2017年10月アーカイブ

 

おはようございます。今朝の東京は雨、太陽が見えたのも昨日の1日間だけでした。この天気の不安定さはいつまで続くのでしょうか?政治、経済、社会も不安定な日本を象徴するような天気です。本日の午後から明後日まで北京に行ってきます。明日のメルマガはお休みさせていただきます。

 

さて、長月の最初を飾るテーマは、「重陽(ちょうよう)」です。これは以前も紹介したことのある「五節句」のうちの一つで、旧暦9月9日を祝う節句です。

 

中国では、陰陽五行説により昔から数字の偶数が「陰」、奇数が「陽」とされてきました。そのうち、9月9日はその陽数の極である「9」が重なる日ということで、大変目出度い日とされ、「重陽」、または「重九(ちょうきゅう)」とも呼ばれるようになりました。前漢(西漢)の時代(BC206年~AD8年)から重陽の節句は正式な行事として定められていたようで、当時は盛大に行われ、2~3日続いたと言われています。この日には長寿を願って菊の花を飾り、香りの高い菊酒を酌み交わし、高い丘などに登って「茱萸(しゅゆ)」(かわはじかみ)の実をさしはさんで邪気を払う習慣がありました。

 

日本へは平安時代の初めに中国から伝わってきたとされ、宮中では儀礼として「観菊の宴(重陽の宴)」が催され、長寿を祝って杯に菊花を浮かべた酒を酌み交わし、群臣に詩歌を作らせていました。江戸時代には幕府によって「五節句」が制定されたことは以前にも紹介した通りですが、この重陽はその中でも最も公的な性質を供えた行事になっていたようで、武家では菊の花を酒にひたして飲み、民間では粟ご飯を食べる風習となっていました。

 

旧暦9月9日は、新暦では10月中旬から下旬で、今年(2017年)は1028日に当ります。この季節は収穫も終わり、農民の間では収穫祭が行われる時期です。栗など秋の味覚も味わえることから、「刈り上げ節供」、「栗の節句」とも呼ばれていたようですが、この頃の花と言えばやはり「菊」ですから、今でも「菊の節句」と呼ばれています。古来、中国では菊は長生きの効用がある花と考えられ、「翁草(おきなくさ)」、「千代見草(ちよみくさ)」、「齢草(よわいくさ)」などとも呼ばれ、積極的に食されてきました。今の日本では、菊は観賞用としてのイメージが強いですが、「食用菊」のように食用として栽培される菊もあり、中国では菊の花をお茶にして飲む「菊茶」の習慣が続いています。夏の暑い時期には清涼感が増して心地よいですね。

 

日本では、「9」の数字は「苦」につながることから忌み嫌われがちですが、重陽の風習の名残でしょうか、この日を「御九日(おくにち)」、9月9日・19日・29日を「三九日(みくにち)」として祝う地方もあります。九州地方では、「9日」を「くんち」と呼んでいる地方があり、有名な「長崎くんち」や「唐津くんち」は、元は旧暦の重陽の節句の日に行われていたことが、この名前の由来になっという説もあるようです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は久しぶりに太陽が顔を出しています。相変わらず少し冷え込んでいますが、割と清々しさを感じます。

 

さて、本日からは9月の年中行事、和風月名では「長月(ながつき)」の話題に移りたいと思います。『日本書紀』や『万葉集』では、「九月」と書いて「ナガツキ」と読ませています。この語源は定かではありませんが、夜が次第に長くなる月ということで、「夜長月(よながつき)」とする説が昔から信じられてきました〔『下学集(かがくしゅう)』、『二中歴(にちゅうれき)』〕。また、文化5年(1808年)発刊の鳥飼洞斎の『改正月令博物筌(はくぶつせん)』には、「長月とは、夜初めて長きをおぼゆるなり。実に長きは冬なれども、夏の短きに対して、長きを知るゆえなり」とあります。

 

一方、平安時代中期に編纂された『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』(『古今和歌集』、『後撰和歌集』に次ぐ三番目の勅撰和歌集)には、「夜昼の数はみそぢにあまらぬを など長月といひはじめけむ」〔凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、貞観元年(859年)?~延長3年(925年)?」〕という歌が載っており、この歌の意味は、「1カ月の日数が30日を超えることがないのに、なぜ長月というのか」、という疑問を呈した歌なので、当時は夜が長いという理由からという理解が一般的でなかったことが分かります。

 

江戸時代の賀茂真淵〔元禄10年(1697年)~明和6年(1769年)〕は、稲が実りを迎える月であることから、「稲刈(いなかり)月」説(『語意考』)を、本居宣長〔享保15年(1730年)~享和元年(1801年)〕は、同様の解釈により、「稲熟(いなあがり)」説(『詞の玉緒』)をそれぞれ唱えています。この他にも、稲穂が長く満ち成るという意味で、「穂長月(ほながつき)」から来ているという説もあります。

 

諸説ありますが、実際のところはどうなのでしょうか? 旧暦9月は菊の花の盛りにあるので「菊月」、或いは紅葉の季節なので「紅葉月」、「木染月(きぞめづき)」などの呼ばれ方もあり、漢語では「季秋」、「無射(ぶえき)」、「玄月(げんげつ)」などとも言われています。いずれにせよ、季節が大きく変化する時期であることは間違いありません。

 

高見澤

 

おはようございます。ここ東京は連日の雨日和で、傘が手放せません。台風21号が発生し、週末から来週にかけて日本列島に接近する可能性があるとのことで、注意が必要です。実は今週木曜日19日の夕方のフライトで中国北京に急遽出張することになりました。20日は朝から晩まで1日中会議、打合せで、21日土曜日の朝便で帰国の予定です。21日午後4時半から歌舞伎を見ることになっているのですが、台風の影響で飛行機が遅れないことを祈るばかりです。

