東藝術倶楽部瓦版 20180104:楽市・六斎日から始まった世田谷ボロ市

 

新年明けましておめでとうございます。皆さん、年始年末は如何お過ごしだったでしょうか? 私はといえば、年越しは佐久の実家で過ごしましたが、年末は中国のメディアから頼まれた原稿を仕上げ、東京に戻ってからは多少は映画観賞をしたものの、月刊誌の校正作業と、中々仕事から脱することができませんでした。今日は初出勤日、気持ちも新たにして、仕事も生活も楽しんでいきたいと思います。

 

さて、今年最初のテーマは「世田谷ボロ市」です。年も明けましたが、まだまだ師走の話題が尽きませんので、しばしお付き合いいただければと思います。

 

世田谷ボロ市は、毎年121516日と年明けの1月1516日の年2回、東京世田谷の旧大山街道(元代官屋敷付近、現在の世田谷1丁目)に開催される大イベントです。700店以上の露店が並び、1日に約20万人もの人出で賑わいます。

 

このボロ市ですが、始まりはかなり古く、安土桃山時代まで遡ることができるそうです。当時、この地域を含む関東を支配していたのは小田原城主の北条氏政〔天文7年(1538年)~天正18年(1590年)〕です。天正6年(1578年)、氏政は世田谷新宿に「楽市」を開きました。楽市というのは、「楽座」とともに、戦国時代から近世初期にかけて、各地の戦国大名が城下町など支配地の市場で、そこを繁栄させるためにとった商業政策の一つで、特権や市場税を廃止して、自由な行商活動を認める場のことです。毎月1日と6日の月6回開いたので、「六斎日(ろくさいにち)」とも呼ばれていました。その後、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされます。江戸時代に入り、世田谷城が廃止され、世田谷新宿は城下町としての存在意義が薄れ、次第に衰えて六斎日は自然消滅していったそうですが、それでも細々と市は続いていたようです。

 

寛永10年(1633年)、世田谷領二十ヶ村は彦根藩・井伊家の所領となります。世田谷領代官に大場盛長が任命されると、盛長は領内の住民が無事正月を越せるようにと、物々交換の市を立て、不要な物を売って年越しの資金を捻出できるようにさせました。それが先の六斎日と重なり、これがこのボロ市の原型として、その名前の由来にもなっているようです。記録によれば、ボロ市に並べられたのは古布、古下駄、古道具の類だったと言われています。

 

今は、昔に比べ規模は小さくなったと言われていますが、それでも日用品、衣料品、植木などの店が軒を連ね、大いに賑わいをみせています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年1月 4日 10:51に書いたブログ記事です。

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