2017年9月アーカイブ

 

おはようございます。明後日24日から1週間程、中国に出張ですので、来週はメルマガをお送りすることはできません。ご了承ください。今回の出張は北京と広東省の広州及び深圳です。11月に日本経済界の大型訪中代表団の派遣が予定されており、今回はその事前打ち合わせで、北京にある中国の経済官庁(国家発展改革委員会、商務省、工業情報省)及び広東省人民政府の幹部の人たちと会ってきます。今のところ、日中関係は比較的良い方向に進みつつある感じがします。

 

さて、本日からは8月の年中行事に移りたいと思います。次第に本メルマガのテーマと季節が近づいてきましたね。メルマガをこのままサボらずにお送りできれば、年末までには季節にピッタリの話題が提供できるかもしれません。

 

8月の和風月名は「葉月(はづき)」です。「八月」が最初に出てくるのは『日本書紀』の「神武紀 戊午年(つちのえうまのとし)」のようで、ここではこれを「はつき」と読ませていますが、『古事記』や『万葉集』には出てこないのが不思議なところです。

 

この「葉月」の由来は諸説あるようですが、一般には木の葉が黄葉して落ちる月、「葉落ち月」が「葉月」となったという説(『和訓栞』、『奥義抄』)が有力です。江戸時代中期の歌人・似雲(じうん)〔寛文13年(1673年)~宝暦3年(1753年)〕の歌集『年浪草(としなみぐさ)』に、「葉月とは、この月や粛殺の気生じ、百弁葉を落す。ゆえに葉落月といふ。今略して葉月と称す」との説明があります。八月が又の名として「濃染月・木染月(こそめづき)」とも呼ばれていることを考えると、確かにそうなのかもしれません。とはいえ、なぜか古歌に八月を詠み込んだものはなく、もともと「はづき」の「は」が「葉」の意味であったかどうか、今のところ十分に納得できる説はありません。

 

一方、農事と関連付けて、「穂発・穂張(ほはり)月」の「ほ」と「り」が略されたものとする説(『語意考』、『東雅』)、早稲の花がつく頃なので「花(はな)月」とする説もありますが、これらはかなり無理があるような気がします。また、稲穂の「発月(はりづき)」の意味からきたという説(『大言海』)もあります。

 

少し変わった説として、この月に初めて雁が来るので「初来月(はつきつき)」とする説(『類聚名物考』)、更には南方より吹く颶風(ぐふう、台風のこと)の多き月として「南風月(はえつき)」が転化したものとする説(『新編日本古語辞典』)があります。

 

新暦8月はまだ厳しい暑さが残る候ですが、旧暦8月はすでに秋の装いを感じる季節です。時候の挨拶に「葉月の候」というのがあまり使われないのは、季節の変わり目ではっきりした季節感がないからなのでしょうか。

 

高見澤

 

おはようございます。大分涼しくなりました。今朝も半袖のワイシャツ姿で出勤したのですが、少し肌寒さを感じるようになりました。歩いていると少し汗をかくほどだったので、まだ寒いということはありませんでしたが、そろそろ長袖のワイシャツに上着が必要になりそうです。

 

さて、本日のテーマは「土用丑の日」です。土用の丑の日には、何をおいても「ウナギを食べる」というのが、現代の日本人の習慣となっています。ただ、最近ではウナギの値段が高過ぎて、なかなか満足するまで食べられないのが、残念なところではあります。今では高級食材のこのウナギですが、江戸時代は下魚として庶民の間でよく食べられており、安い魚の代名詞でもあり、川や運河のほとりの屋台で供されることが多かったようです。

 

この「土用丑の日」の「土用」ですが、「土旺用事(どおうようじ)」を略したもので、雑節の一つに数えられ、実は、土用は夏に限ったものではなく、春夏秋冬の各季節にあります。これもまた中国の陰陽五行説に由来していて、「春」、「夏」、「秋」、「冬」をそれぞれ「木」、「火」、「金」、「水」に当てはめ、それから外れた「土」を季節の変わり目として立春、立夏、立秋、立冬の前の約18日間と定めたものです。約18日としているのは、現在の旧暦の計算が定気法による天保暦に基づいているからです。定気法は太陽黄経に基づいて計算されますので、特定期間の日数が一定でないことから、土用も日数が18日ではない場合が生じます。これが寛政暦以前の平気法で計算すると、こちらは日数による計算になるので、18日と決まった期間になるというわけです。このお話は、改めて解説したいと思います。

 

ちなみに、今年2017年の土用を見てみると、定気法では以下の通りになります。

冬土用:1月17日~2月3日

春土用:4月17日~5月4日

夏土用:7月19日~8月6日

秋土用:1020日~11月6日

各土用の最初の日を「土用入り」、最後の日を「土用明け」と呼び、土用明けの日は四立の前日、即ち「節分」に当たります。

 

一方、「丑の日」というのは、以前も紹介した「十二支」を日にちに当てはめたその日を示します。つまり、約18日間の中にある丑の日が「土用丑の日」となるわけです。ですから、「土用丑の日」が2日ある場合も生じます。ちなみに2017年は、夏土用の丑の日が7月25日と8月6日の2日ありました。つまり、ウナギを食べる絶好の言い訳の機会が二回あったいうことになります。

 

夏土用の丑の日にウナギを食べるようになった由来ですが、諸説ある中で最も有力なのが、江戸時代に平賀源内〔享保13年(1728年)~安永8年(1780年)〕が考案したとされる説です。天然ウナギの旬は、本来であれば秋から冬にかけてです。とはいえ、例年5月から獲り始め、12月には漁が終了するので、当然夏にもウナギが市場に出回ります。当時、夏にウナギが売れないで困っていたウナギ屋が源内に相談したところ、源内は「"本日丑の日"という張り紙を店に貼る」というアイデアを出し、それをやってみたところその店は大繁盛し、これを他のウナギ屋もこぞって真似をして、やがて「土用丑の日はウナギの日」という風習が定着したというのです。

 

