2017年11月アーカイブ

 

おはようございます。いよいよ来週月曜日から日本経済界の大型訪中ミッションが始まります。先日の2回の日中首脳会談を受け、比較的良好な雰囲気の中での中国訪問となるわけですが、今回の中国側との交流の中で、どのような成果が生まれるか、期待が高まるところです。事務局として動き回る私の姿も、ニュースの映像の中でみられるかもしれません...。ということで、来週いっぱいは本メルマガもお休み致します。

 

さて、本日は「川越祭り」について紹介したいと思います。川越祭りは、毎年1014日に氷川神社が執行する「例大祭」と、その直後に行われる「神幸祭」及び「山車行事(祭礼)」から成る川越地方で最も盛大な祭礼です。川越市の人口35万人の倍の70万人の見物客が集まると言われています。この川越祭りの特徴は、「大江戸天下祭り」と呼ばれる「赤坂山王祭り」と「神田明神祭り」の祭礼を、そのまま真似たものと伝えられています。360年を超える時代を経て、川越独特の特徴を加えながら発展してきています。平成17年(2005年)には、「川越氷川祭の山車行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

川越祭りの神幸祭は、慶安元年(1648年)に、当時の川越藩主であった松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことが始まりとされています。また、慶安4年(1651年)からは華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、町衆も随行するようになりました。この祭祀、祭礼が川越祭りの起源となったようです。当初の神幸祭は、氷川神社の神輿行列が渡御(とぎょ)し、氏子域の「十ケ町(喜多町、高澤町、本町、南町、江戸町、志多町、多賀町、鍛冶町、志義町、上松江町)」が仮装行列などの練りものの附祭り(つけまつり)で供奉(ぐぶ)していました。

 

元禄11年(1698年)、十ケ町の一つである高澤町が江戸の祭礼に習って、初めて踊り屋台を披露し、それが他の町にも広がり、それぞれの町が山車や屋台を曳き出して神輿のお供をするようになりました。山車や屋台の上では、流行りの歌や踊り、祭囃子が行われ、近郷の人が集まる賑わいを見せました。その後、江戸の祭礼で山車が主役となったのを機に、天保15年(1844年)に十ケ町の山車はすべて一本柱形式に統一され、勾欄の上に人形を載せる今の形になりました。これが「江戸型山車」と呼ばれる山車で、川越商人の財力を背景に製作されたのです。

 

川越祭りの山車には四輪のものと三輪のものがあり、その多くは囃子台が水平方向に360度回転する作りになっています。上段には能や雅楽、神話、英雄などを題材にした人形が載せられています。こうした華麗な人形は江戸時代後期の名工の作と言われています。山車の後方と鉾と呼ばれる部分は二重構造になっており、上下に可動します。元々は江戸城の城門をくぐるための仕組みとされていますが、現在では電線などの障害物を避けるのに役立っています。山車の操作や解体など、今でも「職方」と呼ばれる職人の技がこの祭りを支えています。

 

正調江戸囃子が響く中、豪華絢爛な山車29台が市中を曳き回され、夜遅くまで賑わいます。祭りのクライマックスは午後6時半頃から9時頃まで行われる「曳っかわせ」です。山車どうしがすれ違う際に、囃子の儀礼を打ち交わす迫力のある囃子の競い合いが観られます。

 

大江戸に対して小江戸(こえど)と呼ばれる川越は、その語源ともなった入間川などの川に囲まれた城下町です。新河岸川(しんがしがわ)の舟運によって江戸の風流や風俗がリアルタイムで入ってきました。そんな姿をどことなく漂わせる川越の街並みです。

 

高見澤

 

おはようございます。来週からの経済界の訪中団派遣準備で、連日連夜の残業続き、体力的に厳しい日が続いています。また、中国側とのやり取りで精神的にもストレスが溜まり続けています。組織全体として業務の見直しをしなければならいと実感しています。こうした現象は、日本全国どこでもあるように思えます。

 

さて、本日は春日大社の「鹿の角切り」について紹介したいと思います。鹿の角切りの行事と言えば、奈良の春日大社が有名です。毎年10月上中旬の日曜日に行われています。もちろん、春日大社以外でも山形県にある鳥海山大物忌神社や、岩手県石巻市の金華山金山神社などで行われており、いずれも催されるのは10月上中旬です。

 

春日大社の鹿の角切りは、交尾期に入って気の立った奈良公園の鹿が、人を傷つけるのを防ぐことを目的に、鹿の角を切り落とす行事です。柵で囲んだ場所に鹿を追い集め、縄の先に輪を結んだ「タンビ」と呼ばれるものを角に投げ、「勢子」と呼ばれる人たちが数人で押さえつけ、神官によってのこぎりで切り落されます。

 