 

さて、本日は葉月を飾る最後のテーマとして、「蝉時雨(せみしぐれ)」について紹介しておきたいと思います。蝉時雨とは、たくさんの蝉が一斉に鳴いている様を、時雨の降る音に見立てた言い回しです。俳句では「蝉」ともに夏の季語になっています。ところがおかしなもので、「ヒグラシ(蜩)」と「ツクツクボウシ(つくつく法師、寒蝉)」は秋の季語です。

 

一方、「時雨(しぐれ)」とは秋から冬にかけて一時的に降ったり止んだりする通り雨のことで、俳句では冬の季語です。この雨が竹藪や庭の石などを叩き、家の軒庇を打ちながら一時的に通り過ぎていく音を、日本人は詩情をもって「しぐれ」と表現したのでしょう。

 

蝉はカメムシ目(半翅目)頸吻亜目セミ上科に分類される昆虫で、全世界では約3,000種類ほどいるとされており、そのうち日本では30種類ほどが確認されています。蝉たちは、夏の暑い盛りを迎えると一斉に地上に這い出てきます。地下で3年から17年間(種類によって異なる)の充電期間を耐え忍んで、地上での1カ月程度(昔は1週間と言われていた)の短い寿命の中で次の世代を残すために、精いっぱいの鳴き声を上げるのです。

 

蝉といっても色々な種類があります。「ニイニイゼミ」は梅雨明けから9月頃までで、ピークは7月末、「チーチー...」と鳴きます。「アブラゼミ」は7月から9月頃までで、主に午後から夕方に「ジージジー...」と鳴きます。「ミンミンゼミ」も7月から9月頃までで、広葉樹の幹などで「ミーンミンミン...」と鳴きます。「クマゼミ」も7月から9月頃までで、関東以西、特に関西でよく見られ、「シャーシャー...」と鳴きます。そして「ヒグラシ」ですが、こちらは7月から8月頃、朝夕に林の中で「カナカナカナ...」と鳴きます。「ツクツクボウシ」は少し遅くて8月(晩夏)から9月にかけて「オーシツクツク...」と鳴きます。


「浮島や 動きながらの 蝉時雨」

小林一茶が享和3年(1803年)10月に詠んだ句〔『享和句帖(きょうわくちょう)』〕です。

 

こうした蝉の鳴き声を聞くと、日本人は夏真っ盛りの風情を感じるのではないかと思いますが、同時に暑苦しさを覚える人もいるかもしれません。緯度の関係で欧州には蝉があまり生息しておらず、中には蝉の声が雑音に聞こえてしまう人もいるようです。そんな中で、朝夕に聞くヒグラシの鳴き声は、どことなく清涼感や物悲しさを感じさせるところがあります。

 

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」松尾芭蕉〔『奥の細道』元禄2年(1689年)〕

旧暦5月27日(新暦7月13日)に出羽の国(山形県)で読まれた句ですが、時期からいってヒグラシであった可能性もあります。

 

藤沢周平が書いた長編時代小説『蝉しぐれ』は、東宝映画にもなっています。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨、ここ2、3日雨が続いています。秋の長雨、「秋雨」には時期的に少し遅いような気もしますが、この雨の後は冬に向けてまっしぐらといったところでしょうか。

 

さて、本日は、「六斎念仏(ろくさいねんぶつ)」について紹介したいと思います。六斎念仏は、盆または地蔵盆を中心に京都地方で行われる「念仏踊り」のことです。地蔵盆とは、地蔵菩薩の縁日で、昔は旧暦7月24日、今では8月2324日に京都を中心とする近畿地方で行われている行事のことですが、六斎念仏は8月25日に行われます。

 

「六斎」とは、仏教でいう「六斎日(ろくさいにち)」のことで、月のうち特に身を慎み持戒清浄であるべき日とされる8、1415232930日の6日を指します。昔は、悪鬼が出てきて命を奪う不吉な日とされ、この日に鉦をたたき、踊念仏を修したといわれています。古くはこの六斎日に基づいて行われていましたが、現存する六斎念仏は盂蘭盆や送葬に際して行われています。

 

発生は平安時代中期の「空也上人(くうやしょうにん)」〔延喜3年(903年)~天禄3年(972年)〕にあるとされ、現在では空也堂〔極楽院〕系と干菜(ほしな)寺〔光福寺〕系があります。

 

念仏踊りは口に念仏や和讃(わさん)などを唱え鉦、太鼓、瓢などを打ち鳴らしながら踊躍歓喜するもので、全国各地にいろいろな型が伝承されています。中でも京都の六斎念仏で演じられる曲目は多種多様で、念仏系の「発願(はつがん)」、「回向唄(えこううた)」、「弥陀願唱(みたがんしょう)」、「念仏」、「結願(けちがん)」等に加え、能楽系の「道成寺(どうじょうじ)」、「鉄輪(かなわ)」、「頼光」、「八島」、「石橋(しゃっきょう)」、「安達が原」等、また歌舞伎系の「和唐内(わとうない)」、「手習子(てならいこ)」等があり、更には「祇園囃子(ぎおんばやし)」や「四ッ太鼓」などもあります。楽器は笛、鉦、摺鉦(すりがね)、大太鼓、豆太鼓を用い、服装はそろいの浴衣が一般的です。

 

