おはようございます。今朝、出勤途中に靖国神社の前の道を歩いていたら銀杏の実が落ちているのに気付きました。しばらく、銀杏の臭いに悩まされそうですが、季節的にはもう本格的な秋になってしまったようです。
さて、先般、浅草の「四万六千日」と「ほおずき市」のお話をしましたが、本日は入谷の「朝顔市」について紹介したいと思います。
入谷の朝顔市は、東京都台東区下谷にある真源寺を中心として言問通りに立つ市で、毎年7月6日から8日までの3日間行われており、120軒の朝顔業者と100軒の露店が出て終日賑わいを見せています。これもまた江戸時代から続く行事の一つで、特に知られるようになったのは江戸末期の文化・文政(1804~1830年)の頃、ちょうど庶民文化が最盛期を迎えていた時代で、時代を経た今でも東京の下町の風物詩になっています。
朝顔はヒルガオ科サツマイモ属の一年草で、ツルは左巻き、葉は広三尖形、花は大きく開いた円錐形をしており真夏に開花します。原産地は熱帯アジア、或いは西南中国からヒマラヤにかけての山麓地帯ではないかとのことです。日本では園芸用の植物として知られていますが、奈良時代末期に遣唐使が中国からその種子を持ち帰った際には、薬として利用されていました。朝顔の種子の芽になる部分には下剤としての薬効があり、「牽牛子(けんごし」という名の生薬で知られています。ただ、逆に毒性も強く、素人判断での服用は避けた方がよいようです。この生薬の名に関連し、朝顔市が七夕前後の3日間開催されるのは、「牽牛星」にちなんだものとされています。薬草として用いられていた朝顔ですが、これが観賞用として栽培されるようになったのは江戸時代になってからです。
真源寺は「入谷の鬼子母神(きしぼじん)」でもよく知られています。入谷鬼子母神は満治2年(1659年)、静岡県沼津の大本山光長寺の第20世高運院日融上人が、本山に勧請していた一寸八分の木像の鬼子母神を持ち、江戸に出て、現在の地に仏立山・真源寺を建立し開基したのが始まりです。この鬼子母神像は光長寺の開基である彫刻の名手、中老僧日法聖人が彫ったもので、その師匠である日蓮聖人が開眼したと伝えられています。
この鬼子母神は、俗に「恐れ入谷の鬼子母神」と言われ、その由来に以下のような話があります。
ある大名家の奥女中が腰に腫物ができてしまい、医者にも見放されてしまいます。そこで大変ご利益があると聞いた入谷の鬼子母神に、21日間の願をかけて毎日お詣りしたところ、満願の日の帰り道、橋まできたところでつまづき欄干のえぼしに腰を打ち付け、腫物の口が破れて膿が出て、間もなく完治してしまいました。この話を江戸中期の狂言師・太田蜀山人が聞き付け、そのご利益に恐れ入ったということで、上の洒落言葉を残したと言われています。
そもそも鬼子母神というのは、『法華経陀羅尼品(妙法蓮華経陀羅尼品第二十六)』に出てくる仏教の守護神の一人です。仏教説話によると、元々は夜叉の妻で1,000人(一説に500人、或いは1万人とも)の子供の母で、子を育てる栄養をつけるために人の子をさらっては食べていた夜叉でしたが、その悪行が釈迦の知るところとなり、釈迦は鬼子母神を戒めるために最も愛していた末っ子のピンガラを隠してしまいます。我が子がいなくなったことで、狂ったように探し回りますが、どこを探しても見つかりません。ついに鬼子母神は釈迦に助けを求めます。釈迦は鬼子母神に対し、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を喰らうとき、その父母の歎きやいかん」と、子がいなくなった親の悲しみがどれほどのものであるかを諭します。そこで我に返った鬼子母神は悪行を止め修行に努め、法華経に帰依してその守護神となったというお話です。
入谷の鬼子母神は、中山の鬼子母神(法華経寺:千葉県市川市)、雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺鬼子母神堂:東京都豊島区)とともに、江戸三大鬼子母神として庶民に親しまれています。
高見澤