東藝術倶楽部瓦版 20171002:八朔の泣きまんじゅう-田の実を祝う「八朔」

 

おはようございます。今日はすでに10月、一般には衣替えの時期です。先週は一週間、中国北京、広東省広州・深圳と出張で回ってきました。広東省はさすがに南方だけあって、気温も30℃を超える毎日でした。経済も活況を呈していて、HUAWEI本社を視察しましたが、その規模や内容たるや日本の大手電機メーカーを凌駕する勢いです。中国メーカーが世界のトップに君臨する日も近いのではないかと思う程の驚きでした。確かに、中国の民営企業家の発展する勢いは凄まじく、中国政府もその動向には警戒感を示しており、彼らの経営活動を牽制するような政策も実施しています。我々日本人も、世界の潮流をしっかりと掴んでおく必要があるでしょう。

 

さて、本日のテーマは「八朔(はっさく)」です。八朔とは旧暦8月1日のことを指します。8月の「朔日(ついたち)」という意味です。ナツミカンに似た柑橘系の果物のハッサク(八朔柑)は、この頃から熟し始めることから、その名が付けられてたと言われています。

 

古くから農家では、旧暦8月1日に豊作を祈って、その年に取り入れた新しい稲などを主家や知人に贈る「田の実(稲の実)」を祝う民間行事があり、「たのみの祝」、「たのむの節句」と呼ばれていました。後に、この風習が町家でも流行り、この日に上下貴賤それぞれが贈物をするようになり、祝賀と親和を表すようになりました。住民が互助的に金銭を融通し合う「頼母子講(たのもしこう)」の名の由来も、この「田の実」にあるとされています。このシステムは鎌倉時代に生まれ、江戸時代に特に発達し、今でも地方によっては「無尽(むじん)」などの名称で行われているところもあるようです。

 

鎌倉時代後期、武士の世になると、「たのむ」は「君臣相たのむ」に通じるとされ、君臣の間でも物を贈答する風習が生まれました。室町時代にはそれが儀式化されました。徳川幕府においては、家康の江戸城への入城が天正18年(1590年)八朔の日であったため、元日にも劣らない重要な節日(せちにち)となります。諸大名や直参旗本は白帷子(しろかたびら)に長袴(ながばかま)を着て登城し、将軍家へ祝詞を申し述べる行事が行われました。

 

一方、農家では「八朔の苦餅(泣きまんじゅう)」と言って、この日はぼた餅を食べて祝っていましたが、この日以降、下男下女は夜遅くまで働かなければならなくなります。それまでは夏の暑さをしのぐために昼寝なども許されていたようです。

 

江戸の遊里であった吉原では、この日は紋日(もんび、花代を割り増しして仕切りを高くする日)として、遊女たちがそろって白無垢の小袖を着て、客席に出たり、花魁道中を行ったりしていたとのことです。この風習は、元禄年間(1688年~1704年)、遊女高橋が白無垢のまま高熱の病床から馴染の客の席を迎えたことが始まりだと言われています。その白無垢の姿が艶やかであったことから、皆が観賞し、以来吉原の遊女はこぞって白無垢を着るようになったとのことです。

 

また、京都東山区の祇園一帯では、古くからのしきたりで、八朔には芸舞妓(げいまいこ)が盛装して、踊りや笛などのお師匠さんや出入りの茶屋などへ挨拶に回る風習があります。

 

最後に、旧暦8月1日頃に吹く強い風のことも八朔と言い、農家にとっては厄日(三大厄日)として、収穫前の稲の大敵として、恐れられていました。三大厄日とは、八朔のほか、「二百十日」、「二百二十日」を指します。これについては、後日ご紹介したいと思います。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年10月 2日 09:35に書いたブログ記事です。

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