これらは、江戸時代に能、歌舞伎、長唄、獅子舞、万歳(まんざい、新年に家々を回り祝言を述べ舞を見せる門付芸能)、願人坊主(がんにんぼうず、江戸時代に門付けや大道芸能を演じて人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離などをした乞食僧)などの芸能を取り入れ工夫して、芸能的・娯楽的に発展しました。

京都市内の吉祥院(きっしょういん)六斎、千本閻魔堂(えんまどう)六斎などは国の重要無形民俗文化財に指定されており、このほかに京都府下から滋賀県や福井県の若狭にかけて残存しています。

 

高見澤

 

おはようございます。比較的暖かい日が続く東京ですが、今朝は雨が降り始め、風も少し出てきています。暑さ寒さを繰り返しながら、都会の自然も冬に向けた準備が進められているようです。

 

さて、本日のテーマは「後の藪入り(のちのやぶいり)」です。「藪入り」については、「十王詣」のお話しをした際に少し触れましたが、ここではそれについても詳しく紹介していきたいと思います。

 

江戸時代、住み込みの奉公人は、実際のところ正月と盆しか休暇がなかったことは、以前にも「十王詣」のところで紹介した通りです。旧暦正月16日に、1日の休みをもらって生家に帰ることを「藪入り」といい、盆の旧暦7月16日の休みのことを「後の藪入り」、或いは「秋の藪入り」と呼んでいます。昔は、奉公人には定休日などなく、また嫁いだ嫁も実家に帰ることはままならなかったので、この藪入りだけが、大手を振って生家や実家に帰ったり、遊びに出かけたりできる日でした。

 

藪入りの前日は1月15日で小正月、後の藪入りの前日は7月15日のお盆で、いずれも重要な祭日でした。そこで奉公先や嫁入り先の用事を済ませて、その翌日である16日に休みが与えられたということで、奉公人たちにとっては待ち遠しい貴重な日であったに違いありません。

 

藪入りの日に、主人は奉公人に対して着物や小遣いを与えたそうです。親元に帰ることができる者は親子水入らずの一時を過ごし、帰れない者は芝居見物や閻魔詣に出掛けたりして、年2回の休みを楽しんだことでしょう。この藪入りの伝統が、今でも正月や夏休みの帰省という形で残っています。

 

また、藪入りの時期は「閻魔賽日」で鬼も亡者も休みの日であることは前にも説明した通りです。その日に畑仕事をすると、地獄の蓋が開いて霊が飛び出してくるので、仕事をしてはいけない日とされていました。

 

藪入りの語源ですが、実家に帰るという意味の「宿入り」が訛ったという説、都会から薮深い田舎の生家に帰るからといった説があります。江戸中期の正徳2年(1712年)に編纂された類書(百科事典)『和漢三才図絵』(寺島良安編纂)には、「孤独な身の上の者は、帰る家もないので、薮の中に入って遊ぶのも随意という意味だろうか」との解釈が載っているようです。関西では、「6」という数字から「六入り」、九州では「親見参(おやげんぞ)」などと呼ぶところもあります。

 

とても嬉しい事や楽しい事があったときに、「盆と正月が一緒に来たようだ」と表現することがありますが、これもまたこの藪入りの嬉しさが語源になっているようです。

 

藪入りは「走百病(そうひゃくへい)」とも呼びます。休みをもらった奉公人は、寺の境内や門前の店で遊ぶことが多く、走百病を藪入りの別名としたようです。北京など中国の北方地域の伝統民族文化として明・清の時代から正月16日(又は15日)に寺院に詣でる習慣があります。これを「走百病(zoubaibing)」、「遊(you)百病」、「散(san)百病」と言うそうですが、何かしら関連がありそうですね。

 

高見澤

 

おはようございます。今、テレビを見ると日本列島は衆議院選挙一色で賑わっているようですが、世界に目を向けてみるともっと真剣に対処しなければならない問題が山積していると思うのですが...。まあ、それが今の日本かもしれません。毎日通勤の電車に乗っていても、生気の感じられない人の多さに驚きます。

 

さて、本日は「放生会(ほうじょうえ)」について紹介していきたいと思います。放生会とは、捕えた魚介、鳥、動物などを殺さないで、池や川、山林に放つ法事で、殺生を戒める儀式の一つです。昔は旧暦8月15日に行われていました。

 

インドでは、釈迦在世のときから行われていたと伝えられています。日本で『法華経』、『仁王経(にんのうきょう)』とともに「護国三部経」とされている『金光明経(こんこうみょうきょう)』という経典があります。これを中国の唐の義浄が漢訳したものが『金光明最勝王経(こんこうみょうきょうさいしょうおうきょう)』ですが、そこの「長者流水品(ちょうじゃるすいほん)」には、釈迦が前世で流水長者であったときに、流れを堰き止められて死にそうな魚のために、20頭の巨象に水を運ばせてこれを注いで命を救い、法を説いて放生したところ、魚たちは「忉利天(とうりてん)」(三十三天)に生まれ変わり、流水長者に感謝報恩したという本生譚(ほんしょうたん)〔ジャータカ、前世の物語〕が説かれています。また、『梵網経(ぼんもうきょう)』には、「生類は人間の前世の父母かもしれないので、その命を救い、教えて仏道を完成させてやるべきだ」という趣旨のことが記されているようです。

 

こうした説話が中国に伝わり、中国の南北朝時代末期、中国天台宗の開祖である「智顗(ちぎ)」(天台大師、538年~597年)がこの流水長者の本生譚に習い、漁民が雑魚を捨てている様子を憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取り、放生池(ほうじょうち)をつくりそこに魚たちを放し、殺生を止めたという話が残っています。もっとも中国では、戦国時代初期の道家の思想家である列禦寇(れつぎょこう)によって書かれた『列子』〔冲虚至徳真経(ちゅうきょしとくしんきょう)〕にも、「正旦に生を放ちて、恩あるを示す」とあり、古来、殺生を戒める考え方があったことが分かります。

