東藝術倶楽部瓦版 20171117:川に囲まれた小江戸の風流ー「川越祭り」

 

おはようございます。いよいよ来週月曜日から日本経済界の大型訪中ミッションが始まります。先日の2回の日中首脳会談を受け、比較的良好な雰囲気の中での中国訪問となるわけですが、今回の中国側との交流の中で、どのような成果が生まれるか、期待が高まるところです。事務局として動き回る私の姿も、ニュースの映像の中でみられるかもしれません...。ということで、来週いっぱいは本メルマガもお休み致します。

 

さて、本日は「川越祭り」について紹介したいと思います。川越祭りは、毎年1014日に氷川神社が執行する「例大祭」と、その直後に行われる「神幸祭」及び「山車行事(祭礼)」から成る川越地方で最も盛大な祭礼です。川越市の人口35万人の倍の70万人の見物客が集まると言われています。この川越祭りの特徴は、「大江戸天下祭り」と呼ばれる「赤坂山王祭り」と「神田明神祭り」の祭礼を、そのまま真似たものと伝えられています。360年を超える時代を経て、川越独特の特徴を加えながら発展してきています。平成17年(2005年)には、「川越氷川祭の山車行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

川越祭りの神幸祭は、慶安元年(1648年)に、当時の川越藩主であった松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことが始まりとされています。また、慶安4年(1651年)からは華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、町衆も随行するようになりました。この祭祀、祭礼が川越祭りの起源となったようです。当初の神幸祭は、氷川神社の神輿行列が渡御(とぎょ)し、氏子域の「十ケ町(喜多町、高澤町、本町、南町、江戸町、志多町、多賀町、鍛冶町、志義町、上松江町)」が仮装行列などの練りものの附祭り(つけまつり)で供奉(ぐぶ)していました。

 

元禄11年(1698年)、十ケ町の一つである高澤町が江戸の祭礼に習って、初めて踊り屋台を披露し、それが他の町にも広がり、それぞれの町が山車や屋台を曳き出して神輿のお供をするようになりました。山車や屋台の上では、流行りの歌や踊り、祭囃子が行われ、近郷の人が集まる賑わいを見せました。その後、江戸の祭礼で山車が主役となったのを機に、天保15年(1844年)に十ケ町の山車はすべて一本柱形式に統一され、勾欄の上に人形を載せる今の形になりました。これが「江戸型山車」と呼ばれる山車で、川越商人の財力を背景に製作されたのです。

 

川越祭りの山車には四輪のものと三輪のものがあり、その多くは囃子台が水平方向に360度回転する作りになっています。上段には能や雅楽、神話、英雄などを題材にした人形が載せられています。こうした華麗な人形は江戸時代後期の名工の作と言われています。山車の後方と鉾と呼ばれる部分は二重構造になっており、上下に可動します。元々は江戸城の城門をくぐるための仕組みとされていますが、現在では電線などの障害物を避けるのに役立っています。山車の操作や解体など、今でも「職方」と呼ばれる職人の技がこの祭りを支えています。

 

正調江戸囃子が響く中、豪華絢爛な山車29台が市中を曳き回され、夜遅くまで賑わいます。祭りのクライマックスは午後6時半頃から9時頃まで行われる「曳っかわせ」です。山車どうしがすれ違う際に、囃子の儀礼を打ち交わす迫力のある囃子の競い合いが観られます。

 

大江戸に対して小江戸(こえど)と呼ばれる川越は、その語源ともなった入間川などの川に囲まれた城下町です。新河岸川(しんがしがわ)の舟運によって江戸の風流や風俗がリアルタイムで入ってきました。そんな姿をどことなく漂わせる川越の街並みです。

 

高見澤