「丑の日にかごで乗り込む旅鰻(たびうなぎ)」

「旅鰻」とは地方から江戸に持ち込まれたウナギのことです。土用丑の日にはウナギの需要が高まり、江戸前だけでは間に合わなくなった様子を伺い知ることができる江戸川柳です。夏に売れないウナギを売る販売促進が当初の目的も大成功した裏には、もともと丑の日に梅干し、瓜、うどんなど、「う」のつくものを食べると病気にならないという言い伝えがあったことも幸いしたようです。

 

昔から、夏の土用の時期に、カビや虫の害から守るために衣類や書物を陰干しする「土用の虫干し」が行われていました。また、この時期の田んぼには水を入れず、土をひび割れ状態にして、雑菌の繁殖を抑え、根をしっかり張るようにします。更に、この土用の期間は「土公神(どくしん、どくじん)」という神様が支配されるといわれ、土を動かすことを忌み嫌い、農作業や家造りなどで土を掘り起こすことを避けていました。土用は季節の変わり目でもあり、体調を崩しがちなので、体を酷使する重労働を戒めていたのかもしれません。それぞれの風習にもそれなりの意味があるのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。日が明けるのも大分遅くなりました。毎日朝5時過ぎに家を出て、6時頃には職場に着くのですが、今がちょうどその感覚を実感できる季節です。

 

さて、本日は「中元」についてお話ししていきたいと思います。昨今では虚礼廃止と言われながらも、一向に廃れないのが年末の「お歳暮」と夏の「お中元」ですが、中元という言葉からそのお中元を想起する方が少なくないと思います。

 

この中元は旧暦7月15日に行われる雑節の一つで、旧暦正月15日の「上元」、旧暦1015日の「下元」とともに「三元」と呼ばれています。中国では、古代の黄帝や老子の教えに基づく「道教」が宗教として成り立っており、昔から「陰陽二元論」とは別に、「三元思想」という考え方があります。「天・地・人」、「松・竹・梅」、「白・発・中」などもこの三元思想から来ているものだと考えられます。麻雀の役満「大三元」はここから来ているのですね。

 

元々この三元というのは、暦の時間単位である「年・月・日」の初めを意味し、「元年」、「元日」などの言葉もここから来ています。この考え方が、後に1月、7月、10月の15日を、それぞれ上元、中元、下元と呼ぶようになりました。贈答のお中元というのは、この7月15日の中元に由来しているので、本来は、7月15日過ぎに送る贈答品の熨斗紙に「お中元」と記すのはおなしなことになってしまいます。

 

道教に由来する三元の思想ですが、上元は元宵節として厄除け、中元は贖罪、下元は物忌みのための行事がそれぞれ行われていました。中元の日には終日庭で火を焚き、神を祝う習俗がありました。これが、日本に伝わり、仏教の「盂蘭盆(うらぼん)〔お盆〕」の行事と混同され、盆の贈答儀礼としてお中元に受け継がれていったものと考えらます。当初は、罪や穢れを贖う意味を込めて近所に贈物をしていたものと考えられているようです。

 

旧暦7月15日というのは必ず十五夜の月、すなわち満月の日であり、日本ではこの中元の日に半年生存の無事を祝うことが本来の趣旨であったようです。これに、祖先を供養する盂蘭盆の行事が重なったのではないかと考えられます。この盂蘭盆については、8月の年中行事で改めて取り上げたいと思います。

 

江戸時代、飢饉の際などに出された倹約令では、中元のやりとりを一切禁ずる旨の条が記されていたようです。お中元としての贈答の習慣は、その頃からすでに庶民の間にもかなり定着していたことが分かります。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は台風一過でよく晴れていましたが、久しぶりに暑さを感じる1日でした。今朝はまた涼しさが戻ってきています。

 

それにしても「文月」には何かと行事が多いことに驚かされます。まだまだ続く文月の行事にお付き合いください。本日のテーマは「山開き(やまびらき)」です。山開きというのは、一般的には霊山などで毎年入山をゆする時期のことを指します。

 

山岳信仰が盛んであった昔は、霊山は神仏を祀っており、入峰修行(にゅうぶしゅぎょう)の場として山伏や僧のみの世界で、一般の人は立ち入ることのできない神聖な場所とされており、無理に入れば天狗に襲われると言われていました。しかし、江戸時代中期頃から、各地に山岳信仰の講が結成され、山頂に祀られている神を拝むための講中登山が行われるようになり、日数を決めて登山を一般の人にも開放するようになりました。この初日が「山開き」となり、解禁の期間の最終日を「山仕舞い」と呼びます。

 

夏になると、日本各地の山々で山開きが行われます。日本の最高峰、富士山の山開きは、元々は旧暦6月1日、現在の暦では7月1日に、静岡県富士宮市にある「富士山本宮浅間神社」で行われるのが一般的です。

 

白装束に鈴のついた金剛杖を携え、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱えながら登る行事を「富士詣(ふじもうで)」と呼びます。「六根」とは、本来人間が具えている五感及び第六感の根幹である六根、即ち眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)のことを指し、それを清らかにすることが「六根清浄」の意味するところとなります。江戸時代、富士登山の許された期間は山開きから旧暦の7月20日まででしたが、現在の富士登山解禁期間は新暦7月1日から8月31日までとされるのが通例です。

 

江戸で富士詣が盛んになるのは江戸時代中期からで、江戸市中には八百八講と言われるほど数多くの講があったと言われています。この講というのは、参拝登山に行くために組む登山隊のことです。とはいえ、標高3776メートルもある富士山に登ることは簡単ではありません。また、女性は登山を禁じられていました。このため、富士講の信者たちは、富士山に模して「富士塚」を築いてそこに参詣し、富士登山の代わりとしていました。関東一円にはたくさんの富士塚が築かれています。都内の富士塚としては、江東区深川にある富岡八幡宮の深川新富士、品川区北品川にある品川神社の品川富士、台東区下谷にある小野照崎神社の下谷坂本富士、渋谷区千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士、練馬区小竹にある江古田浅間神社の江古田富士などが有名です。

 

三代歌川豊国と二代歌川広重の共作で、「江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣(えどじまんさんじゅうろっきょう てっぽうすいなりふじもうで)」という浮世絵があります。元治元年(1864年)に刊行されたものです。現在の東京都中央区湊にある鉄砲洲稲荷神社には、今でも富士塚が残されていますが、もともとこの富士塚は寛永2年(1790年)に築造されたものを、移築、再築を繰り返しながら現在の場所に置かれたものです。ここの山開きも富士山に合わせて7月1日となっています。