 

乾元2年(759年)、唐(618年~907年)の第10代皇帝・粛宋(しゅくそう)〔景雲2年(711年)~宝応元年(762年)〕が長江沿岸各地に81カ所の放生池を設け、著名な書家・顔真卿(がんしんけい)〔景龍3年(709年)~貞元元年(785年)〕がそれに関する碑銘を書いている話は有名です。また、宋(960年~1279年)の時代、杭州西湖の三潭印月の周囲を放生池として、仏生日に供養の放生会を催した史実があるようです。

 

日本における放生会は、養老4年(720年)に反乱を起こして鎮圧された隼人(はやと)の怨念を鎮めるために、同年または神亀元年(724年)に八幡神の託宣により宇佐神宮(大分県宇佐市)で放生会を行った〔始まりについては、このほか天平16年(744年)など諸説あり〕のが始まりと言われています。ただ、『日本書紀』には、天武天皇5年(676年)8月17日条に「諸国に詔して放生せしむ」とあり、飛鳥時代にはすでにこの風習が行われていたのではないかとも思われます。このほかにも、敏達天皇7年(578年)には六斎日(ろくさいにち)に殺生禁断を畿内に令したり、推古天皇19年(611年)5月5日に聖徳太子が天皇の遊猟を諌しめたりなど、殺生を戒める風習がありました。

 

その後、京都石清水八幡宮でも貞観4年(863年)に放生会が行われ、平安時代の天暦2年(948年)には勅命による勅祭となりました。鎌倉八幡宮では、文治3年(1187年)から行われるなど、各地の八幡宮で古くから行われるようになりますが、明治元年(1868年)以降、神仏分離により神事としての放生会は廃止され、代わりに「仲秋祭」が行われるようになりました。古来、1200年に渡り旧暦8月15日に行われてきたこの祭礼も明治の廃仏毀釈で形態を変えざるを得なくなったのです。宇佐神宮では、現在では体育の日(10月第二月曜日)を最終日とする3日間(土曜~月曜)に仲秋祭が行われており、石清水八幡宮の放生会は「石清水祭」と呼ばれ、新暦の9月15日に行われています。また、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)の「放生会(ほうじょうや)」は春の「博多どんたく」、夏の「博多祇園山笠」とともに、博多三大祭りに数えられており、9月12日から18日まで開催されています。

 

尚、江戸時代の放生会は仏事というよりも、庶民の娯楽という性格が強かったようです。文化4年(1807年)には、江戸・門前仲町にある富岡八幡宮の放生会に集まった参詣客の重みで永代橋が崩落するという事故の記録が残っています。「放し亀、蚤も序(ついで)にとばす也」という小林一茶〔宝暦3年(1763年)~文政10年(1828年)〕の句は亀の放生会を詠んだものです。歌川広重〔寛政9年(1797年)~安政5年(1858年)〕の『江戸名所百景 深川万年橋』も亀の放生会を描いた浮世絵です。当時の亀の値段は一匹四文(100円)、子供たちが買った亀を川に放ち、亀売りはそれをまた捕まえて、再び子供たちに売るという、今では「何だそれは」と思われる商売も、当時は大人も子供も気軽に買って気軽に話すという娯楽性の強い祭事であったことが分かります。捕えられている生き物を逃がしてやることで、何か善い行いをした気分になり、人としての徳を積んだ思いもあったのでしょうか。見方を変えれば、浦島太郎伝説を想起される話ですね。

 

高見澤

 

本日は、少し毛色を変えて我が故郷、長野県佐久地方で行われている重要な8月の行事について紹介したいと思います。

 

普通、墓参りと言えば彼岸やお盆の頃というのが一般的ではないでしょうか。ところが長野県佐久地方(佐久市、小諸市、南佐久郡、北佐久郡)では、毎年新暦8月1日に行われているのです。今でも事業所によっては、この日を休日扱いするところもあるようです。子供の頃は何の疑問も感じることなく、それが当たり前のこととして、祖母や両親と一緒に8月1日に墓参りをするのが常でした。私の生まれた南佐久郡佐久穂町(旧佐久町)では、7月27日、28日に行われる祇園祭とともに、唯一花火をすることが許される夏休みの楽しみの日であったことを、今でも鮮明に覚えています。先日亡くなった父親が、毎年その数日前には親戚の人たちと寺の敷地内にあるお墓に、草刈りや掃除に赴いていました。

 

では、なぜ彼岸でもなくお盆でもない8月1日なのでしょうか? こうした疑問が湧いて出てきたのは、やはり故郷である佐久を離れてからです。佐久という小さな地域の中では当たり前であったことが、外に出てみるとそれが特殊なものであることが分かる機会も少なくありません。この8月1日の墓参りもかなりの特殊性を帯びていることが、佐久を離れてみて始めて分かったということです。

 

江戸時代、寛保2年(1742年)旧暦8月1日、長野県の千曲川及び犀川流域で大洪水が発生します。その当時の被害の記録から、台風が大坂付近に上陸し、北上して中部・関東地方を縦断、三陸沖から太平洋に抜けたようで、秋雨前線の活動に刺激を与えたとも言われています。7月27日から降り始めた雨は、ほとんど止むことなく8月1日まで続き、千曲川とその支流は大氾濫、大洪水となり、一部で山崩れを引き起こしました。千曲川上流にある現在の南佐久郡佐久穂町上畑の集落は一夜にして流失、248人が溺死、佐久平各地で流失家屋230戸余り、小諸では浅間山麓から流下する中沢川や松井川で土石流が発生して小諸の町を直撃、死者584人、流家373戸の大被害をもたらしたとされています。この未曾有の大被害は、寛保2年が「壬戌(みずのえいぬ)」の年であったことから「戌の満水」と呼ばれています。