この行事の歴史は古く、江戸時代の寛文11年(1671年)から危険防止と樹木保護のために始められたといわれています。奈良公園のシンボルである鹿は、古来、神の使いとして保護されてきています。奈良公園には、現在約1,500頭の鹿がおり、奈良公園内に生息しているのは1,200頭余りで、300頭弱が鹿苑内に保護されています。角があるのは雄鹿だけで、生後1年で1本角を1対、成獣になると3つに枝分かれした立派な角を1対もつようになります。奈良公園に生息する雄鹿は300頭弱で、そのほかは700頭余りの雌鹿と200頭余りの小鹿です。雄鹿の角は毎年生え変わり、放っておいても春先の2~3月には脱落しますが、それまでの期間に人を傷つける危険性もあるので、こうして角切りが行われるのです。脱落した角は、4月頃からまた新しく生え出してきます。

 

このように、春日大社や鹿島神宮などでは神の使い、すなわち「神使(しんし)」とされる鹿ですが、その由来は『古事記』にみることができます。高天原が大国主(オオクニヌシ)に国譲りをさせる際に、先ずは天穂日(アメノホヒ)、天若日子(アメノワカヒコ)に交渉させますが失敗します。そこで、天照(アマテラス)は使者として天之尾羽張(アメノオハバリ)に頼むことになったのですが、彼は山の奥で水を堰き止めていて、そう簡単に会える神ではありませんでした。その時に、アメノオハバリに会いに行く交渉役として選ばれたのが「天迦久(アメノカク)」でした。この伝令役である「アメノカク」こそが鹿の神とされています。「迦久」は「鹿児」を意味しています。アメノオハバリは自分の代わりとして息子の建御雷(タケノミカヅチ)をオオクニヌシのもとに差し向け、国譲りを承諾させることになります。このタケノミカヅチが鹿島神宮の祭神となり、その後平城京鎮護のために、春日大社にも分霊されることになりました。

 

·  高見澤

 

おはようございます。早いもので、11月もすでに半分が過ぎようとしています。秋の日が暮れやすいことを「釣瓶落とし」という言葉で表されますが、宵闇が迫るなか、家々の明かりが何となく懐かしく思えてきます。

 

さて、本日は「十日夜(とおかんや)」について紹介したいと思います。前回、お話しました「亥の子の祝い」が主に西日本で行われているのに対し、中部・関東以北の地域では、旧暦1010日にこの十日夜という「刈り上げ祝い」が行われます。刈り上げの祝いはいわゆる「収穫祭」のことで、民間で行われるものです。

 

亥の子の祝いと同じように、この日には田の神が山に返るとの言い伝えがあり、子供たちが藁で作った鉄砲で地面を叩きながら、「十日夜いいものだ、朝そばぎりに昼だんご、夕飯食ってひっぱたけ」などと唱え歩きます。こうすると、モグラ除けのおまじないにもなると言われています。

 

長野県や山梨県では、案山子上げを行って庭先に立て、田の神祭りをするところもあるそうです。埼玉県の川越地方では、十日夜とも亥の子様とも言い、長野県でも十日夜を亥の子祭りとも呼ぶところがあり、関東から甲信地方辺りが十日夜と亥の子の祝いとが交錯する地域ではないかと推測されます。

 

この十日夜ですが、地方によって行事はさまざまなようです。ただ、餅を搗くということだけはどこでも共通しているようです。

 

ところで、「十日夜」にも月見をする風習があります。旧暦8月の「十五夜」、9月の「十三夜」とともに「三月見」と言われ、すべての月を見ると縁起が良いという言い伝えがあります。

高見澤

 

おはようございます。今朝は、早朝懇談会に出席するために、ホテルニューオータニに来ています。大手企業の役員とともに朝食をとりながらの勉強会です。開始までに時間があるので、今日もメルマガをおおくりしたいと思います。

 

さて、本日は「亥の子(いのこ)の祝い」について紹介したいと思います。亥の子の祝いは、単に「亥の子」、または「玄猪(げんちょ)」とも呼ばれますが、一般に「亥の子」というのは、旧暦10月の亥の日の亥の刻を指します。

 

猪の多産にあやかり、亥の月(10月)の初めの亥の日の亥の刻(午後9~11時)に、新穀でついた亥の子餅を食べ、無病と子孫繁栄を祈る年中行事が亥の子の祝いです。ただ、10月の亥の日といっても二回、または三回あり、江戸時代には初亥の日は武士、第二の亥の日は農民、第三の亥の日は商人というように分かれていたようで、商人中心の大坂では商人が第二の亥の日を祝っていました。また、「亥の子節供は夕節供」という里諺(りげん)にもあるように、子供たちの行事も含めてすべて夜行われます。なお、関東・東北地方では、1010日の夜に行われる「十日夜(とおかんや)」の行事がこれにあたります。

 

亥の子の祝いは、もともとは中国から伝わった行事で、日本で始まったのは平安時代の頃と言われています。宮中では、この日に亥の子の形をした餅(「亥の子餅」)を献上する儀式があり、これが次第に民間でも行われるようになりました。亥の子餅は「玄猪」ともいい、室町時代には、白、赤、黄、胡麻、栗の5色の餅でしたが、近世には小豆の入った薄赤色の餅となり、それがやがて牡丹餅となりました。

 

