2017年8月アーカイブ

 

おはようございます。今日で8月も終わり、明日から9月です。この1カ月は仕事でも私事でもいろいろと変化があり、私にとって大きな転機を迎えたような気がしています。これから、ますます楽しみが増えていきそうな予感がしています。

 

さて、本日のテーマは「夏越の祓(なごしのはらえ)」です。旧暦6月末は、1年のちょうど半分が終わる時期で、この時に半年分の「穢れ(けがれ)」を落とす行事が行われます。半年に一度の厄落としである6月晦日に行われるのが「夏越の祓」であるのに対し、その半年後に行われる12月の大晦日に行われるのが「年越の祓」で、この二つの行事は対になっていて、心身を清めてお盆や新年を迎えることになります。大晦日の年越しのような派手さはありませんが、夏越の祓も大切な節目の行事です。

 

この行事の由来は、日本神話でお馴染みの伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらひ)にまで遡るとも言われていますが、朝廷の公式的な行事として定められたのは天武天皇〔生年不明~朱鳥元年(686年)〕の時代です。旧暦6月末は夏の終わりの月とされ、「夏を過ぎ越える日」ということから「夏越」と呼ばれていますが、昔は「名越し」と書かれていたようで、この「なごし」の意味は神意を和らげる「和す(なごす)」が由来ではないかとも言われています。また、6月の和風月名は「水無月」ですから「水無月の祓」とも呼ばれています。

 

夏越の祓で、厄落としの方法として「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」が行われます。「茅の輪」とは、茅(ちがや)という草で編んだ大きな輪のことで、神社の境内に設置されます。この茅の輪の中を、「水無月の夏越の祓する人は、千歳(ちとせ)の命延(の)ぶというなり」と唱えながら8の字を書くように3度くぐりぬけることで、罪や穢れを落とし、病気や禍を免れると信じられています。

 

奈良時代初期に編纂された『備後国風土記』の逸文によると、昔、北の海にいた武塔(むとう)の神が、南の海の神の女(むすめ)を呼びに旅に出た時、途中のある村で宿を請うことになりました。その村には、蘇民将来と巨旦将来という兄弟がおり、裕福な巨旦将来は受け入れを拒否、貧しい蘇民将来は武塔の神を迎え入れ、精一杯歓待しました。蘇民将来の歓待を徳とした武塔の神は、旅の帰りに再びこの村に立ち寄り、自分が素戔嗚尊(スサノオノミコト)であることを明かし、蘇民将来とその家族に、印として茅の輪を作り腰に結び付けておくように言い置いて去っていきました。その後村は疫病に見舞われることになりましたが、茅の輪を付けていた蘇民将来とその家族は疫病に罹らず、村人が死に絶える中、子々孫々まで繁栄したとのことです。

 

夏越の払いでは、茅の輪のほかに、「形代(かたしろ)」による祓を行うところもあります。人の形をした「人形(ひとがた)」、「人形代(ひとかたしろ)」に自分の穢れや災いを移し、祓い清めて川や海に流したり、お焚きあげをしたりする神事です。紙製の人形のほか、藁人形を用いるところもあるようです。このほか、「蘇民将来子孫」という札を玄関に掛けておくところもあります。

 

また、京都では、夏越の祓の際に、「水無月」という和菓子を食べる風習があります。昔、宮中では6月1日に「氷の節句」が行われており、氷室に貯蔵されていた冬の氷を取り寄せ、それを口に含むことで夏の暑さから身を護ろうと祈願していました。ところが夏の氷は庶民にとっては高嶺の花、削り立ての鋭い氷に見立てた生地に、邪気を払う小豆を乗せたお菓子を作り、6月の和風月名の「水無月」と名付けたということです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は残暑厳しく、まだまだ暑い日が続きそうな予感ですが、それでも空を見ると秋の気配が感じられなくもありません。徐々にですが、季節の移り変わりを楽しむ余裕が生まれそうです。

 

さて、本日のテーマは、「夏安居(げあんご)」です。一般的にはあまり馴染のない行事ですが、寺院などでは割と重要視されているようです。そもそも「安居(あんご)」とは、サンスクリット語(梵語)の「雨季」を意味する"varsika"、または"varsa(ヴァルシャ)"漢語訳したものですが、それぞれ個々に活動していた僧侶が、一定期間、一カ所にこもって修行することを指します。

 

原始仏教集団では、春から夏にかけての約3カ月の雨季は、外出を避けて修行に専念する習慣がありました。日本の梅雨のように健康を害しやすい時節なので、釈尊は弟子に休息を与えたのが始まりと言われています。これを「夏安居(げあんご)」、或いは「雨安居(うあんご)」と言います。祇園精舎や竹林精舎などの精舎は、そのための施設でもありました。安居中の食事は在家の信者が運び、修行者から説法を聞くことを習いとし、この安居のための居場所がお寺の始まりともいえるようで、現在のお寺とは大分性質が異なります。釈迦牟尼が安居を行った場所は、1回目が鹿野苑、2~4回目が竹林精舎、5回目が大林精舎、以降44回目まで所々不明なところもありますが、記録されているようで、祇園精舎は14回目から登場し、竹林精舎とともに5回と最も多く安居が行われた場所だったとのことです。

 