 

この「戌の満水」による被害は、佐久地方だけではなく、その千曲川の下流にある小県(ちいさがた)、上田、長野の各地方でも発生し、千曲川流域だけで約2,800人の犠牲者が出たとされています。田畑の被害も尋常ではなく、これによる松代藩の財政の困窮も明治まで続いたとのことです。この台風による暴風雨の影響は千曲川や犀川のみのらず、関東の利根川、荒川でも大洪水が発生、関八州全域に被害が及び、田畑の流失は80万石に達したと言われています。

 

佐久地方では、この「戌の満水」によって亡くなった人の菩提を弔うために、大洪水が発生した8月1日に墓参りをするようになったということです。もっとも旧暦8月1日は、新暦では8月30日に当りますが、今では8月1日という日にちだけが残り、新暦8月1日に墓参りが行われています。この風習は、どういう訳か佐久地方特有のもので、同じように被害にあった上田や長野など他の地方では残っていません。

 

こうした地域独特の風習を、江戸と絡めて調べてみるのも一興です。それに、浮世絵のような証拠となるような画像があると面白みが倍増します。

 

高見澤

 

おはようございます。この三連休は、皆さんはどのようにお過ごしだったでしょうか? 幸いにも天気にも恵まれ、行楽に出掛けられた方もいたのではないかと思います。私は、8月に亡くなった父の四十九日の方法で故郷に帰っていました。8日に法要を済ませて中央高速を使って東京に戻ってきたのですが、酷い渋滞につかまってしまい、通常であれば3時間半から4時間もあれば着くのに、6時間も費やしてしまいました。連休中日の夜の首都高4号線の上りは、当然混雑が予想されるところですが、新宿から三宅坂の区間に道路工事のための車線規制が行われており、これがまた酷い渋滞の原因となっていました。これが急な補修工事であれば仕方ないと思うところですが、そうでなければ、東日本高速道路による道路整備の計画性のなさに呆れるてしまいます。今の日本、何の考えもなしに、ただスケジュールに従って事を行う風潮が増えています。こんな日本に「おもてなし」を語る資格はありません。

 

さて、8月といえば、何と言っても楽しみなのが夏休みです。最近ではフレックスに、一定期間内に交代で休みをとる制度を採用している企業もありますが、一般的には「お盆」を挟む時期を一斉に夏休みとしている企業が多いかと思います。ということで、本日は「お盆」について紹介したいと思います。

 

このお盆は、正式には「盂蘭盆(うらぼん)」と呼び、古代インド語の一つであるサンスクリット語(梵語)の「ウランバナ」が中国に伝わって漢字に当てはめられたものとのことです。釈迦の弟子である目連が、餓鬼道に堕ちた亡母を救うために、釈迦から教えられた衆僧供養(比丘への布施)を「安居」最後の日に行ったとされることから、旧暦7月15日を先祖供養の大切な日となったと伝えられています。ただ、この説話が書かれている「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」自体が「偽経」ということで、経典が中国に伝わってから撰述・抄出されたものとされており、物語の真偽は定かではありません。

 

一方、中国では仏教が伝来する以前から死者への祖霊の儀式があり、「ウランバナ」とこの儀式が一緒になって日本に伝わり、日本独特の祖霊信仰になったとされています。お盆の時期には、お寺では「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という法要を執り行いますが、各家庭では故人の霊が帰ってくるといわれ、お供えや提灯を飾ってお迎えします。

 

お盆の時期は、江戸時代以前は旧暦7月15日を中心として、13日に迎え火(迎え盆、宵盆)、16日に送り火(送り盆)を行っていました。新暦になると、お盆の時期が農作業の繁忙期と重なるため、ひと月遅れの8月13日から16日にお盆を迎えるようにするところが多くなり、一般的にお盆は8月というイメージが広がっていますが、地域によっては今でも7月13日から行うところもあるようです。

 

迎え盆には、夕刻にオガラ(麻の茎)を焚いて迎え火とし(魂迎え)、送り盆の夜に再び焚いて送り火(魂送り)とします。我が故郷(長野県佐久地方)では、稲わらを焚いていました。各地で行われる「灯籠流し」や「精霊(しょうろう)流し」も魂送りの民俗行事です。毎年8月16日に行われる京都の「大文字焼き」も魂送りの送り火です。

 

お盆の期間中、各地の寺社境内や広場などでは、櫓を組み、太鼓や笛の音に合わせて老若男女が輪になって踊る「盆踊り」が行われます。死者を供養する念仏踊りが始まりとされており、中世以降、都会や農村の民衆行事として定着しています。毎年8月12日から15日まで行われる徳島県の阿波踊りも、この盆踊りの一種とされています。

 

最後にもう一つ、豆知識として「新盆(にいぼん、あらぼん、しんぼん、はつぼん)」について紹介しておきたいと思います。この新盆は故人の四十九日が済んだ後に初めて迎えるお盆のことです。新盆には、故人の霊が初めて家に戻ってくることから、普段のお盆よりも丁寧にお迎えをする習わしがあります。我が家にとっても来年8月のお盆が新盆になります。

 

高見澤

 

おはようございます。東京は大分肌寒くなりました。これから徐々に寒さ対策をしていかなければなりませんね。今年のノーベル文学賞は期待の村上春樹氏ではなくて、日系英国人のカズオ・イシグロ氏でした。何かと裏がありそうなノーベル賞ですが、日本関係者が受賞したことを聞けば、それなりに何となく嬉しい気持ちにはなります。