亥の子の祝いが行われる旧暦10月上旬は、ちょうど寒くなる時期でもあるからでしょうか、江戸時代の江戸市中では、この日に炉や炬燵(こたつ)を開き、火鉢を出し始める習慣があったようです。亥は陰陽五行説では「水」にあたり、五行相剋で「火」に強いとされています。そこで、亥の日に炬燵を出したり、囲炉裏に火を入れたりすると、火災から逃れられると信じられていました。

 

またこの季節は米の収穫が終わる頃でもあり、稲刈りが無事に終了したことを田の神に感謝する収穫祭が、特に西日本では盛んに行われており、農村ではこの田の神として亥の子の神を祭る行事を収穫祭としていたところが多かったようです。関西では「女の子祭り」、「女の子節供」として行われています。

 

中国地方などでは、2月の初めての亥の日も「春亥の子」としてお祝いをする風習があります。神がこの日に田に降り、10月の亥の日に帰ると考えられています。亥の子の神は、春に田に降りて稲の生育を見守り、秋の収穫の後に神の世界に帰るというわけです。

 

亥の子の祝いの行事として、子供たちが新わらや石などを縄などで巻いて棒状にしたものを手に持って、村の家々を回り地面を叩く「亥の子突き」という風習が残っているところがあります。「亥の子餅をつかん者は鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を産め」などと唱え、道すがら餅、お菓子、お小遣いなどをもらって歩きます。地面を叩いて歩くのは、おそらく大地の生産力を高めようという呪術的な意味合いがあったのではないかと言われています。

 

亥の日には、田畑に入ってはならないという言い伝えもあり、これは亥の子の神が農作物の神として信仰されていたからだと考えられています。自然の生産力を無視した農薬・化学肥料漬けの現代農業の在り方は、作物を生み出す土地に対する冒瀆以外の何物でもありません。生かされている大地に対し、常に感謝の気持ちを持ち続けることが大事です。そして、その気持ちは態度で示すことで、はじめて活きてくることを忘れてはいけません。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京は晴れですが、朝から冷たい風が吹いています。まだ薄手のジャンバーで過ごせますが、もうそろそろ厚手のコートやジャンバーの準備をしておく必要があります。

 

さて、本日は「日本三大美祭」のうちの一つである「秋の高山祭」について紹介したいと思います。日本三大祭とは、以前にも紹介した「京都祇園祭」、「秩父夜祭」及び「高山祭」のことを指します。これに「長浜曳山祭」を加えて「日本四大美祭」と呼ぶこともあります。

 

この高山祭は岐阜県高山市で行われている行事で、「春の高山祭」と呼ばれる4月1415日に行われる日枝神社の「山王祭」と、「秋の高山祭」と呼ばれる10月9、10日の桜山八幡宮の「八幡祭」があります。山王祭は高山南半分の氏神の祭り、八幡祭は高山北半分の氏神の祭りとなっています。本日は、特に「秋の高山祭」についてお話ししたいと思います。

 

この高山祭の起源は、戦国大名・金森長近(かなもりながちか)〔大栄4年(1524年)~慶長13年(1608年)〕が飛騨を治めた天正13年(1585年)から金森頼時(かなもりよりとき)〔寛文9年(1669年)~元文元年(1736年)〕が出羽国上山藩に移封となった元禄5年(1692年)までの時代まで遡ります。そして、この祭りの最大の見物である「屋台(祭用の山車)」のある祭りとなったのが、享保3年(1718年)頃からだとの記録が残っています。

 

当初は殿様のための神事として行われていたようです。飛騨高山の地域は山間にある小さな集落で、作物が育ちにくく、年貢として収める穀物等の物資を十分得ることができなかったため、土木や建築などを行う「雑徭(ぞうよう)」と呼ばれる役務で税を納めていました。そうした中で磨かれていった優れた建設や土木の技術が、屋台に施された数々の装飾に活かされるようになります。屋台の形態や構造が整って、豪華絢爛になったのが文化文政時代(18041830年)といわれています。

 

社会生活の単位でもあった「屋台組」が自分たちの組の屋台を宝として、強固な団結の下に祭礼、修理、保存を担ってきています。改修の度に、他の組の屋台に負けじと匠の技術の競い合いが行われてきました。特に幕末になると、「旦那衆(だんなしゅう)」と呼ばれる豪商が中心となって屋台の回収におカネを出すようになり、屋台造りの工匠たちの技を競い合わせました。現在、これら屋台は国の重要有形民俗文化財に指定されており、修理工程は江戸時代と同じように行われています。

 

4月の山王祭には12基の屋台、10月の八幡祭には11基の屋台が街中を曳き回されます。「宮本」、「年行司」と呼ばれる役の指揮による華やかな屋台の曳行、そして屋台で上演されるからくり人形や囃子などの見せ物は、屋台を用いた代表的な祭礼行事になっています。

 

江戸時代、八幡祭は旧暦8月1日の「八朔」の日が祭礼でした。今でも八朔に氏子から選ばれた祭礼を仕切る「年行司」が宮司から依頼を受け、例祭準備を始める「祭事始祭」が行われています。山王祭は旧暦3月15日の満月の祭礼、八幡祭は旧暦8月1日で真っ暗な新月の祭礼として位置付けられていました。

 