インドでは、6~10月頃は雨季になります。インドは国土が広いので、地域によってズレがありますが、取り敢えずは4月16日から90日間が安居の期間とされています。雨季には川が氾濫し、交通が不便になります。また、草木や虫がよく育つ時期でもあります。そこで、足元の悪いことから、小虫を踏み潰したり、新芽を痛めたりしないよう外出を避け、洞窟や寺にこもって修行に専念することになったとも言われています。

 

仏教が中国に伝来してからも、この夏安居の制度は受け継がれ、中国では旧暦4月16日から7月15日までの3カ月を夏安居と定めていました。日本では『日本書紀』に、天武天皇12年(683年)、「是の夏に、始めて尼僧を請(ま)せて、宮中に安居せしむ」とあるのを、夏安居の始まりと解釈しています。夏勤め、夏行(げぎょう)、夏籠り(なつごもり)などとも言われます。しかし、日本はインドのような雨季がないので、夏安居のほかに「秋安居」、「冬安居」なども生まれ、法会形式のものが多くなりました。夏安居の期間は宗派によって異なっており、一般的には旧暦4月16日から7月15日の3カ月が基本とされています。

 

延暦25年(806年)、桓武天皇の命により、15大寺と諸国の国分寺で安居が行われ、以後、官寺の恒例行事となります。平安時代以降、安居は一般寺院でも盛んに行われるようになり、特に禅宗の寺ではよく行われています。尚、冬の安居は「冬安居(とうあんご)」または「雪安居(せつあんご)」と呼ばれ、1016日~1月15日、または1116日から2月15日の間に行われます。

 

高見澤

 

おはようございます。先ほど、北朝鮮からミサイルが発射され、日本の上空を通過したとのことです。これから、ますますおかしなことが起こるような気がします。危機にどう対処するか、日頃からの心構えが重要です。

 

個人的なことですが、先週23日に父が永眠し、一昨日葬儀を終え、昨日東京に戻ってきました。しばらく、メルマガもお休みさせていただきました。本日から、再開致します。

 

さて、6月の花といえば、やはり「アジサイ(紫陽花)」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。雨の降る中、色鮮やかに咲くアジサイは、今では多くの人に親しまれていますが、昔はあまり人気のある花ではなかったようです。

 

アジサイはアジサイ科アジサイ属の落葉低木の一つで、日本原産の植物です。原種は日本に自生している「ガクアジサイ」で、海岸沿いに自生しているので「ハマアジサイ」とも呼ばれています。日本で最も古い記録は奈良時代とのことで、『万葉集』にもアジサイの花が詠まれています。

 

「言(こと)問はぬ 木すら味狭藍(あじさい)諸弟(もろと)らが練(ねり)の村戸(むらと)に あざむかえけり」

 

「安治佐為(あじさい)の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子(せこ) 見つつ思はむ(しのはむ)」

 

上の2首の和歌を見ても分かるように、『万葉集』が編纂された時代にはアジサイを「紫陽花」とは表記していませんでした。「紫陽花」が使われるようになったのは平安時代のことです。平安時代中期の学者・歌人である源順(みなもとのしたごう)〔延喜11年(911年)~永観元年(983年)〕が中国の白楽天の詩を詠んだ際に、その詩に記されていた「紫陽花」を、日本のアジサイと同じものと考え(実際は別のの植物だったとのことですが...)、これがきっかけとなって「紫陽花」の漢字が使われるようになりました。中国では、今では「紫陽花」と表記しますが、本来は「八仙花」と表記しています。

 

アジサイの花言葉は「移り気、浮気」です。ネガティブなイメージですが、これはアジサイが土壌の性質によって花色が微妙に変化することから「七変化」とも呼ばれるからで、一般的には酸性土壌では青い花を、アルカリ土壌では赤い花をそれぞれ咲かせるようです。日本の土壌は弱酸性ですから青色として親しまれていますが、アルカリ土壌の欧州では赤くなってしまいます。

 

「紫陽花や帷子時(かたびらどき)の薄浅黄(うすあさぎ)」

(アジサイの花が咲いて、帷子を着る季節がやってきた。アジサイの色はその薄浅黄の帷子色をしている。)

 

お馴染みの松尾芭蕉の句です。江戸時代には、世界にも誇れる園芸文化が根付いており、今では見られない数々の品種が開発されていたようです。しかし、アジサイの人気はいまいち、というか植木屋には嫌われ気味の存在でした。その理由は、アジサイは繁殖が容易な花で、折った茎を土に植えておくだけで株がどんどん増やせるからです。誰でも簡単に増やせる花ならば、植木屋としては商売にはなりませんね。とはいえ、一般には親しまれていたようで、芭蕉など俳句にも詠まれ、また葛飾北斎も「あじさいに燕」という絵を描いています。

 

文政6年(1823年)にオランダ商館の医師として来日したドイツ人のシーボルトは、日本滞在中にお滝という女性と恋仲になります。彼は自分の好きな花であるアジサイに、お滝にちなんで「Hydrangea otaksa(ハイドランゲア・オタクサ)」という名前を付けようとしましたが、アジサイにはすでに別の学術名「Hydrangea macrophylla」があり、認められることはありませんでした。

 