 

さて、本日のテーマは「六道参り(ろくどうまいり)」です。この六道参りは、毎年8月7日から8月10日に、京都市東山区にある大椿山・六道珍皇寺(だいちんざん・ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)で行われる「精霊迎え(しょうらいむかえ)」の行事です。京都では、8月13日から8月16日まで盂蘭盆(うらぼん)が行われますが、その前の8月7日から10までの4日間に精霊(御魂)を迎えるめに、六道珍皇寺に参詣する風習があります。このことを「六道参り」あるいは「お精霊さん迎え」とも呼んでいます。

 

平安時代、六道珍皇寺のある鳥辺山の麓は墓所として名高かったこともあり、古くからこの辺りが冥土への分かれ道、生死の境、冥界への入り口、六道の辻などと言われてきました。そして、盂蘭盆には、冥土から帰ってくる精霊たちも、必ずここを通るものと信じられてきました。

 

「六道」は、以前にも「六道輪廻」ということで、本メルマガでも少し触れてみたことがありますが、ここで詳細に説明しておきたいと思います。「六道」とは、仏教の教義で、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つの冥界を指し、それぞれの生命体は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生するというものです。この六道の分岐点、即ちこの世とあの世との境となる辻が、昔から六道珍皇寺にあると信じられているのです。

 

「愛宕(おたぎ)の寺も打ち過ぎぬ、六道の辻とかや。実(げ)に恐ろしやこの道は、冥土に通ふなるものを。心ぼそ鳥辺山、煙の末も、うす霞む...」〔謡曲「熊野(ゆや)」〕

 

六道珍皇寺の起源は定かではありませんが、最も有力な説としては、延暦年間(782年~805年)に、真言宗の開祖である弘法大師・空海の師の慶俊(けいしゅん)が創建し、愛宕(おたぎでら)と言われたというものです。空海が創建したという説、あるいは小野篁(おののたかむら)〔延暦21年(802年)~仁寿2年(853年)〕が創建したとの説もあります。また、承和3年(836年)に豪族の山代淡海(やましろのおおえ)らが国家鎮護の道場として創建したという説もあります。鎌倉時代には、東寺(教王護国寺)に属している真言宗のお寺であったようですが、兵火により荒廃、その後、貞治3年(1364年)に京都建仁寺の聞渓良聡(もんけいりょうそう)が再興し、真言宗から臨済宗に改められたとのことです。明治時代には一時建仁寺に併合されたこともありましたが、明治43年(1910年)に独立、今でも臨済宗建仁寺派の寺院となっています。

 

六道参りの期間中、六道珍皇寺の秘仏である6体の観音菩薩像が開扉され、六道に迷っている霊を、観音の加護によって各々の家に迎え、供養すると言われています。参詣人は、この日、「迎え鐘(むかえかね)」という鐘をついて精霊を迎え、門前で槇の枝と早稲を買い求める習わしがあります。迎え鐘は十万億土の冥界に響き渡るとされています。

 

この六道参りは、六道珍皇寺のほかに、京都市上京区にある「千本釈迦堂(大報恩寺)」でも行われており、こちらの期間は毎年8月8日から12日までと16日です。こちらでも秘仏の六観音菩薩像(聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音)の御開帳があります。千本釈迦堂の創建は承久3年(1221年)とされています。

 

六道を廻る輪廻の旅、そこからの解脱こそが彼岸。霊や魂さえも科学的でないと否定される現代ですが、現にこうした信仰は今でも続いています。さて、真実は一体どこにあるのでしょうか?

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は少し冷え込んだ感じがします。すっかり秋の様相を呈しています。日ごとに寒さが増すことでしょう。

 

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」

お馴染み『古今和歌集』に載せられている藤原敏行〔??~延喜7年(907年)又は延喜元年(901年)〕の秋立つ日に詠んだとされる名歌です。この歌にある「おどろく」は「ハッと気付く」という意味で、「秋が来たとははっきりと目に見えてはいないけれども、風の音でハッと気が付いた」という解釈になります。

 

ということでは、本日は「秋立つ日」、すなわち「立秋」をテーマに紹介していきたいと思います。立秋は本メルマガでもすっかりとお馴染みになった二十四節気の一つで旧暦7月の節気、定気法でいうと太陽黄経135度の時で、新暦では8月7日頃です。この時期、日本では立秋とは名ばかりで、気温はますます上昇し、夏真っ盛りといった季節ですね。ちなみに2017年は8月7日が立秋でした。

 

立秋が秋らしくないのは、旧暦と新暦のズレによるものと思っている人が少なくないと思いますが、それは誤解です。暦の日付は改暦によってズレても、二十四節気はずらすことができません。旧暦の時代も立秋は暑かったことに変わりはありません。もっとも二十四節気が生まれた中国の中原地帯は、大陸性気候のため、この時期を境に気温が下がり始めるようですが、北京や上海など中原から離れた地域では、日本と同じように猛暑が続く季節です。

 

季節の一つの区切りとして位置付けられる立秋ですが、この立秋を過ぎた暑さのことを「残暑」と呼んでいます。これに対し、暦の上では(実情は別として)、1年で最も暑い時期のことを「暑中」と呼び、夏の土用の約18日の期間を指します。時候の挨拶を「暑中見舞い」とするか「残暑見舞い」とするかの境目となるのがこの立秋であることを覚えておくと、恥をかかなくてすむことになります。

 