 

尚、山開きに対して「海開き」、「川開き」という言葉があります。海開きは海水浴解禁の日で、特段昔から行われていたものではなく、時期は地方や年によって異なりますが、一般に本州では7月1日が多いようです。川開きについては、川遊び解禁の日で、江戸時代から行われている「両国川開き」が有名で、両国橋を中心とした隅田川一帯で茶店や見せ物小屋などが、通常は夕方までの営業だったのが、旧暦5月28日から8月28日までの納涼期間中は夜半まで許可されていたようです。この頃始まった花火大会が現在の「隅田川花火大会」として復活し残っています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、比較的涼しい日が続いています。九州をはじめ西日本ではこれから台風16号の影響による大雨、暴風に警戒が必要になります。明日から3連休の方もおられるかと思いますが、秋の行楽を楽しむというわけにはいかないようです。

 

さて、本日は「十王詣(じゅうおうまいり、じゅうおうもうで)」について紹介したいと思います。「十王詣」とは、毎年正月16日と7月16日を閻魔大王の賽日(さいにち)として、寺院で十王図や地獄変相図を拝んだり、閻魔堂に参詣したりすることです。「睦月」の年中行事で紹介してもよかったのですが、俳句の季語としては「十王詣」を「じゅうおうまいり」と読ませれば新年、すなわち春で、「じゅうおうもうで」と読ませれば夏になり、これはこれで面白い話でもあり、敢えてここでは「文月」のところで紹介させていただきました。

 

この十王詣の日は、地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休む日とされています。閻魔大王も鬼も毎日休むことなく働いているというのですから、戦時中「日日月加水木金金」と歌われていた時のように、まさに地獄の日々を過ごしているようにも思えますが、こんな逸話はどこから来たのでしょうか? 働き方改革で週休3日制を導入しようとしている日本では、表向きはまず受け入れられない話ですが、実際には休みなく働き続けている人も少なくありません。

 

正月16日は1年のうちで初めての閻魔賽日(えんまさいじつ)ですから、「初閻魔(はつえんま)」と呼ばれています。この日は「藪入り(やぶいり)」とも言われ、日本の商家の伝統として丁稚や女中といった奉公人が休めるのもこの閻魔詣の日だけで、多くの人が閻魔詣に行ったそうです。こうした奉公人は住み込みで朝から晩まで働き詰めで、休暇は年2回。商家というのは、今ではブラック企業に当るのでしょうか?

 

さて、この十王詣の「十王」ですが、亡者の罪を裁く10人の判官のことを指します。それぞれの王は以下の通りです。

①秦広王(しんこうおう):初七日、殺生を審理

②初江王(しょごうおう):十四日、盗みを審理

③宋帝王(そうだいおう):二十一日、不貞を審理

④五官王(ごかんおう):二十八日、嘘を審理

⑤閻魔王(えんまおう):三十五日、来世の言い渡し

⑥変成王(へんじょうおう):四十二日、生まれ変わる細かい条件を決定

⑦泰山王(だいざんおう:四十九日、六道の中から行先を選択

⑧平等王(びょうどうおう):百か日、再審

⑨都市王(としおう):一周忌、再審

⑩五道転輪王(ごどうてんりんおう):三回忌、再審

 

死者の審理は通常は7回、7日ごとに行われるとされています。7回で決まらない場合は追加の審理が3回行われます。仏事として行われる方法は、こうした考えから来ているようです。死者はこうした審理を通して、来世に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)のどこかに生まれ変わることになります。これがいわゆる「六道輪廻」と言われるものです。

 

十王の中でも、特に有名なのが閻魔王です。子供の頃、嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるなどと言われて、驚かされたものですが、今の子供たちには通用しないかもしれません。閻魔王は、一般的には地獄や冥界の主とされ、死者の生前の罪を裁く神として知られていますが、仏教の世界では天界、「六欲天」の第3天である「夜摩天(やまてん)」または「焔摩天(えんまてん)」に座する神で、この世界は時に随って快楽を得られると言われています。六欲天の第2天である「忉利天(とうりてん)〔別名:三十三天〕」までが「地居天(じごてん)」で、夜摩天から上の世界が「空居天(くうごてん)」になります。この辺りの話は、また別の機会に紹介していければと思います。

 

この十王ですが、それぞれが「本地仏(ほんじぶつ)」と対応関係にあるとされています。これは、鎌倉時代に日本で考えられたとされています。ちょうど日本で末法市思想が流行り、新興仏教が出現する時期でもあります。

秦広王:不動明王

初江王:釈迦如来

宋帝王:文殊菩薩

五官王:普賢菩薩

閻魔王:地蔵菩薩

変成王:弥勒菩薩

泰山王:薬師如来

平等王:観音菩薩

都市王:勢至菩薩

五道転輪王:阿弥陀如来

 

この十王に対応した本地仏の考えが、時代が下るとともにその数も増え、江戸時代には十三仏信仰が生まれてきます。法要の際の掛け軸として、よくこの十三仏が描かれています。上記の十王に加えて、その後の3審を行うとされる3尊は以下の通りです。

蓮華王(七回忌):阿閦如来(あしゅくにょらい)

祇園王(十三回忌):大日如来

法界王(三十三回忌):虚空蔵菩薩

 

こうした風習が本来の仏教を伝えているものとは思いませんが、普段何気なく行われている行事としては、何らかの由来があるものも少なくありません。こうした機会を利用して、宗教について自分なりに調べてみるのも面白いかと思います。既存の宗教学から真実を学ぶことはできません。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝、出勤途中に靖国神社の前の道を歩いていたら銀杏の実が落ちているのに気付きました。しばらく、銀杏の臭いに悩まされそうですが、季節的にはもう本格的な秋になってしまったようです。

 

さて、先般、浅草の「四万六千日」と「ほおずき市」のお話をしましたが、本日は入谷の「朝顔市」について紹介したいと思います。

 