1828年、シーボルトが帰国する際に、彼の所持品の中から国禁の日本地図(伊能図)が発見されます。幕府天文方・書物奉行の高橋景保(たかはしかげやす)が洋書と交換にシーボルトに渡したもので、景保ほか十数名が捕えられ、景保は獄死、シーボルトは国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。世に言う「シーボルト事件」です。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、久しぶりにはっきりした天気になりました。都心では、8月1日から続いていた降雨の日が21日で途切れ、8月としては1977年に観測された22日に次ぐ記録となったようです。

 

そういえば、今年の梅雨は、九州などでは大変な豪雨で大きな被害が出ましたが、ここ東京では例年に比べ雨日和が少なかったように感じました。ところが、8月に入り突如長雨に見舞われ、時には肌寒く感じる日もありました。今年の気候が例年になくおかしいのは、いつもと比べ高気圧が違った場所に居座り、そのため偏西風の流れが変わってしまっているとのことだそうです。今年の台風5号が発生から18日間も存在した理由もそこにあるそうです。

 

ということで、本日のテーマは「入梅(にゅうばい)」です。入梅は雑節の一つで、もともとは二十四節気の「芒種」の後の最初の壬(みずのえ)の日、新暦の6月11日頃に当ります。現在では、太陽黄経80度を通過した日とされており、2017年は6月11日でした。この日は、文字通り暦の上での梅雨入りですが、実際の梅雨入りということではありません。梅の実が黄色く色付き、梅雨に入る頃という意味で、この日から約30日間が梅雨の期間になります。

 

稲作農家にとって、田植えの日を決めるには、梅雨の時期を知ることが大事です。今は気象情報が発達しているため、テレビやネットで梅雨の時期を知ることが容易ですが、江戸時代にはそうはいきませんので、暦の上に大体の目安として入梅という雑節を設けたのではないかと考えられています。

 

しかし、前述した通り、実際の梅雨は毎年一定でなく、毎回気象庁が梅雨入り宣言をいつ出すのかで迷っているのはご存知の通りです。テレビの気象予報士の解説をみても「梅雨に入ったとみられる」、「梅雨が明けたとみられる」とったように曖昧模糊とした表現になっていますよね。

 

当然のことながら、南北に長い日本では地方によって梅雨入り、梅雨明けは異なってきます。また、年によっても異なります。これを科学的に知ろうとした江戸時代の暦学者はさぞかし苦労したことでしょう。江戸時代中期の天文学者・西川如見(にしかわじょけん)〔慶安元年(1648年)~享保9年(1724年)〕は『百姓嚢』の中で、暦上の入梅が実際の梅雨入りと合致しないことを指摘し、「農民たるもの暦に頼りすぎて、田植え期を逸することがないよう注意せよ」と述べています。機械的に設けられた暦よりも、農民自身の実際の感覚や経験を重視しなさいということなのでしょうか。

 

中国でも「梅雨」という言葉はあります。というか、中国では梅の実が熟する頃の雨季を「梅雨(Mei-Yu)」と呼び、これが日本に伝わったと言われています。また、日本では黴が生えやすい時期なので「黴雨」と書いて「ばいう」と名付けられたとう説もありますが、やはり梅の収穫時期にあたる雨ということではないでしょうか。「つゆ」という呼び方については「露」からきているというもの、或いは梅の実が熟して潰れることから「潰ゆ(つゆ)」とするものなど、諸説あります。古くは「五月雨(さみだれ)」、「つゆ」、「ながし」などとも呼ばれていました。

 

梅雨に関連して「入梅鰯(にゅうばいいわし)」というものがあります。梅雨の時期に獲れる真鰯のことですが、脂が一番のっていて美味しい季節だとされています。

 

高見澤

 

おはようございます。先週金曜日18日、昨日月曜日21日と休暇を取得し、4連休とさせていただきました。18日は頼まれていた原稿を仕上げ、土日は入院している父親の見舞いを兼ねて長野の実家に戻り、昨日は身体の調子が悪かったので病院で検査と、結局のんびりできずじまいでした。検査の結果は少し鼻の中があれているのが原因で、喉の調子が悪くなっているとのことで、これだけ無理して仕事をしていても大した病気にもならない自分の身体の丈夫さに改めて驚いています。正直、疲れは溜まっている感じはしていますが...

 

さて、6月といえば、唯一国民の祝日が無い月として知られています。私が子供の時には6月のほかにも7月、8月、12月には祝日がなかったのですが、平成元年(1989年)に1223日が天皇誕生日となり、平成8年(1996年)からは7月第3月曜日(施行当初は7月20日)が「海の日」、平成28年(2016年)には8月11日を「山の日」として祝日が設けられて、残すは6月のみとなった訳です。

 

では、仮に6月に祝日を設けるとすると、何の日がその候補になると思いますか? その答えとして、一番多いのが6月10日の「時の記念日」ではないでしょうか。

 

『日本書紀』によると、天智天皇10年(671年)に「夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺、始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。是月、筑紫言、八足之鹿生而卽死」という記載があります。この意味は、「夏4月25日(旧暦)、漏刻(水時計)を新しい台に置き、初めて時刻を知らせる鐘や鼓を鳴らして候時(とき)を打ち、初めて漏刻を使った。この漏刻は天皇が皇太子になった時に、初めて自ら製作したもの、云々。この月、筑紫国が言うことには、八本の足がある鹿が生まれ、すぐに死んだ」ということで、これが日本における時を知らせる時報の始まりと言われています。