高山祭の屋台の起源は、京都八坂神社の祭礼である「祇園祭」です。飛騨高山のような山間では、日照りや長雨、イナゴなどの虫害、さらには疫病や天変地異などの災難は、すべて厄災神の仕業とされてきました。屋台では、そこの飾られるきらびやかな飾りを施す「風流化現象」によって非日常を演出します。茶道や華道など質素で無駄を排除した「詫び寂び」による風流もあれば、華美で派手な演出もまた風流という認識に至ります。つまり、日常でないものが風流であり、神々が降臨する場所でもあったわけです。豪華絢爛な屋台を造ることで、力強い八幡神の降臨を仰ぎ、その霊威を授かった屋台を曳き回すことで、この地位から厄災を除き、人々の健康と五穀豊穣を祈ったというわけです。

 

高見澤

 

おはようございます。米国トランプ大統領が日本をはじめアジア諸国を歴訪し、今日からベトナムのダナンで行われるAPEC首脳会議に出席します。もちろん、日本の安倍総理も出席しますが、アジア太平洋地域で影響力を強める中国の動向が気になるところです。これまでの経済発展の実績を背景に、自らの政策に自信を高める中国ですが、そこから得られることも少なくないはずです。いつまでも"JAPAN AS NO.1"ではいられません。

 

さて、本日は「長崎くんち」について紹介したいと思います。「くんち」は「おくんち」とも呼ばれ、すでに「重陽」のところで、旧暦9月9日に行われる祭礼のことを尊んで「おくにち」と言うようにり、それが訛って「おくんち」になったことを説明しました。この長崎くんちもその祭礼の一つで、「長崎諏訪祭り」がその正式名称です。九州北部に多いおくんちの祭礼の中でも、最も賑わいをみせるのが、この長崎くんちです。

 

現在では国の重要無形民俗文化財に指定されており、長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭で、毎年10月7日から3日間、長崎の町を挙げて行われています。長崎くんちのホームページによれば、寛永11年(1634年)に、当時の太夫町(後に丸山町と寄合町に移る)の二人の遊女、高尾と音羽の両人が、諏訪神社の神前に謡曲「小舞」を奉納したことが、この長崎くんちの始まりと言われていることが紹介されています。

 

長崎ではこの寛永11年に「出島」埋築が着工され、「眼鏡橋」が架けられていますが、長崎奉行の援助があったようで、キリシタン弾圧政策の一環として幕府がこの祭りを利用したことで、年々盛大になっていきました。奉納される踊りには異国情緒なものが多く取り入れられ、すでに江戸時代から豪華絢爛な祭礼として評判だったようです。

 

10月7日未明、諏訪神社本社で遷座式(せんざしき)があり、諏訪・森崎・住吉の3基の神輿を拝殿に奉安した後、各町内の氏子が社前で、傘鉾(かさほこ)を先頭にいろいろな奉納踊りを披露します。蛇踊り、傘鉾、川船などが有名です。7日午後1時になると、渡御式(おくだりしき)が行われ、3基の神輿が200段の石段を一気に駆け下り、大波止(おおはと)の御旅所(おたびしょ)に渡されます。8日には有名な「竜踊り」が催されます。神輿は9日の朝まで御旅所に留まり、市中を練った後、午後1時に諏訪の長坂を一気に駆け上がって本社に還幸(おのぼり)します。

 

長崎の諏訪神社は、鎮西大社と称えられる総氏神様で、諏訪、森崎、住吉の3社がおまつりされています。主祭神は諏訪大神である「建御名方神(たけみなかたのかみ)」、「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」で、相殿神は森崎大神の「伊邪那岐神(いざなぎのかみ)」、「伊邪那美神(いざなみのかみ)」と、住吉大神の「表筒之男神(うわつつのおのかみ)」、「中筒之男神(なかつつのおのかみ)」、「底筒之男神(そこつつのおのかみ)」です。戦国時代、長崎はイエズス会の教会領となり、かつて長崎に祀られていた諏訪、森崎、住吉の3社は焼かれたり、壊されたりして無くなっていました。それを寛永2年(1625年)に初代宮司・青木賢清(あおきかたきよ)〔天正10年(1582年)~明暦2年(1656年)〕が西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興し、長崎の産土神としたのが始まりだそうです。慶安元年(1648年)には、徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営されました。その後、安政4年(1857年)に社殿は焼失し、現在の社殿は明治2年(1869年)に再建され、昭和59年(1974年)と平成6年(1994年)の2度にわたる造営により完成したものだそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨夜帰宅したのが午前零時半、そして今朝家を出たのが午前5時と、想像するだけでも恐ろしい日々が続いています。今月20日から始まる日本経済界の大型訪中団の準備が佳境に入っています。普段から食事や生活面で気を配っていなければ、病気になって倒れてしまうところでしょう。

 

さて、本日は「仲秋の名月」のところでも紹介した「十三夜(じゅうさんや)」について説明しておきたいと思います。旧暦8月15日の月見の行事が「十五夜」と言われるのに対し、旧暦9月13日に行う行事を「十三夜」と呼んでいます。

 