入谷の朝顔市は、東京都台東区下谷にある真源寺を中心として言問通りに立つ市で、毎年7月6日から8日までの3日間行われており、120軒の朝顔業者と100軒の露店が出て終日賑わいを見せています。これもまた江戸時代から続く行事の一つで、特に知られるようになったのは江戸末期の文化・文政(18041830年)の頃、ちょうど庶民文化が最盛期を迎えていた時代で、時代を経た今でも東京の下町の風物詩になっています。

 

朝顔はヒルガオ科サツマイモ属の一年草で、ツルは左巻き、葉は広三尖形、花は大きく開いた円錐形をしており真夏に開花します。原産地は熱帯アジア、或いは西南中国からヒマラヤにかけての山麓地帯ではないかとのことです。日本では園芸用の植物として知られていますが、奈良時代末期に遣唐使が中国からその種子を持ち帰った際には、薬として利用されていました。朝顔の種子の芽になる部分には下剤としての薬効があり、「牽牛子(けんごし」という名の生薬で知られています。ただ、逆に毒性も強く、素人判断での服用は避けた方がよいようです。この生薬の名に関連し、朝顔市が七夕前後の3日間開催されるのは、「牽牛星」にちなんだものとされています。薬草として用いられていた朝顔ですが、これが観賞用として栽培されるようになったのは江戸時代になってからです。

 

真源寺は「入谷の鬼子母神(きしぼじん)」でもよく知られています。入谷鬼子母神は満治2年(1659年)、静岡県沼津の大本山光長寺の第20世高運院日融上人が、本山に勧請していた一寸八分の木像の鬼子母神を持ち、江戸に出て、現在の地に仏立山・真源寺を建立し開基したのが始まりです。この鬼子母神像は光長寺の開基である彫刻の名手、中老僧日法聖人が彫ったもので、その師匠である日蓮聖人が開眼したと伝えられています。

 

この鬼子母神は、俗に「恐れ入谷の鬼子母神」と言われ、その由来に以下のような話があります。

 

ある大名家の奥女中が腰に腫物ができてしまい、医者にも見放されてしまいます。そこで大変ご利益があると聞いた入谷の鬼子母神に、21日間の願をかけて毎日お詣りしたところ、満願の日の帰り道、橋まできたところでつまづき欄干のえぼしに腰を打ち付け、腫物の口が破れて膿が出て、間もなく完治してしまいました。この話を江戸中期の狂言師・太田蜀山人が聞き付け、そのご利益に恐れ入ったということで、上の洒落言葉を残したと言われています。

 

そもそも鬼子母神というのは、『法華経陀羅尼品(妙法蓮華経陀羅尼品第二十六)』に出てくる仏教の守護神の一人です。仏教説話によると、元々は夜叉の妻で1,000人(一説に500人、或いは1万人とも)の子供の母で、子を育てる栄養をつけるために人の子をさらっては食べていた夜叉でしたが、その悪行が釈迦の知るところとなり、釈迦は鬼子母神を戒めるために最も愛していた末っ子のピンガラを隠してしまいます。我が子がいなくなったことで、狂ったように探し回りますが、どこを探しても見つかりません。ついに鬼子母神は釈迦に助けを求めます。釈迦は鬼子母神に対し、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を喰らうとき、その父母の歎きやいかん」と、子がいなくなった親の悲しみがどれほどのものであるかを諭します。そこで我に返った鬼子母神は悪行を止め修行に努め、法華経に帰依してその守護神となったというお話です。

 

入谷の鬼子母神は、中山の鬼子母神(法華経寺:千葉県市川市)、雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺鬼子母神堂:東京都豊島区)とともに、江戸三大鬼子母神として庶民に親しまれています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心はすっかり秋らしい空気を感じるほどに、涼しくなってきました。心なしか木々の葉も少し色が変わってきたようにも思えます。これから本格的な秋に向けてまっしぐらといった感じです。

 

さて、本日は「祇園祭」について紹介したいと思います。毎年7月1日から7月31日までの1カ月にわたって京都の八坂神社で行われる祇園際は、東京の「神田祭」(神田明神、旧暦9月15日→5月中旬)や大阪の「天神祭」(大阪天満宮、6月下旬~7月25日)とともに、「日本三大祭」として、一般によく知られているお祭りです。元々は旧暦6月7日から6月14日までの1週間程だったようですが、今では1カ月の長きにわたり行われる壮大な行事となっています。

 

祇園祭は、古くは「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」と呼ばれ、貞観11年(869年)に京の都をはじめ全国各地で疫病が流行ったときに、平安京の広大な庭園であった神泉苑(しんせんえん)で、疫病退散を祈願して御霊会を行ったのが始まりとされています。当時の日本の国の数は66カ国、それにちなんで神泉苑で勅を奉じて66本の鉾を立て祇園の神を祀り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったということです。その後、平安時代の中頃からは規模も大きくなり、空車(むなぐるま)、田楽、猿楽なども加わって賑わいを見せてきました。

 

室町時代、応仁の乱(1467年)によって祇園祭も中絶しましたが、明応9年(1500年)には復活し、その頃から山鉾巡業の順位を決める鬮取式(くじとりしき)が行われるようになり、以後、町衆の努力によって山鉾の装飾も艶やかになっていきました。その後、江戸時代には京都三大火災等によって山鉾が度々焼失することもありましたが、その都度再興し、今日に至っています。京都三大火災とは、宝永5年(1708年)の「放宝永の大火」、天明8年(1788年)の「天明の大火」、元治元年(1864年)の「元治の大火」です。

 

祇園祭の始まりは、祭礼の決定と神事の打合せを行う7月1日の「吉符入り(きっぷいり)」です。1カ月の長きにわたる祭りですから、ほとんど毎日何かしらの行事が行われています。主なものを挙げると、10日の「神輿洗い」、15日の「芸能奉納」、17日の「神幸祭」、24日の「お旅所発輿」、そして祇園祭の終了を奉告し、神恩を感謝する29日の「神事済奉告祭」で基本的には終わります。祇園祭のハイライトは、16日の「宵山」と17日の「山鉾巡業・神輿渡御」です。宵山の日には、山鉾に提灯がつけられ、祇園囃子が街に流れます。山鉾の上で、笛や太鼓、鉦などが奏でられます。そして翌日には、7基の山鉾と22基の山車が市内を巡業します。

 