 

この「夏四月丁卯朔辛卯」というのが当時の4月25日で、現行の暦に計算し直すと6月10日になります。そこで、大正9年(1920年)に、時間を尊重・厳守し、生活の改善や合理化を進めることを目的に、生活改善同盟会が提唱して、6月10日を「時の記念日」とすることが定められました。

 

一方、同じく『日本書紀』の斉明天皇6年(660年)に、「夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時」とあります。ここの意味は、「夏5月8日、高麗の使者の乙相賀取文(オツソウガスモン)らが難波館(ナニワノムロツミ)に到着。この月、有司(ツカサ:役人)は勅(みことのり)を受け賜り、100の高座、100の納袈裟(のうけさ:僧の法衣)を作り、仁王般若の会を設けた。また皇太子は初めて漏刻を作り、民に時を知らせた」ということです。

 

つまり、天智天皇10年の11年前の斉明天皇6年には、既に天智天皇が皇太子時代に漏刻を製作していたことになります。天智天皇10年4月25日(新暦6月10日)は「於新臺(新しい台に置き)」とあることから、飛鳥から大津の都に移したことを記したものとの解釈もあるようです。

 

戦後の昭和22年(1947年)から、東京時計組合による「時計感謝祭」が行われています。東京の神田明神で古い時計を炊きあげ供養しています。時間に対する認識を新たにし、時間を大切にすることが求められているのかもしれません。時間というものの不可思議さを、改めて感じてみては如何でしょうか?

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、夜中に少し降ったのでしょうか、道路が濡れていました。8月に入って昨日で16日連続で雨、今日も降れば17日連続ということになります。

 

さて、本日からは6月の年中行事に移りたいと思います。

旧暦6月の和風月名は「水無月(みなづき、みなつき)」です。新暦では7月頃にあたり、6月から7月にかけて梅雨の時期になるのに、「水の無い月」というのも変な話しですが、『万葉集』に「六月(みなづき)の地(つち)さへ割けて照る日にも 我が袖乾(ひ)めや君に逢はずして」(作者不詳)という歌があります。真夏の日照りで地割れが生じるような旧暦6月の気候を詠んだものとされ、梅雨の後の暑さで水が涸れるということから「ミズナシ月」として、「水無月」の字をあてたのではないかという説があります。江戸時代中期の朱子学者・新井白石〔明暦3年(1657年)~享保10年(1725年)〕などはこの説を主張しています(『東雅』)。

 

一方これとは逆に、田植えも済んで、田に水を張る「水張り月(みずはりづき)」という説もあります。江戸時代の国学者・谷川士清〔宝永6年(1709年)~安永5年(1776年)〕などはこちらの説を唱えています(『和訓栞』)。

 

もう一つ、同じく農業に関連しますが、田植えも終わり、大きな農作業もすべてしつくしたという意味から「皆仕尽(みなしつき)」、或いは「皆尽月(みなつきづき)」の略であるとの説があります(『奥義抄』、『二中歴』)。

 

さらに、旧暦6月は雷が多いことから、「加美那利月(かみなりづき)の上下(カとリ)を略けり」という説〔賀茂真淵:元禄10年(1697年)~明和6年(1769年)『語意考』〕もあるようです。

 

この他にも、「田水乃月(たみのつき)」、「水悩月(みずなやみづき)」、「水月(みなづき)」などを語源とする説もあり、正直なところどれが真相なのかは分かりません。

 

ただ、多くの説が「水」に関係していることや、旧暦6月はやはり梅雨の季節に当ることを考えれば、「水無月」の「無」は当て字であって、やはり「水の月」であったと解釈するのが妥当ではないでしょうか。

 

高見澤

 

おはようございます。本日の東京都心も雨、これで8月に入って16日連続の雨ということだそうで、昨日までの15日連続というのは、1977年以来40年ぶりのことだとか。梅雨にはあまり降らなかった雨も、ここにきて一気に降り出し、気温の低下による作物への影響が心配されるところです。

 

さて、本日は雨にちなんだお話を一つ。新暦5月下旬、「走り梅雨」とでもいいましょうか、梅雨に先駆けて長雨が降ることがあります。この時期はちょうど「卯の花(ウツギ)」が咲き誇る頃です。卯の花とは、ユキノシタ科の落葉低木ウツギ(空木)の花のことです。

 

春から夏にかけての爽やかな日差しの下で、卯の花が生き生きと輝いて見えますが、しばらく降り続く雨に打たれて、生気を失ったように感じられる時があります。もちろん、適度なお湿りは花々にとって必要だし、時には美しさを引き立てる役割もありますが、それも度を超えると、卯の花も「もういい加減にしてくれ!」とでも言いたくなるのでしょうか。

 

この卯の花を腐らせるほど長く降り続く雨を「卯の花腐し(くたし)」と呼びます。「五月雨(さみだれ)」すなわち「梅雨」の異称ともされることもありますが、卯の花の盛りは実際の梅雨よりも少し前なので、走り梅雨と言った方が時期的にはしっくりいくかもしれません。歳時記などでは、春雨と梅雨の間の長雨と説明しています。

 

