東藝術倶楽部瓦版 20171108:六日の菖蒲、十日の菊ー「残菊の宴」

 

おはようございます。先週日曜日、末娘の学校の課題で秋を探しに、江戸散策も一部兼ねて靖国神社と江戸城田安門(北の丸公園、武道館)を散策しました。銀杏をはじめとする木々の紅葉が始まり、秋到来という東京都心ですが、実は昨日が立冬で、暦の上では冬になってしまいました。靖国神社では「菊花展」が開催されており、見事な菊が展示されていました。

 

ということもあり、本日のテーマは「残菊の宴」です。残菊の宴とは、平安時代以降、旧暦10月5日に宮中の年中行事として、「残菊」を鑑賞しながら催された酒宴のことで、詩を詠んで興じていました。この行事は江戸時代まで続いていました。

 

以前、長月の年中行事で旧暦9月9日の「重陽」の時に、宮中では「観菊の宴」が催されていたことは既に紹介した通りですが、更にこの10月5にも残菊を鑑賞する行事が行われていたのです。また、何らかの理由により、重陽の節句を祝うことができなかった場合にも、その代わりとして残菊の宴が行われていたようです。

 

「残菊」とは、晩秋から初冬まで咲き残っている菊花のことで、俳句では秋の季語となっています。一般的には重陽の節句を過ぎた菊を指し、「残り菊」、或いは「十日の菊」とも言われていました。「六日の菖蒲、十日の菊」という言い方がありますが、これは端午の節句(5月5日)の翌日の菖蒲、重陽の節句(9月9日)の翌日の菊、という意味で、時期が遅れて役に立たないことの例えです。

 

菊に関連して、東京浅草の浅草寺では、重陽の節句の時に「菊供養」が行われます。新暦では1018日頃で、毎年10月中旬から11月中旬に浅草寺観音堂で行われる浅草観音祭りの行事の一環として行われるものです。この日、大僧正をはじめ僧全員が観音堂で菊花を供えて供養します。参詣者は菊花を仏前に手向け、すでに供養された菊と取り替えて家に持ち帰り、病難・災難除けにします。当日は金竜の舞も披露されるなど、境内は終日にぎわっています。

 

菊はキク科の多年草で、日本を代表する花の一つです。主に秋に咲き、花の形や色などにより、非常に多くの品種があり、大きさにより大菊、中菊、小菊に大別されます。原産地は中国で、その歴史は3000年以上になると言われています。「四書五経」の『礼記(らいき)』に「鞠」という植物が登場してきますが、これが「菊」であるとみられています。古来、漢方薬としても用いられ、『神農本草経』には「軽身耐老延年」とあり、健康長寿としての効用があるとされます。

 

中国で菊の栽培が本格的に始まったのは梁の時代(502557年)、即ち6世紀頃で、唐の時代(618907年)に品種改良が進みました。菊が中国から日本に伝来したのは平安時代の8~9世紀頃とされ、日本でも昔から栽培されてきました。日本で品種改良が大きく進んだのは江戸時代で、観賞用のほか、食用にもなります。秋になると、各地で菊花展が催されます。

 

後鳥羽天皇〔治承4年(1180年)~延応元年(1239年)〕の時代、文治元年(1185年)に、天皇家の紋章として菊の花が使われ、明治2年(1869年)に大政官布告で十六花弁の紋章が正式に定められました。日本人にとっては、何かと親しみのある花です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年11月 8日 10:00に書いたブログ記事です。

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