東藝術倶楽部瓦版 20170913:疫病退散!-日本三大祭りの一つ「祇園祭」

 

おはようございます。今朝の東京都心はすっかり秋らしい空気を感じるほどに、涼しくなってきました。心なしか木々の葉も少し色が変わってきたようにも思えます。これから本格的な秋に向けてまっしぐらといった感じです。

 

さて、本日は「祇園祭」について紹介したいと思います。毎年7月1日から7月31日までの1カ月にわたって京都の八坂神社で行われる祇園際は、東京の「神田祭」(神田明神、旧暦9月15日→5月中旬)や大阪の「天神祭」(大阪天満宮、6月下旬~7月25日)とともに、「日本三大祭」として、一般によく知られているお祭りです。元々は旧暦6月7日から6月14日までの1週間程だったようですが、今では1カ月の長きにわたり行われる壮大な行事となっています。

 

祇園祭は、古くは「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」と呼ばれ、貞観11年(869年)に京の都をはじめ全国各地で疫病が流行ったときに、平安京の広大な庭園であった神泉苑(しんせんえん)で、疫病退散を祈願して御霊会を行ったのが始まりとされています。当時の日本の国の数は66カ国、それにちなんで神泉苑で勅を奉じて66本の鉾を立て祇園の神を祀り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったということです。その後、平安時代の中頃からは規模も大きくなり、空車(むなぐるま)、田楽、猿楽なども加わって賑わいを見せてきました。

 

室町時代、応仁の乱(1467年)によって祇園祭も中絶しましたが、明応9年(1500年)には復活し、その頃から山鉾巡業の順位を決める鬮取式(くじとりしき)が行われるようになり、以後、町衆の努力によって山鉾の装飾も艶やかになっていきました。その後、江戸時代には京都三大火災等によって山鉾が度々焼失することもありましたが、その都度再興し、今日に至っています。京都三大火災とは、宝永5年(1708年)の「放宝永の大火」、天明8年(1788年)の「天明の大火」、元治元年(1864年)の「元治の大火」です。

 

祇園祭の始まりは、祭礼の決定と神事の打合せを行う7月1日の「吉符入り(きっぷいり)」です。1カ月の長きにわたる祭りですから、ほとんど毎日何かしらの行事が行われています。主なものを挙げると、10日の「神輿洗い」、15日の「芸能奉納」、17日の「神幸祭」、24日の「お旅所発輿」、そして祇園祭の終了を奉告し、神恩を感謝する29日の「神事済奉告祭」で基本的には終わります。祇園祭のハイライトは、16日の「宵山」と17日の「山鉾巡業・神輿渡御」です。宵山の日には、山鉾に提灯がつけられ、祇園囃子が街に流れます。山鉾の上で、笛や太鼓、鉦などが奏でられます。そして翌日には、7基の山鉾と22基の山車が市内を巡業します。

 

7月最後の31日には「疫神社夏越祭」が行われますが、これは先日「夏越の祓」でも紹介した「茅の輪くぐり」の「蘇民将来」をお祀りするもので、参拝者は鳥居に設けられた大茅輪をぐぐって厄気を祓い、「蘇民将来之子孫也」の護符を授かる儀式です。これをもって、1カ月にわたる祇園際が幕を閉じることになります。

 

ところで、祇園祭の「祇園」ですが、これもまた先日の「夏安居」でも少し紹介しましたが、「祇園精舎」に由来するもので、古代インドの舎衛国にあった僧院のことです。正式名称は「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)精舎」で、祇園精舎はそれを略したものです。須達多(スダッタ)という金持ちが釈迦に帰依した際に、古代インド・コーサラ国の祇陀(ジェータ)太子のもっていた林を買い取り、そこに僧院を立てたと言われており、王舎城の「竹林精舎」とともに二大精舎と言われています。平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声...」でよく知られた名称です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年9月13日 09:48に書いたブログ記事です。

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