東藝術倶楽部瓦版 20171012:放し亀、蚤も序にとばす也-放生会

 

おはようございます。今、テレビを見ると日本列島は衆議院選挙一色で賑わっているようですが、世界に目を向けてみるともっと真剣に対処しなければならない問題が山積していると思うのですが...。まあ、それが今の日本かもしれません。毎日通勤の電車に乗っていても、生気の感じられない人の多さに驚きます。

 

さて、本日は「放生会(ほうじょうえ)」について紹介していきたいと思います。放生会とは、捕えた魚介、鳥、動物などを殺さないで、池や川、山林に放つ法事で、殺生を戒める儀式の一つです。昔は旧暦8月15日に行われていました。

 

インドでは、釈迦在世のときから行われていたと伝えられています。日本で『法華経』、『仁王経(にんのうきょう)』とともに「護国三部経」とされている『金光明経(こんこうみょうきょう)』という経典があります。これを中国の唐の義浄が漢訳したものが『金光明最勝王経(こんこうみょうきょうさいしょうおうきょう)』ですが、そこの「長者流水品(ちょうじゃるすいほん)」には、釈迦が前世で流水長者であったときに、流れを堰き止められて死にそうな魚のために、20頭の巨象に水を運ばせてこれを注いで命を救い、法を説いて放生したところ、魚たちは「忉利天(とうりてん)」(三十三天)に生まれ変わり、流水長者に感謝報恩したという本生譚(ほんしょうたん)〔ジャータカ、前世の物語〕が説かれています。また、『梵網経(ぼんもうきょう)』には、「生類は人間の前世の父母かもしれないので、その命を救い、教えて仏道を完成させてやるべきだ」という趣旨のことが記されているようです。

 

こうした説話が中国に伝わり、中国の南北朝時代末期、中国天台宗の開祖である「智顗(ちぎ)」(天台大師、538年~597年)がこの流水長者の本生譚に習い、漁民が雑魚を捨てている様子を憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取り、放生池(ほうじょうち)をつくりそこに魚たちを放し、殺生を止めたという話が残っています。もっとも中国では、戦国時代初期の道家の思想家である列禦寇(れつぎょこう)によって書かれた『列子』〔冲虚至徳真経(ちゅうきょしとくしんきょう)〕にも、「正旦に生を放ちて、恩あるを示す」とあり、古来、殺生を戒める考え方があったことが分かります。

 

乾元2年(759年)、唐(618年~907年)の第10代皇帝・粛宋(しゅくそう)〔景雲2年(711年)~宝応元年(762年)〕が長江沿岸各地に81カ所の放生池を設け、著名な書家・顔真卿(がんしんけい)〔景龍3年(709年)~貞元元年(785年)〕がそれに関する碑銘を書いている話は有名です。また、宋(960年~1279年)の時代、杭州西湖の三潭印月の周囲を放生池として、仏生日に供養の放生会を催した史実があるようです。

 

日本における放生会は、養老4年(720年)に反乱を起こして鎮圧された隼人(はやと)の怨念を鎮めるために、同年または神亀元年(724年)に八幡神の託宣により宇佐神宮(大分県宇佐市)で放生会を行った〔始まりについては、このほか天平16年(744年)など諸説あり〕のが始まりと言われています。ただ、『日本書紀』には、天武天皇5年(676年)8月17日条に「諸国に詔して放生せしむ」とあり、飛鳥時代にはすでにこの風習が行われていたのではないかとも思われます。このほかにも、敏達天皇7年(578年)には六斎日(ろくさいにち)に殺生禁断を畿内に令したり、推古天皇19年(611年)5月5日に聖徳太子が天皇の遊猟を諌しめたりなど、殺生を戒める風習がありました。

 

その後、京都石清水八幡宮でも貞観4年(863年)に放生会が行われ、平安時代の天暦2年(948年)には勅命による勅祭となりました。鎌倉八幡宮では、文治3年(1187年)から行われるなど、各地の八幡宮で古くから行われるようになりますが、明治元年(1868年)以降、神仏分離により神事としての放生会は廃止され、代わりに「仲秋祭」が行われるようになりました。古来、1200年に渡り旧暦8月15日に行われてきたこの祭礼も明治の廃仏毀釈で形態を変えざるを得なくなったのです。宇佐神宮では、現在では体育の日(10月第二月曜日)を最終日とする3日間(土曜~月曜)に仲秋祭が行われており、石清水八幡宮の放生会は「石清水祭」と呼ばれ、新暦の9月15日に行われています。また、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)の「放生会(ほうじょうや)」は春の「博多どんたく」、夏の「博多祇園山笠」とともに、博多三大祭りに数えられており、9月12日から18日まで開催されています。

 

尚、江戸時代の放生会は仏事というよりも、庶民の娯楽という性格が強かったようです。文化4年(1807年)には、江戸・門前仲町にある富岡八幡宮の放生会に集まった参詣客の重みで永代橋が崩落するという事故の記録が残っています。「放し亀、蚤も序(ついで)にとばす也」という小林一茶〔宝暦3年(1763年)~文政10年(1828年)〕の句は亀の放生会を詠んだものです。歌川広重〔寛政9年(1797年)~安政5年(1858年)〕の『江戸名所百景 深川万年橋』も亀の放生会を描いた浮世絵です。当時の亀の値段は一匹四文(100円)、子供たちが買った亀を川に放ち、亀売りはそれをまた捕まえて、再び子供たちに売るという、今では「何だそれは」と思われる商売も、当時は大人も子供も気軽に買って気軽に話すという娯楽性の強い祭事であったことが分かります。捕えられている生き物を逃がしてやることで、何か善い行いをした気分になり、人としての徳を積んだ思いもあったのでしょうか。見方を変えれば、浦島太郎伝説を想起される話ですね。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年10月12日 06:58に書いたブログ記事です。

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