卯の花腐しについては、昔から和歌などにも多く詠われており、江戸時代にも、下記のような歌が残されています。

 

ほととぎす羽振くたよりに鳴きもせば卯の花くたす雨や待たまし

『漫吟集』 契沖〔寛永17年(1640年)~元禄14年(1701年)〕

 

山賤の垣ほはまたも訪ひてみん卯の花くたす雨ふらぬまに

『琴後集』 村田春海〔延享3年(1746年)~文化8年(1811年)〕
 

ほととぎす忍びかねたる一声は卯の花くたし降る夜なりけり

『千々廼屋集』 千種有功〔寛政8年(1796年)~嘉永7年(1854年)〕

 

この里は卯の花くたし降り初むる夕べよりこそ蚊遣焚きけれ

『調鶴集』井上文雄〔寛永12年(1800年)~明治4年(1871年)〕

 

卯の花も腐らせるような長雨でも、こうして歌に詠まれるほど愛されていたのかもしれません。江戸の人々のゆとりある生活が想像できます。卯の花の咲く頃の曇り空は「卯の花曇り」と呼ばれており、卯の花のまばゆいばかりの白さが際立つのは、晴天よりも曇天や雨の日だという解釈もあるようです。

 

高見澤

 

おはようございます。

 

本日のテーマは二十四節気の一つ、「立夏」です。立夏は旧暦4月の節気で、新暦では5月6日頃(2017年は5月5日)、天文学的には太陽が黄経45度の位置に達したときを指し、二十四節気では春分と夏至のちょうど真ん中に当り、暦の上では夏の始まりです。期間としては、旧暦4月の中気である「小満」までの間を指します。

 

新暦ではゴールデンウイークの終わり頃で、山野に新緑が目立ち始め、風も爽やかに感じられる季節です。蛙が鳴き始め、ミミズが這い出て、タケノコが生えるなど、季節的にはまだ夏到来には早い感じですが、「夏立つ」、「夏来る」などとともに、代表的な夏の季語になっています。

 

この立夏の時期は、ちょうど「端午の節句」や「八十八夜」とも重なるので、民俗や風習等についての詳述は省略します。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、時々小雨がパラパラといった情況でしょうか。先週の雨で少し暑さが和らいだ感じもしましたが、昨日は暑さが戻りました。お盆休みで休暇の方もいるかと思いますが、当方は夏休みも満足に取れず、土日出張で生じた代休も消化できない状態です。

 

さて、本日のテーマですが、「皐月」にちなんで「初鰹」といきましょう。

「目には青葉山郭公(ほととぎす)初松魚(はつがつお)」〔『江戸新道』延宝6年(1678年)〕。

 

江戸時代の俳人・山口素堂〔寛永19年(1642年)~享保元年(1716年)〕の句です。この句にある「青葉」、「郭公」、「初松魚(初鰹)」の季語はいずれも夏で、「目には」とだけして、「青葉」を表し、その次の「耳には」を省略して「郭公」を、そして「口には」も同様に省略して「初松魚」を表して、初夏を代表する3つの風物を限られた字数の中に調子よく詠み込まれており、当時から人気のあった俳句です。

 

初鰹が珍重されたのは近世になってからで、とりわけ江戸では高価なハシリの鰹を、女房を質に入れても買い求めるのが江戸っ子の粋とされていました。鰹は、スズキ目サバ科に属する熱帯産の回遊魚で、春から初夏にかけて黒潮に乗って太平洋沿岸を北上し、青葉若葉が生い茂り、ホトトギスが鳴くころに、伊豆半島や房総半島沖が格好の漁場となっています。竿による一本釣りで釣られた鰹は、その日のうちに飛脚によって江戸に届けられたというのですから、それは高値になるのは当然のことでしょう。

 

鰹の旬としては、初鰹以外に年にもう1回あります。秋の水温の低下に伴い、三陸沖の海から関東以南へ南下してくる鰹があります。これが「戻り鰹」と言われるもので、エサをたっぷり食べて脂がのっているのはこの戻り鰹の方です。初鰹は比較的さっぱりしているのが特徴で、旬のハシリとして代表されるのはやはり初鰹の方でしょう。

 

それほどまでにして初鰹が有難がられたのは、当時から初物は縁起が良いとされていたからです。初物は、実りの時期に初めて収穫された農作物であり、旬を迎え初めて獲れた魚介類などのことです。初物には、他にはない生気がみなぎっており、食べれば新たな生命力を得られると考えられていました。

 

初物七十五日(初物を食べると寿命が75日延びる)

初物は東を向いて笑いながら食べると福を呼ぶ

八十八夜に摘んだ新茶を飲むと無病息災で長生きできる

 

そして、初鰹も同様に「初鰹を食べると長生きできる」とされていました。江戸の初鰹は鎌倉あたりの漁場から供給されたため、松尾芭蕉(16441694年)は「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」と詠んでいます。

 

尚、勝浦という町が、徳島県、和歌山県、千葉県にありますが、その地名は「鰹浦(かつおうら)」に由来すると言われています。今でも鰹の水揚げの大半を占めるのは、千葉県の勝浦漁港です。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、中国出張から日本に戻ってきました。中国東北部、吉林省長春と遼寧省大連に行ってきましたが、私が行く少し前は大雨で道路が冠水の状態だったようです。人権擁護の王琳さんからの情報では、大連空港の前の道路が川のようになっていたそうです。一昨日には四川省九寨溝で大きな地震が発生するなど、中国でも自然災害による被害が続いています。地球人類は、この意味をもっと深く考えるべきでしょう。