7月最後の31日には「疫神社夏越祭」が行われますが、これは先日「夏越の祓」でも紹介した「茅の輪くぐり」の「蘇民将来」をお祀りするもので、参拝者は鳥居に設けられた大茅輪をぐぐって厄気を祓い、「蘇民将来之子孫也」の護符を授かる儀式です。これをもって、1カ月にわたる祇園際が幕を閉じることになります。

 

ところで、祇園祭の「祇園」ですが、これもまた先日の「夏安居」でも少し紹介しましたが、「祇園精舎」に由来するもので、古代インドの舎衛国にあった僧院のことです。正式名称は「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)精舎」で、祇園精舎はそれを略したものです。須達多(スダッタ)という金持ちが釈迦に帰依した際に、古代インド・コーサラ国の祇陀(ジェータ)太子のもっていた林を買い取り、そこに僧院を立てたと言われており、王舎城の「竹林精舎」とともに二大精舎と言われています。平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声...」でよく知られた名称です。

 

高見澤

 

おはようございます。明け方パラついていた雨もすっかり上がり、雲の間から太陽が顔を出している今朝の都心です。

 

さて、前回は観世音菩薩の縁日である「四万六千日」について紹介したので、そのついでに本日は「縁日」について少し詳細に解説しておきたいと思います。

 

一般に神社仏閣のお祭りなどで、よく「縁日」という言葉が使われていますが、この縁日とは、神仏とこの世との有縁(うえん)の日ということで、「会日(えにち)」とも言われています。神仏の降誕や示現(じげん)、誓願、社堂(やしろどう)創建等の所縁のある日を選んで、祭典や供養が行われる日です。「縁」については、「結縁」、「有縁」、「因縁」といったことであることは前回紹介した通りです。つまり、四万六千日のように、その日に関係する神仏を参拝して念じれば、普段に勝るご加護を得られると一般に信じられているもので、市販の運勢暦などにも記載されています。とはいえ、これもまた他力本願的なご利益信仰に騙されて、自助努力を忘れないよう注意が必要かと思います。

 

この縁日については、すでに平安時代の頃からあったようです。『今昔物語』〔天永~保安年間(11101124年)頃成立〕には、「今日は十八日、観音の御縁日也(なり)」とあり、また、『古今著聞集(こきんちょもんじゅう)』〔建長6年(1254年)頃成立、後年増補〕には「十五日、十八日は阿弥陀、観音の縁日」とあります。前回のメルマガでも紹介した通り、特定の神仏が特定の日に信者が祈願すれば、その日に示現して参詣者を救うというご利益信仰が広く信じられていたことが分かります。寺院では、秘仏とされる本尊をその日だけ公開して開帳を行う例も少なくありません。

 

縁日は、本来は恒例的に行われていた「仏会(ぶつえ)の日」であり、元々は年1回であったものが参詣者の増加とともに月ごとに行われるようになったものもあります。具体的日にちは神仏の縁起伝説、忌み日、十二支や六十干支などに関連して設定されていますが、正直なところその根拠には意味不明なところが少なくありません。寺院からすれば、縁日を縁としてたくさんの参詣者が訪れてくれることが、寺院の存続につながると考えているのかもしれません。

 

毎月定例となっている縁日には以下のものがあります。

2日、15日、28日 不動

5日        水天宮

8日、12日    薬師

8日、15日、28日 鬼子母神

10日       金毘羅

13日       虚空蔵

16日       閻魔

18日       観音

21日       弘法大師

24日       地蔵

25日       天満宮(天神)

この他にも、亥(い)の刻は摩利支天、甲子(きのえね)の日は大黒天、寅(とら)の日は毘沙門天、己巳(つちのとみ)の日は弁財天、午(うま)の日は稲荷などの定例の縁日もあります。

 

関東では一般に縁日はその当日ですが、関西ではその前夜を縁日とよぶ習慣があるすです。いずれにせよ、今では、縁日には寺院の境内やそこに通ずる通りに様々な市や夜店が立ち並び、縁日そのものが庶民の憩いの場になっています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は二、三日前に比べれば少し蒸し暑さを感じますが、それでも残暑を思わせる暑さは感じられません。このまま秋へと向かうようにも感じられます。

 

さて、本日のテーマは「四万六千日(しまんろくせんにち)」です。一般にはあまり知られていませんが、寺社に興味のある方にはお馴染みの縁日です。縁とは「結縁(けちえん)」、或いは「因縁(いんねん)」の事を指し、縁日には特定の仏や菩薩が、特定の日に特別に霊験あらたかになるように、信者の祈願と結び付くものと信じられているようです。

 

この四万六千日は、観世音菩薩の縁日(功徳日)で、一般的には毎年7月10日に各地の寺院・神社で行われています。元々は「千日詣」や「千日参」とも呼ばれ、この日に参拝すれば1,000日参拝したのと同じ功徳が得られるものとされていましたが、江戸時代中期の享保年間(17161736年)〔元禄年間(16881704年)との説もある〕頃から46,000日参詣したのと同じ功徳があるとされるようになり、「四万六千日」と言われるようになりました。

 

しかし、なぜそうなったのかの由来はよく分かっていません。最初に千日参が始められたのは京都の清水観音とされ、それが全国に広まっていき、四万六千日になったのは江戸時代の浅草寺ではないかと考えれています。享保20年(1735年)版の『続江戸砂子』には四万六千日と記されているようで、それまでは浅草寺でも千日参といわれてとのことです。安永9年(1780年)の『閭里歳時記』には「石原清水寺の観音四万六千二参といふ事あり」とあって、その頃にはすでに四万六千日と呼ばれるようになっていたことが分かります。

 

東京では浅草寺、護国寺の四万六千日(いずれも7月10日)、愛宕神社の千日詣(6月24日)が有名で、京都では愛宕神社の千日詣(7月31日)などがあります。中でも浅草寺(本尊は観世音菩薩)の四万六千日は、前日の7月9日から始まる「ほおずき市」とともに庶民に親しまれています。このほおずき市ですが、元々は茶筅が売られていたといわれ、それが文化年間(18041818年)頃に雷避けとして赤トウモロコシが売られるようになり、明治初期に東京芝の愛宕神社の地蔵尊千日詣で癪封じや虫封じの効能があるとして売られていたほおずきの市が移ってきたものです。