もともと旧暦の毎月13日の夜を「十三夜」と言っていましたが、9月13日の夜は特別で、昔からこの夜に月を観賞する習慣がありました。この十三夜は、新暦では10月の中下旬にあたります。仲秋の名月のところでも触れましたが、十三夜のことを「後の月」、「豆名月」、「栗名月」とも呼ばれています。十五夜と同じようにお供え物をして祝いますが、その頃の食べ物といえば大豆や栗、柿が旬です。もちろん月見団子もお供えします。

 

十五夜は中国から伝来した風習ですが、十三夜は日本固有の風習です。秋の収穫祭の一つではないかともいわれています。その起源がいつなのかははっきりしていませんが、醍醐天皇〔元慶9年(885年)~延長8年(930年)〕の時代、延喜19年(919年)9月13日に観月の宴が催されたのが始まりであるとか、或いは宇多法皇〔貞観9年(867年)~承平元年(931年)〕が9月13日の夜の月を「無双」と賞したことによるとも言われています。

 

「片月見(片見月)」のことは仲秋の名月で説明したのでここでは改めて説明はしませんが、これは「片付見」に通じるとして忌まれていました。仲秋の名月を自宅以外で眺めると、片月見とならないように、十三夜も仲秋の月見をした場所に出かけていって眺めないとされていたようです。この慣習は江戸の遊里、吉原の客寄せの一環として始められたという説があります。仲秋の名月の日に吉原で遊べば、片月見を避けるために十三夜の日にも登楼しなければならないようになるというわけです。吉原では、十五夜、十三夜ともに「紋日(もんび)」という特別の日とされ、客はいつも以上に気前の良さを見せなければなりませんでした。「月宮殿(吉原のこと)へ二度のぼるいたい事」という川柳も残されています。

 

十三夜、十五夜、十七夜、二十三夜など、特定の月齢の日に、いわゆる月待ちを行うしきたりがありました。月待ちとは、特に女性である場合が多いのですが、人がたくさん集まって供物を供えて月が出るのを待ち、月を拝んで飲食を共にする月を祭る行事のことです。月待ちの「待ち」は、もともとは「祭る」の意味とのことです。

 

高見澤

 

おはようございます。先週日曜日、末娘の学校の課題で秋を探しに、江戸散策も一部兼ねて靖国神社と江戸城田安門(北の丸公園、武道館)を散策しました。銀杏をはじめとする木々の紅葉が始まり、秋到来という東京都心ですが、実は昨日が立冬で、暦の上では冬になってしまいました。靖国神社では「菊花展」が開催されており、見事な菊が展示されていました。

 

ということもあり、本日のテーマは「残菊の宴」です。残菊の宴とは、平安時代以降、旧暦10月5日に宮中の年中行事として、「残菊」を鑑賞しながら催された酒宴のことで、詩を詠んで興じていました。この行事は江戸時代まで続いていました。

 

以前、長月の年中行事で旧暦9月9日の「重陽」の時に、宮中では「観菊の宴」が催されていたことは既に紹介した通りですが、更にこの10月5にも残菊を鑑賞する行事が行われていたのです。また、何らかの理由により、重陽の節句を祝うことができなかった場合にも、その代わりとして残菊の宴が行われていたようです。

 

「残菊」とは、晩秋から初冬まで咲き残っている菊花のことで、俳句では秋の季語となっています。一般的には重陽の節句を過ぎた菊を指し、「残り菊」、或いは「十日の菊」とも言われていました。「六日の菖蒲、十日の菊」という言い方がありますが、これは端午の節句(5月5日)の翌日の菖蒲、重陽の節句(9月9日)の翌日の菊、という意味で、時期が遅れて役に立たないことの例えです。

 

菊に関連して、東京浅草の浅草寺では、重陽の節句の時に「菊供養」が行われます。新暦では1018日頃で、毎年10月中旬から11月中旬に浅草寺観音堂で行われる浅草観音祭りの行事の一環として行われるものです。この日、大僧正をはじめ僧全員が観音堂で菊花を供えて供養します。参詣者は菊花を仏前に手向け、すでに供養された菊と取り替えて家に持ち帰り、病難・災難除けにします。当日は金竜の舞も披露されるなど、境内は終日にぎわっています。

 

菊はキク科の多年草で、日本を代表する花の一つです。主に秋に咲き、花の形や色などにより、非常に多くの品種があり、大きさにより大菊、中菊、小菊に大別されます。原産地は中国で、その歴史は3000年以上になると言われています。「四書五経」の『礼記(らいき)』に「鞠」という植物が登場してきますが、これが「菊」であるとみられています。古来、漢方薬としても用いられ、『神農本草経』には「軽身耐老延年」とあり、健康長寿としての効用があるとされます。

 

中国で菊の栽培が本格的に始まったのは梁の時代(502557年)、即ち6世紀頃で、唐の時代(618907年)に品種改良が進みました。菊が中国から日本に伝来したのは平安時代の8~9世紀頃とされ、日本でも昔から栽培されてきました。日本で品種改良が大きく進んだのは江戸時代で、観賞用のほか、食用にもなります。秋になると、各地で菊花展が催されます。

 

