽(かぐら)なども奏でられて、1日を楽しんだようです。春社には五穀の豊作を祈願、秋社には収穫の感謝と翌年の農作物の占いが行われたと言われています。この社祭は元代に廃止され、急速に衰えていったようです。

 

高見澤

 

おはようございます。7月に入り、今日で4日目。ジメジメとした暑さが続き、やっと夏も近づく梅雨らしい季節感となりました。台風3号も九州に上陸、大雨による土砂災害にも注意が必要です。東京では都議会選で自民党が惨敗、時代の大きな流れの変化を肌で実感しているところです。

 

さて、本日は「暑さ寒さも彼岸まで」でお馴染みの「彼岸」がテーマですが、その前に暦注として、一つ説明し忘れていた「雑節(ざつせつ)」について一言。暦注として「二十四節気」や「五節句」などの暦日について既に紹介した通りですが、この他に1年間の季節の移り変わりを暦日の補助的な意味合いで設けられた特別な日があります。それが雑節です。いずれも日本人の長い生活体験から生まれたもので、主に農作業がその基準になっています。一般に雑節と呼ばれるものは以下の通りです。

 

①節分、②彼岸、③社日(しゃにち)、④八十八夜、⑤入梅、⑥半夏生(はんげしょう)、⑦土用、⑧二百十日、⑨二百二十日

 

いくつか耳にした言葉があるかと思いますが、つい先日の7月2日は半夏生でした。節分については既に紹介済みで、その他の雑節については改めて紹介していきたいと思います。

 

先ずは「彼岸」ですが、そもそも「彼岸」という言葉は、もともと仏教でいうところの悟りを開いた後の涅槃の境地に達することで、それに対して今我々が無明の中にいるこの世界を「此岸(しがん)」と呼びます。人が死んだ後の「あの世」とは全く別の世界です。そもそも「仏」という極めて尊い存在に対して、日本では死んだ人を仏と呼ぶ間違った教えが広がり、それが先祖供養と結びついて、彼岸に墓参りという習慣が生まれたものと思われます。彼岸という雑節は日本独自のもので、もともと寺院行われていた祭事であったものが、暦に記載されて雑節となったようです。

 

彼岸は、春と秋の二期、すなわち春分の日と秋分の日を挟んで前後三日ずつ、計7日間を指します。彼岸の初めの日を「彼岸の入り」、終わりの日を「彼岸の明け」、春分と秋分の日を「彼岸の中日」と呼びます。一般に彼岸と言った場合は、春の彼岸を指し、秋の彼岸は「秋彼岸」または「後の彼岸」と呼びます。

 

彼岸の間、寺院では「彼岸会」と呼ばれる仏事が行われ、民間の間では御萩、団子、海苔巻、稲荷寿司などを仏壇に供え、墓参りをする習慣があります。平安初期にこの習慣が始まったとも言われていますが、日本独自の習俗に寺院での行事が結び付いたもののようで、彼岸に墓参りをするようになったのは江戸時代になってからです。この季節は、気候的にも穏やかでお出掛け日和が続くことから、こうした風習が生まれたのかもしれません。

 

春分・秋分が彼岸と結び付いた理由として、この日には太陽が真西に沈むことから、阿弥陀如来の「西方極楽浄土」と結び付けて浄土を希求したという説、昼と夜が同じ長さになる日なので「中道」の精神に合致しているからだという説などがあります。

 

高見澤

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