東藝術倶楽部瓦版 20171114:亥の子節供は夕節供-「亥の子の祝い」

 

おはようございます。今朝は、早朝懇談会に出席するために、ホテルニューオータニに来ています。大手企業の役員とともに朝食をとりながらの勉強会です。開始までに時間があるので、今日もメルマガをおおくりしたいと思います。

 

さて、本日は「亥の子(いのこ)の祝い」について紹介したいと思います。亥の子の祝いは、単に「亥の子」、または「玄猪(げんちょ)」とも呼ばれますが、一般に「亥の子」というのは、旧暦10月の亥の日の亥の刻を指します。

 

猪の多産にあやかり、亥の月(10月)の初めの亥の日の亥の刻(午後9~11時)に、新穀でついた亥の子餅を食べ、無病と子孫繁栄を祈る年中行事が亥の子の祝いです。ただ、10月の亥の日といっても二回、または三回あり、江戸時代には初亥の日は武士、第二の亥の日は農民、第三の亥の日は商人というように分かれていたようで、商人中心の大坂では商人が第二の亥の日を祝っていました。また、「亥の子節供は夕節供」という里諺(りげん)にもあるように、子供たちの行事も含めてすべて夜行われます。なお、関東・東北地方では、1010日の夜に行われる「十日夜(とおかんや)」の行事がこれにあたります。

 

亥の子の祝いは、もともとは中国から伝わった行事で、日本で始まったのは平安時代の頃と言われています。宮中では、この日に亥の子の形をした餅(「亥の子餅」)を献上する儀式があり、これが次第に民間でも行われるようになりました。亥の子餅は「玄猪」ともいい、室町時代には、白、赤、黄、胡麻、栗の5色の餅でしたが、近世には小豆の入った薄赤色の餅となり、それがやがて牡丹餅となりました。

 

亥の子の祝いが行われる旧暦10月上旬は、ちょうど寒くなる時期でもあるからでしょうか、江戸時代の江戸市中では、この日に炉や炬燵(こたつ)を開き、火鉢を出し始める習慣があったようです。亥は陰陽五行説では「水」にあたり、五行相剋で「火」に強いとされています。そこで、亥の日に炬燵を出したり、囲炉裏に火を入れたりすると、火災から逃れられると信じられていました。

 

またこの季節は米の収穫が終わる頃でもあり、稲刈りが無事に終了したことを田の神に感謝する収穫祭が、特に西日本では盛んに行われており、農村ではこの田の神として亥の子の神を祭る行事を収穫祭としていたところが多かったようです。関西では「女の子祭り」、「女の子節供」として行われています。

 

中国地方などでは、2月の初めての亥の日も「春亥の子」としてお祝いをする風習があります。神がこの日に田に降り、10月の亥の日に帰ると考えられています。亥の子の神は、春に田に降りて稲の生育を見守り、秋の収穫の後に神の世界に帰るというわけです。

 

亥の子の祝いの行事として、子供たちが新わらや石などを縄などで巻いて棒状にしたものを手に持って、村の家々を回り地面を叩く「亥の子突き」という風習が残っているところがあります。「亥の子餅をつかん者は鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を産め」などと唱え、道すがら餅、お菓子、お小遣いなどをもらって歩きます。地面を叩いて歩くのは、おそらく大地の生産力を高めようという呪術的な意味合いがあったのではないかと言われています。

 

亥の日には、田畑に入ってはならないという言い伝えもあり、これは亥の子の神が農作物の神として信仰されていたからだと考えられています。自然の生産力を無視した農薬・化学肥料漬けの現代農業の在り方は、作物を生み出す土地に対する冒瀆以外の何物でもありません。生かされている大地に対し、常に感謝の気持ちを持ち続けることが大事です。そして、その気持ちは態度で示すことで、はじめて活きてくることを忘れてはいけません。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年11月14日 09:36に書いたブログ記事です。

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