後鳥羽天皇〔治承4年(1180年)~延応元年(1239年)〕の時代、文治元年(1185年)に、天皇家の紋章として菊の花が使われ、明治2年(1869年)に大政官布告で十六花弁の紋章が正式に定められました。日本人にとっては、何かと親しみのある花です。

 

高見澤

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、大分秋らしくなってきましたが、それでもまだ冷え込むような寒さには至っていません。仕事の方も忙しく、ここ最近は経済界の重鎮と会う機会が増え、何かと緊張する日々が続いています。そんな中で、江戸の文化を調べることは、私にとって一つの息抜きなのかもしれません。

 

さて本日は、二十四節気の一つ「寒露(かんろ)」について紹介してみたいと思います。以前、二十四節気のところでも少し触れましたが、寒露は9月の「節気」、平気法でいうなら太陽黄経195度の時を指します。また、この時点から次の9月の「中気」である「霜降(そうこう)」までの期間を指すこともあります。新暦では10月8日頃にあたります。

 

秋の二十四節気は、7月の節気である「立秋」から始まり、同月中気の「処暑(しょしょ)」、8月節気の「白露(はくろ)」、同月中気の「秋分」、9月節気の「寒露」、同月中気の「霜降」までで、そして10月中気の「立冬」から暦の上での冬が始まります。寒露の時期は、長雨が終わり大気の状態が安定します。よく晴れた夜には放射冷却によって大地が冷え、風のない日には地表付近の水蒸気が凝結して、草木の葉などに露を結ぶ光景を見ることができます。新暦9月8日頃の白露の候よりも、明け方の気温が下がり、露が冷たさを増すことから寒露と言われます。次の霜降、つまり霜が降りる寸前の露ということができます。

 

秋の深まりを感じさせる寒露の時期は、五穀の収穫がたけなわで、農家はことのほか繁忙を極めています。また、山野には晩秋の色彩が色濃く、はぜの木の紅葉が美しくなります。朝晩はそぞろ寒気を感じ始め、雁などの冬鳥が渡ってきます。菊が咲き始め、コオロギが鳴き止む季節です。この頃は秋の味覚を楽しむには絶好の時期と言えます。柿や栗、各種キノコ類などの山の幸のほか、柳葉魚(ししゃも)や鯖(さば)など海の幸も豊かな季節です。

 

「陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也」

この一文は、天明7年(1787年)に江戸で出版された『暦便覧』〔太玄斎(たいげんさい)著〕に記された寒露を説明したものです。

中国の陰陽五行説からすると、秋は「金」の属性をもつ「金気」として捉えられます。つまり金属の性質を持った季節とされているのです。金属の有する「堅い」という性質では、栗やドングリ等の木の実、或いは稲や大豆等の穀物等堅い殻を連想することができます。また、金属が水を生み出す性質(冷たい金属の表面には露がつきやすい)があるという点では、五行の金気の相生説、すなわち「金生水(金より水を生ず」となり、やがて次の「水気」である冬が到来すると説明することができます。

 

こうした陰陽五行説での説明からすると、白露や寒露のように、秋の節気に「露」の字が使われる理由がよく分かるような気がします。「露も...」、「露ほども...」という古語は、「少しも...ない」という否定の意味をもつ言葉としてよく使われます。また、はかない人生や生命を、日が昇るにつれ消え去る露に例えて、「露の身」、「露の命」などとも表現します。この時期、早朝の野を歩くと、ツユクサ(露草)の鮮やかな藍色が眩しく感じられます。ツユクサの花汁は衣服の染料としても用いられますが、色があせやすいことから露の名前があてられたと言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。時の経つのは早いもので、11月に入ったと思いきや、もうすでに6日です。今年もあと2カ月を切り、慌ただしい1年がまた過ぎようとしています。仕事に追われつつも、生活を楽しむよう努めたいところです。

 

さて、本日は「初雁(はつかり)」について紹介していきたいと思います。「雁」と言えば、東藝術倶楽部の皆様の中には、歌川広重の描いた「月に雁」を思い浮かべる方が少なくないと思います。この絵は、秋の夜の一場面を描いたもので、1949年に切手趣味週間の記念切手のデザインとしても使われ、日本人にはお馴染みの浮世絵です。この絵には「こむな夜か又も有(あろ)うか月に雁」という句が添えられています。

 

「雁(かり、がん)」は、カモ目カモ科の水鳥の総称で、一般的には白鳥より小さな大型のカモを指します。世界では15種、このうち日本には主に3種が飛来します。夏にシベリア方面で繁殖し、秋に日本列島に渡って来るのは主にマガン、ヒシクイ、コクガンなどです。宮城県北部や石川県、島根県などが主な越冬場所になっていますが、日本全国に飛来する約10万羽のうち、9割が伊豆沼・内沼、蕪栗沼など宮城県北部で越冬することから、宮城県の県鳥にもなっています。「グワン、グワン」、或いは「カリ、カリ」と聞こえる鳴き声から雁と呼ばれるようになったとも言われています。

 

