東藝術倶楽部瓦版 20171218:一陽来復の節目に湯を献じる-「遠山の霜月祭り」

 

おはようございます。今年も残すところ半月を切りました。アッという間の1年でしたが、公的・私的ともに事多き1年であったことは間違いありません。今週金曜日には筑波大学で講義、週末の土日は中国から300名の政府・企業関係者が来日し、トータル800人規模の日中省エネ環境総合フォーラムが開催され、今その準備で大忙しです。日本からは世耕経済産業大臣、中川環境大臣が参加し、中国側からも閣僚級の要人が来日するので、役所もピリピリ、警備も半端ではありません。2カ月連続での大イベントに、私もかなり疲れが溜まっているのが身体でもよく感じています。

 

さて、本日は南信州で行われている「遠山の霜月祭り」について、紹介したいと思います。この祭りは、遠山郷(飯田市南信濃と飯田市上村)に伝わる古風な湯立ての神事・神楽です。遠山郷の各集落の神社12カ所(13社)で、それぞれ日を違えて次々に行われます。例えば、中郷・正八幡宮では12月第1土曜日、上町・正八幡宮では1211日、程野・正八幡宮では1214日、下栗・捨五社大明神では1213日、木沢・正八幡神社では12月第2土曜日といった具合です。そして、国の重要無形文化財にも指定されている南信州を代表する祭りとなっています。

 

遠山の霜月祭りは、その名の通り江戸時代には旧暦11月に行われていました。今は新暦12月に開催されるので、それほど時期にズレがあるようには思えません。実際に冬至は旧暦11月、新暦では1221日頃です。冬至は1年のうちで最も昼が短く、夜が長くなります。日が短くなり、緑だった山々の木々も紅葉、やがて葉を散らし、気温も低下し、山里にも霜や雪が降り積もり冬を迎えます。古代の人々は、こうした自然現象を太陽の光が弱まり、あらゆる生命の力が衰える時期であると考えていました。そして冬至を過ぎると一転して日が長くなり始め、太陽が復活再生すると考えました。この「一陽来復(いちようらいふく)」となるこの節目に、諸国の神々を招いて湯を立て献じ、自らも浴びることによって神も人も生まれ変わるという信仰を伝えるものとされています。しかし、この祭りがいつから行われていたのかは定かではありません。地元の伝承では平安時代の終わりとも、鎌倉時代とも言われています。

 

その一方で、次のような言い伝えも残っています。江戸時代の初めに遠山郷を治めていた遠山氏の三代藩主・遠山景重のとき〔元和4年(1618年)〕に相続争いを理由に幕府によって改易になるという事件が起きます。この争いは領民をも巻き込んで百姓一揆にまで発展、遠山一族は領民によって殺されてしまいます。改易の直後、あるいは寛文年間(1661年~1672年)に疫病が大流行する事態が発生すると、村人たちはそれが遠山一族の怨念による祟りだと考え、怨霊を鎮めるための儀式を加えたとのことです。

 

古くは、この祭りの夜に限って男女の野合が許されていたため、「かつぎ祭り」、「木の根祭り」などとも呼ばれています。また、陰暦霜月に行う収穫が終わったことを祝う祭りであることから、祭神・氏神は荒神が多いとされています。

 

祭り自体は、神前で湯を沸かし神楽が行われた後、舞いながらその湯を人々に掛けます。これを「湯立て」と言います。神職が熱湯を笹の葉に浸し、それを自分の身体や参拝者にふりかけます。穢れを祓い清める力が湯にあると信じられ、これが神楽と融合して芸能化しました。

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年12月18日 10:26に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20171215:年1回の逢瀬を楽しむー秩父夜祭り」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20171219:臘八の暁に...「成道会」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