 

一方、鎌倉時代に源頼朝が奥州征伐の帰りに浅草で軍勢を休ませ、日射病で倒れた兵士にほおずきの赤い実を食べさせ元気づけたとの言い伝えもあるようです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨もあがったものの、依然として空は雲に覆われている今朝の東京です。ここ最近涼しさが続いていたのですが、今日は少し蒸し暑くなるとの予報です。季節の変わり目、体調を崩す人も出てきているので、注意が必要です。

 

さて最近は天候が不安定で、日本各地で落雷の被害なども出ているようです。そこで、本日のテーマは「雷」を取り扱いたいと思います。

 

「雷に小屋は焼かれて瓜の花」

お馴染み与謝蕪村〔享保元年(1716年)~天明3年(1784年)〕の句です。雷も瓜の花も夏の季語です。雷自体は夏の風物詩の一つですが、「春雷」は春の季語、「稲妻」は秋の季語、「寒雷」は冬の季語と、一言「雷」といっても季節はバラエティに富んでいます。

 

二十四節気のうちの6月の節気である小暑の頃、すなわち新暦7月7日頃が平年ならば梅雨明けになることが多いようです。梅雨前線の動きが活発化して、局地的に集中豪雨をもたらしたり、落雷が発生したりします。これがいわゆる「梅雨明けの雷」です。一方、梅雨前線が日本列島から離れて停滞する年は「空梅雨」となり、水不足が深刻になります。

 

この雷ですが、一般には「電気を帯びた雲と雲の間、或いは雲と地上との間で起こる放電現象」という定義で、発達した積乱雲の中で発生し、雷光、雷鳴、強い雨を伴った現象です。これもまたプラズマ現象の一つです。雷の発生原理については、研究が続けられていて諸説あるようですが、正確にはまだ解明されていません。上空と地面、或いは上空の雷雲内に電位差が生じて放電が起きたときに雷が発生するらしいのですが、なぜ電位差が生じるのかは、これもまた諸説あって正確には分かっていません。

 

この「雷」という字は「かみなり」、或いは「いかずち」とも読みます。「かみなり」は「神鳴り」に通じ、「いかずち」は「厳(いか)つ霊(ち)」に通じます。シュメールの「イシュクル」、アカッドの「アダト」、ウガリットの「ハッドゥ」、古代エジプトの「バアル」、ヴェーダの「インドラ」、ギリシャ神話の「ゼウス」、ローマ神話の「ユーピテル」、北欧神話の「トール」、中国の「雷公」など世界各地の神話に雷の神が出てきますが、もちろん日本でも「雷神」の名で知られていることはご存知かと思います。

 

「雷神」もまた「らいじん」、「いかずちのかみ」と読まれ、古来民間信仰や神道における雷の神として崇められてきています。『古事記』では、火之迦具土神(ひのかぐつち)を生んだことで死んだ伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉の国に行った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、伊邪那美命の醜い姿を見て黄泉の国から逃げ出した際に、伊邪那美命が伊邪那岐命を追わせたのが雷神であったということになっています。

 

ところで、雷に関連して「稲妻」の語源を調べてみると、これも面白いことが分かりました。古来、稲が実を結ぶ時期には雷が多く発生することから、雷光が稲を実らせるという信仰があったようで、稲妻は「稲光(いなびかり)」、「稲魂(いなだま)」、「稲交接(いなつるび)」などとも呼ばれています。稲妻の「妻」は、古くは夫婦や恋人同士が互いを呼び合う際に使っていたようで、男女関係なく「妻」、「夫」ともに「つま」と言っていました。このことから、稲妻は「稲の夫」の意味で、後に「つま」に「妻」の字が当てはめられたと考えられるそうです。語源的に言えば、稲妻が雷光(光)を示し、雷が雷鳴(音)を示していることになります。

 

学問の神様として「天神様」の名で親しまれている菅原道真〔承和12年(845年)~延喜3年(903年)〕ですが、彼が死んだ後に雷神になったとも言われています。道真の死後、京都には異変が続き、藤原家の関係者が相次いで病死、延喜8年には朝議中の清涼殿に雷が落ち、多くの死者が出ます。これを道真の祟りだと朝廷は恐れ、道真の名誉回復が実現する訳ですが、それ以来道真の怨霊と雷神が結び付けられ、道真の領地であった桑原には雷が落ちなかったという伝承があったことから、何か恐ろしいことがあると厄災から逃れられるときに「くわばら、くわばら」と御呪いを唱えるようになったそうです。

 

江戸時代、雷神とともに風神がよく絵に描かれています。建仁寺蔵で京都国立博物館に寄託されている国宝の「風神雷神図」は俵屋宗達(生没年不詳)によって寛永年間(16241645年)頃に描かれたものです。また、東京国立博物館所蔵の重要文化財「風神雷神図」は尾形光琳〔万治元年(1658年)~享保元年(1716年)〕によって宝永末年(1711年)頃に描かれたものだと言われています。昔から世界各地で雷神、風神は絵に描かれたり、彫刻に掘られたりとされており、人々にとっては身近な自然信仰の対象となっていたのでしょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨、午後も後半になってから止むとの予報ですが、それにしても8月以降は雨の日が多くなっています。

 

さて、本日のテーマは「七夕(たなばた)」です。「七夕」は五節句の一つで、旧暦7月7日の夜のことを指し、「七夕祭」や「星祭」とも言われます。今では、東京などでは新暦7月7日に行われますが、この時期は梅雨明け前で星空がみえないことが多いことから、地方によっては1月遅れの8月7日に行うところも少なくありません。全国的に有名な仙台の七夕も8月7日に行われています。

 

もっとも江戸時代の旧暦7月7日は新暦の8月9日頃ですから、1月遅れの方が本来の七夕の時期に近いのかもしれません。七夕は現代人にとっては夏の行事のイメージですが、そもそも旧暦7月7日は季節でいえば秋ですから、江戸時代の人にとって七夕は秋の行事ということになります。

 

日本の七夕は、これもまた中国から伝わってきたものですが、もともと日本にあったいくつかの流れと融合して独自に発展したものです。中国における七夕の由来は、一つは牽牛星と織女星にまつわる話で、もう一つは「乞巧奠(きこうでん)」の行事です。