 

さて、前回紹介した「端午の節句」の時には、菖蒲湯に入る習慣について若干ふれましたが、今回はその「菖蒲(ショウブ)」について少しお話ししておきたいと思います。

 

「菖蒲」は、「ショウブ」とも読みますが、「アヤメ」を漢字で書くと、同じく「菖蒲」となります。では、このショウブとアヤメは同じものなのでしょうか? 実は似てはいますが、まったく別の植物なのです。「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」という諺がありますが、この杜若(カキツバタ)も似ていますし、もう一つ

「花菖蒲(ハナショウブ)」というのも似てはいますがショウブ、アヤメ、カキツバタとは違う種類の植物なのです。ただ、アヤメ、ハナショウブ、カキツバタがアヤメ科アヤメ属の多年草であるのに対し、ショウブはショウブ目ショウブ科ショウブ属に属する多年草で、旧来の分類ではサトイモの仲間とされていました。このショウブ、アヤメ、ハナショウブ、カキツバタは葉や花が似ていることもあり、混同しやすく、特にアヤメはイリジェニン、イリジン、テクトリジンといった毒成分にによって皮膚炎や嘔吐、下痢、胃腸炎などの症状を引き起こしますのでご注意ください。

 

ショウブは独特の匂いを発し、また葉の形が刀の計上をしていることから、古来中国ではこの匂いが邪気を祓うと家の軒に吊るしたり、枕の下に敷いて寝たりしていました。また、ショウブの根は「菖蒲根(しょうぶこん)」という漢方薬にもなっています。ただ、苦味芳香性が健胃薬的な効果もあるようですが、副作用が強いことから内服用には使われていません。日本では奈良時代の聖武天皇(701756年)の頃から使われはじめ、肺炎、発熱、ひきつけ、創傷などの治療として根を煎じたりおろしたりして使われていたようで、打ち身には根を摩り下ろして患部に摺り込んだり、歯痛には薄荷やうどん粉に混ぜて貼ったりしています。

 

また、ショウブの葉や根をお風呂の湯に入れて沸かす菖蒲湯には、腰痛や神経痛、リウマチなどに効果があるとされ、匂いが強いことからアロマセラピーの役割も果たします。日本の戦国時代には、宮廷では菖蒲湯の習慣があったようですが、一般に庶民が菖蒲湯を楽しむようになったのは江戸時代になってからのことです。「銭湯を沼になしたる菖蒲(あやめ)かな」(宝井其角)という句にもあるように、端午の節句には銭湯が菖蒲の葉で埋め尽くされている様子がうかがえ、長屋住まいの庶民も湯屋に行って菖蒲湯を楽しんでいたことが分かります。

 

端午の時期に、ショウブの葉を使って子供たちがチャンバラをする「菖蒲切り」、ショウブの葉を束ねて地面を叩き音の大きさを競う「菖蒲打ち」といった遊びが流行ったのも江戸時代です。特に盛んだったのは享保年間(17161735年)頃までで、それ以降は次第に行われなくなっていったようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は小雨がパラパラ、比較的涼しい朝を迎えています。明後日6日から仕事で中国吉林省長春と遼寧省大連に行ってきます。帰国は9日の予定です。今月末にも同じ長春での大きな会議が予定されており、本メルマガも更新が思うようにいかないかと思いますので、その旨ご了承ください。

 

さて、皐月の年中行事と言えば、何よりも「端午の節句」を話題にしないわけにはいきません。端午の節句は既に紹介した「五節句」の一つで、旧暦5月5日を「端午」の日を祝う行事となっています。ただ、今では新暦5月5日を「こどもの日」として祝われています。

 

そもそも「端午」とは、「初五」の意味です。「端」は初め、「午」は「五」と音が同じです。つまり、端午は月の初めの午の日を指し、午と五が通じることで、古くは5月以外の月も端午とされていたようです。一方、古代中国では、太初暦(西暦前104年)以降、二十四節気の雨水を含む月を正月とすることが定められましたが、二十四節気の起点が冬至に置かれ、冬至を含む月、すなわち11月を十二支の「子の月」とし、その順番からすると5月が「午の月」となり、5月の最初の午の日は「午」が重なることで、これがまた目出度い日となったということです。

 

この端午の節句も中国から伝わってきたもので、五節句でも説明したかと思いますが、3月3日(重三)や9月9日(重陽)と同じように月と日の数字が重なる日が縁起が良い日とされて、5月5日も同様に祝日になっていました。古来、中国では、端午の日に、野に出て薬草を摘んだり、蓬(よもぎ)で作った人形を家の戸口にかけたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気を祓う行事が行われていました。

 

これが平安時代に日本に伝わり、最初は貴族の間で祝われていたものが、次第に民間へと広まっていきました。日本でも菖蒲や蓬を軒につるしたり、ちまきや柏餅を食べたりして祝いますが、昔からこの習慣はあまり変わっていません。この日に菖蒲湯に入る習慣がありますが、これは菖蒲が昔から薬草であり、邪気や悪鬼を追い払って火災を除くと信じられていたからです。