その年、初めてシベリア方面から渡ってきた雁のことを「初雁」と呼びます。東北地方では毎年9月から10月、九州地方では11月頃になります。その初雁の鳴き声を「初雁が音(初雁金)」と言い、俳句の秋の季語にもなっています。群をなして渡ときは、一直線になったり、鍵型になったりします。これを「雁の棹(さお)」、「雁の列」と言います。兵法にいう「雁行型」の陣形というのは、この雁が群れをなして飛行する姿から名付けられたものでしょう。一般に夜間に渡ることが多く、このため書画の題材としても「月に雁」というのが適当であったのかもしれません。

 

江戸時代、雁の狩猟は制限されていました。当時、雁は大変なご馳走とされ、初雁は宮中にも献上されたそうです。江戸時代前期の本草家・人見必太(ひとみひつだい)〔(1642年)頃~(1701年)〕が著した『本朝食鑑』〔元禄8年(1695年)刊行〕には、「近世(ちかごろ)、江都の官鴈(雁と同じ)で、始めてとった鴈は初鴈という。先ず禁内に献上し、次に公侯百官に従って賜わる。公侯はこれを拝賜して大饗宴を設けるが、鴈の披(ひらき)という。こういうわけで、わが国では、鶴、鵠(ぐぐい)に次いで鴈を賞するのである。鴻(ひしくい)・鷹は、関東の産を上品とし西国の産は美としない」とあります。「鵠」とは白鳥のことで、江戸時代には鶴や白鳥を食べていたことが分かります。「鴻」はコウノトリではなく、雁の仲間のヒシクイのことだそうです。

江戸時代は制限されていた雁の狩猟ですが、明治以降は雁が狩猟の対象となり、乱獲によって生息数が大幅に減少しました。そのため、1971年に国の天然記念物に指定され保護されるようになりました。明治以降の日本は、こうした点でも何かと問題がありました。

 

ちなみに、「落雁(らくがん)」という和菓子がありますが、この名前の由来は、雁が降りる姿を言葉として表現したものだそうです。また、小江戸と呼ばれる川越の城、川越城は、又の名を「初雁城」と呼ばれていて、今でも「初雁」の地名が残っています。この辺りのお話しについては、また別の機会に設けたいと思います。

 

 

おはようございます。日本のニュースでは、神奈川県座間市での猟奇殺人の事件でもち切りです。こんなニュースが新聞の一面をかざり、国際的なニュースが脇に追いやられる報道の在り方にも問題がありますが、こんな社会になっている日本にも嫌気がさしてきます。この先、日本はどうなっていくのでしょうか。

 

さて、本日からは10月の年中行事に移りたいと思います。先ずは10月の和風月名「神無月(かんなづき、かみなしづき)」について紹介致しましょう。

 

俗に、旧暦10月には、八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に集まり、男女の縁結びの相談をするため、各地で神が不在となるので「神無(かみなし)月」と呼ばれ、逆に出雲地方(島根県)では「神有(かみあり)月」と言うようになった(『下学集』、『奥義抄』)、と広く信じられています。今年4月に松江で行われた「日中経済知識交流会」での溝口島根県知事の挨拶の中でも、このことが紹介されていました。しかし、この話はあくまでも俗説に過ぎないということです。

 

『日本書紀』雄略紀に「盂冬作陰」という記述があり、これを「カムナヅキノスズシキツキ」と訓ませています。また、『万葉集』では、10月を「カミナヅキ」、或いは「カムナヅキ」と読ませる歌が5首あります。

 

「十月(かむなづき)時雨の雨に濡れつつや君が行くらむ宿か借(か)るらむ」(巻二十、問答の歌、三二一三)

「十月雨間(あまも)もおかず降りにせばたりしの里の宿か借らまし」(巻二十、問答の歌、三二一四)

 

5首のうち上の2首が特に有名ですが、ここから神が不在の月なのか、或いは神の月そのものを意味するのかは全く分かりません。そもそも「カミ」が「神」に由来する否かも不明なのです。

 

10月を「神無月」とする語源については、順徳天皇(順徳院)が著した歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』に「十月 かみなづき 出雲国には鎮祭月という」とあることから、昔からこの「神無月(かみなしづき)」説が有力とされてきました。しかし、これには異説も少なくありません。

 

「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)崩(かく)れ供(たま)ふ月なれば申すなり」として、天照大神(あまてらすおおみかみ)などの父である伊弉諾尊の命日にちなむとする説(『世諺問答(せいげんもんどう)』)、10月は雷の鳴らなくなる「雷なし月」とする説(『語意考』)、更には「神嘗月(かんなめづき)」、「神祭月(かみまつりづき)」または「神の月」が語源とする説(『和訓栞』、『東雅』)などがあります。また最近では、10月は翌月の「新嘗(にいなめ)」の準備として新酒を「醸(まも)す月」、すなわち「醸成月(かみなんづき)」の意味で、「神無月」を当て字だとする説(『大言海』)もあります。そして、「カミナヅキ」の「ナ」は「無」ではなく、古語の「ナ」は「ノ」に通じるとの解釈から、「カミナヅキ」は「神ノ月」とする説もあります。

 

平安時代から江戸時代にかけての書物に示された諸説ある中で、一般的には「神嘗月」の意味と考えるのが妥当ではないかと言われています。

 