 

牽牛星と織女星は、日本では彦星と織姫としてよく知られています。昔々あるところに機織りの名人である織姫と働き者の牛飼いの彦星が天の川を挟んで住んでいました。やがて二人は結婚したのですが、それをきっかけに二人とも怠け癖がついてしまい、それを起こった織姫の父親である天帝が天の川を挟んで二人を離れさせてしまいました。彦星と織姫は悲しみに暮れる毎日、それを不憫に思った天帝は、まじめに働くことを条件に、1年に1回、七夕の夜に会うことを許しました。彦星こと牽牛星はわし座のアルタイル、織姫こと織女星はこと座のベガで、天の川を挟んで燦々と輝いていおり、七夕の夜に実際にアルタイルとベガが近づいて重なるわけではありませんが、このような逸話が残されています。

 

乞巧奠については、女性が手芸に巧みになることを祈る中国古来の祭事で、7月7日の夜に供え物をして、織女星を祭り、裁縫や習字などの上達を願います。これは、機織りの名人である織女星にあやかろうというもので、日本では7月6日の夜に祭壇を設置して、桃、ナス、アワビ、金銀の針と5色の糸、琴などをお供えし、裁縫や芸事の上達を願いました。もっとも習字の上達を願うのは寺子屋が普及した江戸時代になってからのことだそうです。

 

こうした中国伝来の星祭伝説とそれから発展した乞巧奠の行事が、日本古来の織物名人である「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説と結び付き、女子が裁縫の上達を祈る祭事として奈良時代に宮廷や貴族の間に取り入れられ、やがて庶民の間にも普及していきます。棚機津女の伝説とは、旧暦7月15日に水の神が天から降りて来るといわれ、川、海、池のほとりにある棚(機織りだけをすための借家)の構のある機(織物を織る道具)を用意し、その村で選ばれた穢れを知らない乙女(棚機津女)が神聖な織物を織って捧げていました。棚機津女は村の災厄を除いてもらうために、棚にこもって天から降りて来る神の一夜妻となり、神の子を身ごもり、彼女自身も神になったというお話しです。七夕を「タナバタ」と読ませるのは、この棚機津女を略したものとされ、本来「七夕」は「しちせき」と呼ばれていたようです。

 

棚機津女のことを紐解くと、それだけで1冊の本が出来上がってしまうほどなので、ここでは深く追求しませんが、『日本書紀』では、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となる木花開耶姫(このはなさくやひめ)を棚機津女として描いているようですが、なぜか『古事記』には出てきません。もっとも『日本書紀』にも『古事記』にも棚機津女という表現はないそうです。

 

もう一つの七夕の流れとして、日本古来の七夕の民族行事があります。7月のお盆の先祖祭につながるもので、お盆を迎える前に穢れを祓い清める行事として行われていたものです。七夕の日には水浴びをしたり、髪を洗ったり、墓掃除や井戸をさらったりといった風習が各地に残されています。水浴びのことを「ねむり流し」や「ねぶた流し」とも言っているようです。青森の「ねぶた祭り」は睡魔を追い払う行事として知られていますが、本来は穢れを水に流す禊(みそぎ)の行事だったようです。

 

ところで、七夕に食べる食べ物といえば何だか分かりますか? それは「素麺」なのです。その由来は古代中国の「索餅(suobing)」という小麦粉料理が始まりで、それが転じて素麺になったということですが、このほかにも、素麺が天の川のようだとか、或いは織姫の織り糸に似ているからといった説もあるようです。

 

松尾芭蕉の句に「文月や六日も常の世に似ず」というのがあり、これは七夕前後の雰囲気を詠んだものです。江戸時代、街中では7月6日の夕方に、竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てる習慣が生まれます。広重や国芳など多くの浮世絵にもその様子が描かれています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、明け方雨が降ったのでしょうか、道路が濡れていました。やはりこのまま暑さが戻らず、本格的な秋を迎えることになるのでしょうか?

 

さて、本日のテーマは「半夏生(はんげしょう)」です。以前お話しした七十二候の末候にあたり、雑節の一つにも数えられています。二十四節気の夏至が太陽黄経90度で、北半球において最も昼間が長くなる日であることはご存じかと思いますが、夏至から11日目にあたり、太陽黄経100度を通過する日がこの「半夏生」となります。新暦では7月2日頃です。

 

半夏生は、日本では梅雨の終期、田植えもそろそろ終わる頃で、農家の人たちは、どんなに天候不順であったとしても、この日までに田植えを済ませるという習慣がありました。江戸時代の農民にとっては、八十八夜とともに重要な雑節の一つでした。「半夏生前なら半作」という言い伝えがあり、田植えが遅れても半夏生前なら通常の場合の半分は収穫できるという教えだそうです。

 

「半夏」とは、もともと仏教では先日紹介した90日にわたる「夏安居」の中間、45日目を表す言葉です。また、畑に生えるサトイモ科の多年草・カラスビシャクのことでもあり、緑色をおびた鞘のある毒草として知られていますが、この半夏が生える時期という意味もあるそうです。半夏の球茎は生薬として鎮嘔薬・鎮吐薬としても用いられ、その茎は「ほぐそみ」というつわり対策の漢方薬としても使われています。

 

日本では、夏至に関連した特段の行事は行われていませんが、この半夏生の日には、天から毒気が降り、大地が陰毒を含んで毒草を生じるという言い伝えがあり、筍やワラビ、野菜を食べることを禁じたり、竹林に入ることや種まきを禁じたりといった物忌みの風習があります。

 

半夏生の時期、福井県大野市辺りでは、江戸時代から焼き鯖を食べる習慣があります。鯖の旬は脂ののる秋なので、時期的には早いような気もしますが、当時の大野藩主が漁村の年貢軽減と田植えで疲れた農民の栄養補給のために鯖を食べることを推奨する令書を出し、それを見た町の魚屋が半夏生に焼いた鯖を売り出したことがきっかけとなったとのことです。現地ではこの鯖のことを「半夏生鯖(はんげっしょさば)」と呼んでいて、今でも焼き鯖が食べられています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は曇り、9月に入って大分涼しくなりました。このまま暑さが戻らないと、作物の生育に影響が出るのではないかと心配なところです。昨日も北朝鮮が地下核実験を行ったようですが、こうした自然を無視した行為が、地球の至るところで異常現象を招いていることに、いつになったら愚かな地球人たちは気付くのでしょうか?