「秋立つや何に驚く陰陽師」

江戸時代の俳人、与謝蕪村〔享保元年(1716年)~天明3年(1784年)〕の句ですが、先の藤原敏行の歌と併せてこの句を解釈してみると、「文化人である藤原敏行は、風の音で秋の到来にハッと気付いたのだが、天文・暦数の専門家たる陰陽師は何によって気付かされるのだろう」、という一種の洒落を感じることができます。そんな余裕を、我々も日々の生活の中に持ちたいものです。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は雨がパラついています。地下鉄の駅から職場まで10分もかからない坂道ですが、途中で傘をささざるを得なくなりました。今日は1日曇りの予報ですが、雲が厚く若干のお湿りがあるのかもしれません。

 

さて、前回は青森の「ねぶた祭り」を取り上げましたので、本日は同じ「東北三大祭り」の秋田の「竿燈(かんとう)祭り」をテーマにお届けしようと思います。

 

竿燈祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されています。開催される場所は秋田市中心部、時期は8月の初めで、2017年は8月3日から6日まで行われました。

 

この竿燈祭りもねぶた祭り同様に、睡魔を追い払う「眠り流し」の行事で、江戸時代から行われてきており、その原型となるものは宝暦年間(17511764年)にはすでにあったとされています。現在残っている最も古い文献としては、江戸時代中期の国学者・津村淙庵〔元文元年(1736年)~文化3年(1806年)〕が寛政元年(1789年)に書いた紀行文「雪の降る道」に、旧暦7月6日に「ねぶりながし」が行われたことが記されており、この時にはすでに秋田独自の風俗として伝えられています。長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及んでいたようで、これが竿燈の原型だとされています。江戸時代後期に幕府の右筆であった屋代弘賢(やしろひろかた)〔宝暦8年(1758年)~天保12年(1841年)〕によって書かれた諸国の風俗や習慣を記した『風俗問状答(ふうぞくといじょうこたえ)』には、その当時の様子が描かれています。

 

元々、藩政以前から秋田市周辺に伝えられている「ねぶたながし」は、笹竹や合歓木(ねむのき)に願い事を書いた短冊を飾り付け、町を練り歩き、最後に川に流すものでありました。それが宝暦年間に蝋燭が普及し、更にお盆の時に門前に掲げた高灯籠などが組み合わさり、更に五穀豊穣祈願とも結びついて、独自の行事に発展していったものと言われています。

 

現在の「竿燈」は、六間くらいの長い竹竿に9本の横竹を結び、これに46個の提灯を数段に分けて吊り下げたもので、重いものでは重量が60キログラムに達するものもあるそうです。これを半纒、股引姿の若者が持ち、笛や太鼓の囃子に合わせて、額から肩、肩から腰へとすり移して妙技を競い合う祭りです。夜は百数十本余りの竿燈が集まり、提灯の灯が夜空を彩ります。

 

時間とおカネに余裕があれば、こうした全国の祭りを巡り歩くのも楽しいかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。10月に入り、日が明けるのも大分遅くなりました。秋らしく、少し涼しい日が続いていますが、それでも上着を着て歩くと汗ばむ感じがします。東京では、昨晩から今朝に掛けて雨が降っていましたが、一雨ごとに寒くなる気配を感じます。昨日、米国ネバダ州ラスベガスでは、死者58名、負傷者100名超という大変な銃乱射事件が起きましたが、日本でも理解不能な異常な犯罪行為が続いています。何が起きても不思議ではない今の世の中、ある程度の緊張感をもって生活せざるを得ないのかもしれません。

 

さて、本日は「日本三大祭り」ならぬ「東北三大祭り」のうちの一つ、「ねぶた祭り」について紹介しておきたいと思います。このねぶた祭りは主に青森県内を中心に行われている夏祭りで、青森市では8月2~7日、弘前市では8月1~7日にそれぞれ行われます。弘前市の祭りは「ねぷた」と呼ばれ、いずれも漢字では「佞武多」と表記されます。ちなみに東北三大祭りとは、ねぶたのほかには秋田の「竿燈(かんとう)」、「仙台七夕祭」を指し、いずれも毎年8月初旬に行われます。

 

このねぶた祭りは、七夕祭りの灯篭流しが変形したものではないかと言われていますが、その起源は定かではありません。東北各地で行われる「眠り流し」などと共通の習俗で、七夕の行事の一つとしてみられることが多いようです。奈良時代(710794年)に中国から伝来した七夕と、古来、津軽にあった秋の収穫を控えてその妨げとなる睡魔を追い払うお盆に行われていた精霊送り、人形送り、虫送りなどの習俗や行事が一体化し、紙や竹、ローソクの普及とともに灯籠が生まれ、それが変形して人形ねぶた、扇ねぶたになったと考えられています。七夕では、7月7日の夜に穢れを灯籠に移して川や海に流し、無病息災を祈る禊の行事があることは以前紹介した通りですが、これが「ねぶた流し」につながっているようです。

 

もう一つの起源として、平安時代の武将・坂上田村麻呂〔天平宝字2年(758年)~弘仁2年(811年)〕が陸奥国の蝦夷征討(えみしせいとう)〔三十八年戦争第3期〕)の戦場において、敵を油断させておいておびき寄せるために大灯籠、笛、太鼓で囃し立てたことに由来するとの説もあるようですが、田村麻呂は奥州地方からみれば征服者であること、また史実として彼は青森まで来ていないことなどから、どうもこの説は信憑性に欠けるようです。

 