 

江戸時代以降、菖蒲は「尚武(武を重んじる)」と音が同じであることから、男の子のいる家では鯉のぼりを立てたり、甲冑・刀・武者人形などを飾って、子供の成長を祝うようになります。このことから次第に男の子の節句になっていきます。しかし、古来、日本では「さつき」を悪月(あしげつ)・物忌み月とし、「さつき忌み」と称して、田植えが始まる時期、早乙女(田植えをする若い女性)が家に籠って身を清め、田の神を迎え祀るという行事があったことから、5月の節句は元々は女性の節句であったようです。このことから、日本の5月の節句は、日本古来の「さつき忌み」の習慣と、中国伝来の「端午の節句」が融合したものという説もあります。

 

尚、端午の節句に「粽(ちまき)」を食べる習慣があるのは、古代中国・楚の国の屈原(BC343BC277年頃)が秦の張儀の謀略に踊らされる楚の懐王を諌めたが、その諫言が受け入れられず、楚の将来に絶望して5月5日に汨羅(べきら)という河に身を投じたため、その霊を弔う意味で、屈原の姉が餅を作って川に投げ入れたのが始まりだと言われています。また、中国の伝統行事である「ドラゴンボート(龍船)」の由来も、屈原を助けようとした民衆が、先を争って船を出したという言い伝えもあります。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京も比較的涼しい感じがしますが、これが次第に暑さが増し、日中は身体を壊しそうなほどの猛暑になります。電車の中で、以前書いてた「江戸の町」という文書を読み返してみて、今さらながら江戸の町の暑さ対策に感銘を覚え直したところです。

 

さて、「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」と、お馴染みの文部省唱歌「茶摘み」の一節、ということで、本日のテーマは「雑節」の一つでもある「八十八夜」です。

 

八十八夜というのは、二十四節気の一つである立春から数えて八十八日目、新暦では5月1、2日頃になります。もう少しで立夏になる時期で、農事の上では重要な節目と考えられていました。5月初旬は季節的には爽やかな時期で、夏までにはまだほど遠いのですが、「夏も近づく」というのは立夏、すなわち暦の上での夏の到来を詠ったものです。

 

昔から「八十八夜の別れ霜」、「八十八夜の毒霜」、「八十八夜(九十九夜)の泣き霜」と言われるように、特に山間部では遅霜(晩霜)の時期でもあります。種まき、茶摘み、養蚕など農家にとって、この遅霜が何よりも恐ろしく、せっかく新芽を出して成長しつつある作物に甚大な被害を与える恐れがあります。こうした被害に対する対策を注意喚起するために、暦に記されるようになったとも言われています。茶摘みや苗代の籾蒔きなどの目安にもされています。

 

この八十八夜は、中国の暦には見られず、日本独特のものだそうです。もともと暦注にはなく、一説によれば、渋川春海が貞享暦を作成した際(1684年)に、暦に記載することにしたと言われていますが、それ以前に作成された伊勢暦(1656年)には、すでに八十八夜の記載が見られることから、昔からあった八十八夜の習慣を、渋川が官暦に正式に雑節として盛り込んだのではないかと言われています。

 

「八十八」を組み合わせて一つの字にすると、「米」となります。88歳のお祝いが「米寿」と呼ばれるのはこのためです。「八」の字は末広がりで縁起の良い数字でもあることから、農耕にとって吉日されています。

 

先ほどの文部省唱歌「茶摘み」に関連して、お茶について少し解説してきましょう。お茶は1年に3回ほど摘まれます。4月下旬から5月下旬に、その年に初めて萌え出た新芽からつくられるお茶がいわゆる「一番茶」で、「新茶」と呼ばれるものです。その茶葉は秋から春にかけて蓄えられた栄養素がたっぷり含まれているので、最も香味豊かなお茶として喜ばれています。ですから、八十八夜に摘まれた新茶は、縁起物としても珍重され、神棚に供える風習もあります。そして6月中旬から7月上旬に摘まれるのが「二番茶」、7月中旬から8月下旬が「三番茶」となります。

 

大陸気候で相当に乾燥している中国では、お茶は絶対に欠かせません。最近ではスターバックス(星巴克)の普及もあってコーヒーもよく飲まれていますが、依然としてお茶の文化は廃れてはいません。日本でもおなじみの『三国志演義』にも登場しますが、古来お茶は嗜好品ではなく薬として珍重されていました。確かに100グラム何万円もするような超高級茶は、正に薬とした思えないような高貴で清々しい味わいで、心身ともにすっきりした感覚を覚えます。ただ、お茶を入れる水は、そのお茶が採れた土地の湧水が最良です。どんなに美味しい日本茶でも中国の水は合いませんし、高級な中国茶でも日本の水に合わないのは、すでに私自身経験済みです。

 

高見澤

 

おはようございます。蒸し暑い日が続いていますが、今朝は比較的涼しい感じのする東京都心です。最近特に頻繁になった北朝鮮のミサイル発射、比較的安定していたここ東アジア地域も急速に緊張が高まっていますが、まあ日本のテレビを見ていると、何とも危機感がまったく感じられない番組ばかりが流れています。世の中の動きがまったく見えていないのか、それとも敢えて見ようとしていないのか、何ともお目出度い人たちだな感じるのは私だけでしょうか...