高見澤

 

おはようございます。今日から11月、寒さも一段と増し、冬に向けた準備が進む季節となりました。私の仕事も1120日からの日本経済界の訪中団派遣準備で佳境に入っていきます。

 

さて、本日は長月の最後のテーマとして、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」について紹介しておきたいと思います。曼珠沙華は「彼岸花(ひがんばな)」とも言われ、毎年秋の彼岸の頃に、田んぼのあぜ道や人家の周囲、墓地などに、燃え盛る炎のような赤い花を咲かせるヒガンバナ科の多年草です。彼岸花のほかにも、「死人花(しびとばな)」、「捨て子花」、「石蒜(せきさん)」、「天蓋花(てんがいばな)」、「天涯花」、「幽霊花」、「かみそり花」などとも呼ばれています。「彼岸」については、すでに春の彼岸のところで紹介しているので、ここでは特に触れません。

 

この曼珠沙華は他の花とは異なる独特の咲き方を見せます。毎年、夏の終わり頃から秋の初めにかけて、高さ3050cmの花茎が地上に突然現れます。1日目に芽が出ると、2日目には20cmも伸びるというのですから、その成長の速さには驚かされます。花茎には葉も節もなく、その先端に苞に包まれた花序が一つ付きます。5日目には蕾が赤く色付き、7日目には開花します。花は長い雄蕊と雌蕊をもつ赤い6弁の花を数個輪状につけます。曼珠沙華は赤い花が一般的ですが、白や黄色の花を咲かせるものもあります。突然姿を現すことから、幽霊花などと言われるのかもしれませんね。

 

つまり、発芽から開花まで1週間という短い時間で突如現れることになります。そして、また1週間も経てば花も茎も枯れ、今度は球根から緑の葉がすくすくと伸びてきます。冬になり、周りの植物は枯れてしまいますが、曼珠沙華のたわわに茂った葉はそのまま冬を越し、春になると光合成による栄養素を球根にため込み、夏には葉を枯らして休眠期に入ります。そしてまた秋には、秋雨をたっぷり含んでから、急ピッチで姿を現し、再び花を咲かせるというサイクルを繰り返すのです。

 

日本では北海道から琉球列島まで見られ、自生ではなく、ユーラシア大陸東部から伝来してきたものと考えられています。しかし、稲作伝来の際に、土とともに鱗茎が混入して広まったのか、或いは有毒性、薬効を有することから敢えて持ち込まれたものか、その真偽は確かではありません。

 

曼珠沙華は全草有毒で、特に鱗茎にはリコリンやガランタミン、セキサニン、ホモリンコンなどのアルカロイドを多く含んでいます。誤食した場合、吐き気や下痢などの症状を起こし、酷い場合には中枢神経の麻痺を起して死に至ることもあります。その一方で、鱗茎は「石蒜」という名の生薬としても使われ、利尿や去痰の効能があるようですが、やはり有毒であるため素人が民間療法として使うのは危険です。有毒成分の一つであるガランタミンはアルツハイマー病の治療薬としても利用されているようです。

 

この花が田んぼのあぜ道や土手で見かけることが多いのは、有毒の球根をそこに植えることで、モグラやネズミが穴を開けることを防ぐことができると信じられていたからです。また、曼珠沙華の根茎は比較的強度が保たれることから、あぜ道や土手に植えられたとも言われています。墓地に咲くもの、昔、遺体を土葬していた時代に、その遺体を動物に掘り返されないために曼珠沙華を植えたものと考えられています。

 

そんな毒を持つ曼珠沙華ですが、実は非常のときの保存食として使われていたというのですから驚きです。この植物に含まれるアルカロイド系の毒物はいずれも水溶性ですから、「水晒し(みずさらし)」という方法で有毒成分を取り除き、そこから良質のデンプンを得ることができます。先ず、鱗茎を臼などの容器に入れつぶし、それを水でよく洗うことで有毒成分を取り除きます。流水を利用して数日間ほど晒すと、毒が完全に抜かれます。水で十分に晒されたデンプンを乾燥させれば、保存食の出来上がりというわけです。食料が尽きいざという時の非常食ですから、そう簡単に食べられては困るし、かと言って身近になければいけません。有毒性で、どの有毒成分が簡単に取り除かれ、しかも生活に密着した場所に群生する曼珠沙華は、格好の植物だと言えたのでしょうね。

 

曼珠沙華は、古代インドのサンスクリット語では「Manjusaka(まんじゅさか)」、「天界に咲く花」という意味だそうです。おめでたいことが起こる兆しとして、赤い花が天から降り注ぐという仏典の記述に基づいているようですが、実際に仏教でいうところの曼珠沙華は「白くやわらかな花」とされ、彼岸花と呼ばれる曼珠沙華とは外観が似ても似つかないものだそうです。ちなみに学名の属名「Lycoris(リコリス)」は、ギリシャ神話の女神で海の精であるネレイドの一人「Lycorias」に由来するものとされています。また、韓国では花と葉が同時に見られることがないので「相思華」と呼ばれています。「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味だそうです。

 

高見澤