ねぶたは木と竹と針金で枠を作り、それに紙を貼った大小の切子灯籠(きりことうろう)で、金魚形のもの、扇型のもの、歴史上の人物を模ったものなど、意匠にはいろいろな種類があります。連日、夕刻になるとこれに灯をともし、笛や太鼓の音とともに町中を練り回し、最終日には海や川にねぶたを流す「ねぶた流し」が行われます。

 

江戸時代、享保年間(17161735)の頃、青森の油川町付近で、弘前のねぷた祭りを真似て灯籠を持ち歩き踊ったという記録があるようですが、現在のような灯籠(ねぶた)が登場したのは江戸の庶民芸術が爛熟期を迎えた文化年間(18041818年)頃ではなかったかと言われています。その様子を江戸の歌舞伎作者・二代目船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう、1786年~?)〔滑稽舎語仏(こっけいしゃごぶつ)〕が奥州旅行記『奥のしをり』に書き残しているようです。「青森のねぶた祭り」のホームページに、郷土史家の松野武雄さんが昭和41年の『東奥日報』に書いた記事が次の通り紹介されています。

 

「天保13年(1843年)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは"ねむたながし"と称して人形を出している。高さ三丈ぐらい(約10メートル)、大きさ三間(約6メートル)、四方の神功皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、蝋燭を灯して、地車でひいている。人々は鉦、太鼓、ほら貝で囃し立て踊り騒いでいた。まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるとのことである。」

 

文禄2年(1593年)、京都にて秀吉侯の御前で津軽為信が「津軽の大灯籠」を紹介し、それが年中行事になり、享保7年(1722年)には津軽5代藩主の信寿が弘前のねぶた見物を行ったことが記録として残されているようです。「青森のねぶた」が記録として最初に現れるのが享保年間のことで、油川でねぶた祭りが行われたとのことです。その後、安永年間(17721781年)には「青森ねぶた祭り」に踊りがついたとの記録があり、天明8年(1788年)には比良野貞彦が『奥民図彙』にねぶたの絵を表しています。文化年間にはねぶたが大型化、人形ねぶたが創案されたようです。ねぶたをはじめ、地方の祭りが盛大になっていくのも、また庶民文化が育った江戸時代の大きな特徴と言えましょう。

 

高見澤

 

おはようございます。今日はすでに10月、一般には衣替えの時期です。先週は一週間、中国北京、広東省広州・深圳と出張で回ってきました。広東省はさすがに南方だけあって、気温も30℃を超える毎日でした。経済も活況を呈していて、HUAWEI本社を視察しましたが、その規模や内容たるや日本の大手電機メーカーを凌駕する勢いです。中国メーカーが世界のトップに君臨する日も近いのではないかと思う程の驚きでした。確かに、中国の民営企業家の発展する勢いは凄まじく、中国政府もその動向には警戒感を示しており、彼らの経営活動を牽制するような政策も実施しています。我々日本人も、世界の潮流をしっかりと掴んでおく必要があるでしょう。

 

さて、本日のテーマは「八朔(はっさく)」です。八朔とは旧暦8月1日のことを指します。8月の「朔日(ついたち)」という意味です。ナツミカンに似た柑橘系の果物のハッサク(八朔柑)は、この頃から熟し始めることから、その名が付けられてたと言われています。

 

古くから農家では、旧暦8月1日に豊作を祈って、その年に取り入れた新しい稲などを主家や知人に贈る「田の実(稲の実)」を祝う民間行事があり、「たのみの祝」、「たのむの節句」と呼ばれていました。後に、この風習が町家でも流行り、この日に上下貴賤それぞれが贈物をするようになり、祝賀と親和を表すようになりました。住民が互助的に金銭を融通し合う「頼母子講(たのもしこう)」の名の由来も、この「田の実」にあるとされています。このシステムは鎌倉時代に生まれ、江戸時代に特に発達し、今でも地方によっては「無尽(むじん)」などの名称で行われているところもあるようです。

 

鎌倉時代後期、武士の世になると、「たのむ」は「君臣相たのむ」に通じるとされ、君臣の間でも物を贈答する風習が生まれました。室町時代にはそれが儀式化されました。徳川幕府においては、家康の江戸城への入城が天正18年(1590年)八朔の日であったため、元日にも劣らない重要な節日(せちにち)となります。諸大名や直参旗本は白帷子(しろかたびら)に長袴(ながばかま)を着て登城し、将軍家へ祝詞を申し述べる行事が行われました。

 

一方、農家では「八朔の苦餅(泣きまんじゅう)」と言って、この日はぼた餅を食べて祝っていましたが、この日以降、下男下女は夜遅くまで働かなければならなくなります。それまでは夏の暑さをしのぐために昼寝なども許されていたようです。

 

江戸の遊里であった吉原では、この日は紋日(もんび、花代を割り増しして仕切りを高くする日)として、遊女たちがそろって白無垢の小袖を着て、客席に出たり、花魁道中を行ったりしていたとのことです。この風習は、元禄年間(1688年~1704年)、遊女高橋が白無垢のまま高熱の病床から馴染の客の席を迎えたことが始まりだと言われています。その白無垢の姿が艶やかであったことから、皆が観賞し、以来吉原の遊女はこぞって白無垢を着るようになったとのことです。

 

また、京都東山区の祇園一帯では、古くからのしきたりで、八朔には芸舞妓(げいまいこ)が盛装して、踊りや笛などのお師匠さんや出入りの茶屋などへ挨拶に回る風習があります。

 

最後に、旧暦8月1日頃に吹く強い風のことも八朔と言い、農家にとっては厄日(三大厄日)として、収穫前の稲の大敵として、恐れられていました。三大厄日とは、八朔のほか、「二百十日」、「二百二十日」を指します。これについては、後日ご紹介したいと思います。

 

高見澤