 

さて、本日からは7月の年中行事に移りたいと思います。7月の和風月名は「文月」と表記し、「ふづき」、或いは「ふみづき」と読みます。『日本書紀』には「欽明元年秋七月丙子朔己丑」を「きんめいがんねんあきふづきのひのえねのついたちつちのとうしのひ」と読ませており、「七月」を「ふづき」と表現しています。一方、『万葉集』には「あらたまの年の緒長く思い来し恋をつくさむ七月(ふみつき)の七日の夕(よひ)は吾も悲しも」という歌があり、ここでは「ふみつき」と表現しています。

 

「文月」の語源については、季節的に稲穂が出る時期ということで「ホミ(穂見)月」、「フフミ(含み:つぼみを持つ意)月」など、稲作に関連付けた説があり、秋風の立つ月という意味の「フミ(風微)月」に由来するという説もあります。

 

また、7月7日の七夕の行事の際に、詩歌の文(ふみ)を牽牛・織女の二星に献じたり、書物を開いて夜気にさらして虫干しする風習があったので「文月」になったとの説もあります。しかし、七夕の行事は奈良時代の養老年間(717年~724年)に中国からもたらされたもので、もともと日本にはなかった風習であることから、やはり上記の水稲耕作を語源とする方が有力とされています。

 

後世7月に「文月」の字があてられたのは、『万葉集』に七夕を詠んだ歌が載せられていることから、それが編纂された時代からあったものと思われます。七夕については、改めて紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。今日から9月、今朝の都心は比較的涼しく、暑がりの私としては半袖ワイシャツ姿でも快適に出勤してくることができました。でも、気候の変化は農家にとっては農作物の出来に大きく影響するので、気になるところです。田舎の稲も大分育っていましたが、もう一段の暑さが必要かもしれません。

 

さて、本日のテーマは「田植え」です。田植えといえば、今は5月に行われるところが多いのですが、昔は梅雨の時期(芒種の頃)、6月に集中して行われており、夏の風物詩の一つでした。今では、多くの稲作農家は田植え機を使って稲を植えていますが、私の子供の頃は、家族や親族、近所の人が集まって順番にそれぞれの家の田んぼで田植えを行ったものです。

 

この田植えですが、かつては農耕儀礼の中でも最も重要なものとして、「田植え祭(田の神の祭)」が行われていました。現在でも、寺社や皇室では「御田植祭(おたうえまつり)」として、それぞれの領田(御田)で行われ、豊作を祈念する神事の一つとなっています。御田植祭は実際に田植えをしますが、稲作の全過程を模す場合は、御田祭(おんださい)と呼ばれます。

 

この田植えの祭りは地域によってやり方が様々ですが、早苗の根を洗い清めて三束にして「三把の苗」を作り、榊や御幣(ごへい)のように神のよりまし(神が宿るところ)とする点は、どこの田植え祭りにも共通しているようで、その三把の苗を神前に供えて、豊作を祈ります。

田植えに先立ち、田の神をお迎えする「さおり(早降り)」と呼ばれる儀式が行われます。早朝から、ハレの装束を身に着けた田植え組の人たちが田の神を拝みます。それから、笛や太鼓、鉦(かね)、簓(ささら)等の楽器が奏でるお囃子に合わせて田植え唄を歌いながら苗を植えて行きます。実際に田んぼに入り田植えをするのが「早乙女(さおとめ)」と呼ばれる女性たちです。忌みごもりをして身を清めた早乙女が一列に並んで早苗を本田に植えて行きます。揃いの新しい仕事着に笠、襷(たすき)といういでたちで、昼には田の神と一緒にご馳走を食べる「神人共食(しんじんきょうしょく)」が行われます。こうしてその日の夕方までには一軒分の田植えを終わらせるのが一般的でした。

 

田植えが全て終わると、田の神を送る「さのぼり(早上り)」、「さなぶり(早苗響)」、「しろみて(代満て)」と呼ばれる行事が行われます。「さおり」と同じように、神棚に洗い清めた三把の苗をお供えし、農具を飾り、赤飯を炊いたり、餅を搗いたりしてお祝いをします。田植えに参加した人たちを集めて、早乙女を上座に据えて祝宴が行われます。家々の田植えが終わった後に行われるのが「家さなぶり」、村全体が終わった後に行われるのが「村さなぶり」ということになります。

 

「早乙女に仕形望まんしのぶ摺(すり)」松尾芭蕉『曾良書留』

 

古来、「さ(早)」には田の神を指す意味があり、「さおり」は田の神が降りて来る、逆に「さのぼり」は田の神が昇るということだったのでしょう。「さなぶり」は「さのぼり」が訛ったもので、「早苗響」は当て字です。「しろみて」の「しろ」は植える意味で、「みて」は完了するという意味のようです。ですから「植完了」とも書かれますが、苗代が満つるということで「代満て」と表した方が何となく情緒が感じらせませんか?

 

田植えに際して行われる神事の中で行われるこうしたお囃子や踊りが、いつの間にか芸能化して「田楽」となり、そこから「猿楽」や「能」などの文芸に発展していったのではないかと考えられています。

五穀豊穣を祈る行事や祭りは、田植えの他にも、春には米作りに欠かせない豊富な供水を祈る「水口祭り(みなぐちまつり)」や「雨乞い祭り」、夏には害虫対策として「虫封じ」や「虫送り」を行い、お盆が過ぎる頃は台風から逃れられるようにと「風袋様(かざぶくろさま)」を掲げ、稲刈りが終わると稲を守ってくれた案山子に感謝する「かかしあげ(案山子揚げ、案山子上げ)」や「とうかんや(十日夜)」などの収穫祭などが各地で行われています。

 

米は日本人にとって欠かせない食べ物です。そして稲作は日本に最も適した作物の一つだといえます。田舎から送られてくる米の美味さを知れば、外食の米はもう食べられません。自然の恵みに感謝を忘れず、自然を冒涜するような工業製品化した食物モドキ中心の食生活から脱却したいものです。

 

高見澤

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