 

「時は今、雨が下しる、五月哉」。天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、家臣明智光秀の謀判によって、織田信長が京都本能寺にて襲撃された「本能寺の変」。先の句は、その9日前の5月24日に京都愛宕神社で催された連歌の会で、光秀が信長を襲う意思を示したものであるとされています。

 

ということで、本日のテーマは「皐月(さつき)」です。「暇(いとま)なみ、五月をすらに、我妹子(わぎもこ)が、花橘(はなたちばな)を、見ずか過ぎなむ」〔『万葉集』高安王(たかやすのおおきみ)〕など、『万葉集』には「さつき」が出てくる歌が9首ほどあり、昔から人々が皐月を如何に愛していたが分かります。

 

皐月、すなわち旧暦五月は梅雨の季節であり、もともと「五月晴れ」や「五月空」というのは、今でいうゴールデンウイーク等の行楽日和のことではなく、梅雨の間の晴れの日、或いは梅雨明けの晴天の日のことを指していたようです。

 

旧暦五月になると、あちらこちらの農村では田植えが盛りを迎えます。「さつき」の語源はいずれも田植えに関係ている点は諸説同じですが、その読み方は、「早苗(さなえ)を植える月」、すなわち「早苗月(さなえづき)」が略されて「さつき」なったという説が有力です(『奥義抄』、『二中歴』)。『万葉集』や『日本書紀』などでは、「五月」を「さつき」と訓ませています。「さつき」に「皐月」や「早月」といった字をあてるようになったのは後世のことだそうです。

 

尚、花の「サツキ(サツキツツジ)」は旧暦5月に咲くことからつけられた名前で、月名の語源ではないそうです。次回からは皐月の年中行事について順次紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。時の過ぎるのも速いもので、今年ももう8月。夏が過ぎればあっという間に年末といった感じでしょうか。この地球における時間の観念の不思議さに、何となく違和感を感じるのは私だけでしょうか?時間も空間ももっと自由なものであって良いのではないかと...、あまりにも地球人は時間と空間に縛られ過ぎているのではないかと...。今、本メルマガで「江戸の暦」を題材に取り上げている意味を少しでもご理解いただければと思います。

 

さて、本日のテーマは「十三参り(十三詣り)」です。十三参りとは、旧暦3月13日(新暦では4月13日前後になるので卯月の年中行事で紹介)に、男女とも数えで13歳のお祝いをする行事で、子供の成長や幸福を祈って行われるものです。主に関西、特に京都に伝わる習慣でしたが、江戸時代以降、関東や東北など全国に広まっていきました。

 

子供の成長を祝う行事としては「七五三」がよく知られていますが、この十三参りはもう少し成長してからのものです。数え13歳と言えば、生まれの干支がちょうど一回りして初めて回ってくる年になります。古来日本においては、この頃は子供が心身ともに子供から大人に変化するという重要な節目の歳とされ、また、女の子にとっては初めての厄年に当り、厄落としとしての役割もあったようで、いずれにせよ、男女ともに成人式の意味合いがあったようです。

 

十三参りは、13歳になった男女が「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」にお詣りし、福徳と知恵を授かる、という願いが込められています。十三参りの帰り道では、後ろを振り返ると、虚空蔵菩薩から授かった知恵を返すことになるので、決して振り返ってはならないという決まりがあります。

 

虚空蔵菩薩については、一般に、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩で、丑・寅年生まれの守り本尊であると共に、十三回の追善供養を司る十三仏の最後の三十三回忌の本尊とされています。虚空蔵菩薩について、五井野正博士は『法華三部経体系(総論)』の中で「大乗経典の文字一つ一つを理解するには文殊菩薩を超えなければならない」として、「文殊菩薩を超える者は虚空蔵菩薩」と述べておられます。「文殊の智恵」を超える「虚空蔵の智恵」とはどのような世界なのでしょうか、想像もつきません。

 

空海が19歳の時、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を修すると、飛躍的に記憶力が増したという逸話から、虚空蔵菩薩を参拝するようになったとのことです。虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える修法ですが、末法のそのまた末法である現代ではどこまで意味があるのかは分かりません。

 

一方、平安時代、幼くして天皇になった清和天皇(850881年)が京都嵐山の法輪寺において、成人の証として「勅願法要」を催したのが、清和天皇数え13歳の時であったことから、数え13歳で十三参りをするようになったとも言われています。

 

清和天皇と言えば、そこから清和源氏という武家の棟梁の流れが生まれます。武家社会においては、男子の成人を示す儀式として、奈良時代以降、元服式が行われていました。元服式は数え15歳で行うのが一般的でしたが、江戸時代に入ると儀式の簡略化が進みます。半元服を行ってから本元服を行うということも行われ、この半元服が数え13歳でした。一方、女の子は数え13歳で「髪上げの儀式」というものが行われ、それまで長く伸ばし垂れていた髪を結い上げる儀式が、平安時代から行われていました。

 

十三参りが行われている主な寺院としては、京都「法輪寺」、大阪「太平寺」、東京「浅草寺」、茨城「虚空蔵堂」、福島「福満虚空蔵菩薩圓臧寺」などがあります。法輪寺では秋の十三参りというのもあるそうです。

 

高見澤

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